• ベストアンサー

現在時における《復活》について

arayata333の回答

回答No.25

罪の問題は、そちらがpremeapeさんにコメントされているのと同じで、私にしても解りきってしまった過去の問題とかいうのでは全くありません。 「べき」の世界も、「恥」の世界も、まだまだ未熟者で知らないことだらけ、おそらく気づいていないことだらけの人間であることを感じます。 “赦すことができる”とい言っても、それはあくまで、心の中で理解してあげられていることを意味するのであって、 表向きには怒ってあげるべきときとかもあったりすると思います。  それどころか殴りつけて、傷害罪になってでも相手を恥じ入らせる覚悟が必要な時と場合とかもあるかと思います。 そのへんがすべてわかるなんていうような人間では無いということです。   いまだにして弱い木の葉みたいな自分でしかないです。 今は強いところもあると思ってもいますけどね。 そちらとは文体がかなり違っていますし、私は表現のジャンルを総合的に知ってたりしますが、 行き着いた考え方がよくよく知ってみれば似てることには、 私も驚いてしまうことがあります。 * ★「空観の思想」 でも、これも結論となると同じなのかも?知れないのですが…、 空観を 何故 因果を理解する知恵のひとつとして捕らえるのかはよく解りません。 因と縁についての考えにしても、結局抽象的に因果を大きく捕らえているというだけのことで、 それで因果自体をなんら解明してるわけでも解明の方法をほんの少しでも明らかにしてるわけでもないのに、 それがなんで人を赦す大きな力となるのかは 不明確です。 すべてのものがナノ秒にても移り変わってゆくという抽象論でもあるのですよね。 無常観ですか。    これにしても縁起論にしても、 私にはこれは因果を具体的にその大切な観点の何がしかを明らかにするすべをなんら直接持ってるわけではなくて、   それは物事を大きな観点から見つめなおす必要が《文明人には無理やりにでも言葉を極端な形で表現してでも》あるから その方法のひとつとしてその思想が生まれたのだとしか私には思えないのです。 苦の解決の問題としてそれを掲げる人もいますが、 すべてが過ぎ去るという考えは現実的にも力になり うまくそのコツを捕まえてゆくと、ほんとうに苦を苦として感じないほどにまで成ることは不可能ではないと 私も思っています。 ある似た体験があるからです。 でも、これにはおそらく大変な修行も同時に伴うもので、それを意識してやろうとしたら、努力はむしろ無理につながってしまい、逆に苦しみから目をそらすことや 恐怖の世界に陥り、精神をむしろ破壊していってしまうと思います。 これは あくまでも「大きな視点から」少しでも「自他を見つめる目」という人間の本性をとりもどす一助にすぎない思索の世界ととらえるべきかと思うのです。   そしてそれは大きな仏旅(涅槃への道)の力のひとつにはなるかと思うのです。 ですから 逆にこの思想を、ブッディズムの唯一有効な思想というのは考えられないことです。  その他にもたくさんの仏旅への道程が説かれていて気づきやヒントとなるものはたくさんあるかと思います。 ともかく これが涅槃を直接意味するということも とても私には考えられません。 理解不能です。 (空観が抽象的だからといって、底が浅いと言ってるのではないです。 色即是空にしても、言いたい意味は深いでしょう。情欲論とも関わる解釈も出来たりします。  でもそれも抽象的な表現に止まってしまってるのではないかという疑問は起こります。 「見つめる目」あるいは「見つめる知恵」の世界としてそれを捕らえることからはじめなければ 解釈も深めることが出来ないのに、そのへんが出来ていないというか真剣じゃないというか  そこが何かよく解らないところなんです。) しかし、涅槃がそちらの言われる復活とか 私の書いていますごくあたりまえの復活の概念と関わるのは そのとおりだと思うところ、 というよりだからこそ、  仏教についてもここに触れ始めてみたのですが、  これも“仏教徒が 復活について語らない理由は 神の概念がそこに無いから”では答えとなりませんか?という疑問がそちらに対して起こってしまうところです。 仏陀は 「こんなすごい命の体験(涅槃)」がここに存在してるのは、神無しには考えられないということで与えられた存在の意味をご自身はそのように解きほぐしていたかもしれません。 でも それ以前に仏陀という人の命の前後に神という言葉が無ければ、 そのすごい体験を誰よりも分かち合わないではいられなくなったとしても、神の思索はまったく仏陀ご自身無かったことも考えられます。 なによりも神という言葉が仏典に全く出てこないところを、その弟子の仏旅の途上の思索に「復活」の概念についての思索を求めても無理かと思います。   現代ではもちろん不可能な対話の世界ではなく現在時ということであればなおのこと対話すべき地点だと私も思いますが、 それだけの読解力があるブッディストがちょうどここを訪れていないと無理かと思いますし、 そのへんはまさに優しい文は必然的に必要なところかと思うのですが、どうでしょうか?    私が感じる仏教徒への疑問は 本気なのかということだけです。 本気の仏旅なのか?という疑問はそこここに感じる時があるのです。  そちらの厳しい姿勢にては、それは不誠実で真剣さのないニセの仏旅を埋葬しなければ そのニセ者は後をたたない ということなのでしょうが、 仏教自体には 涅槃への旅のヒントはたくさんあると思っています。 * 今回は「情欲論」のほうは はしょります。 * 日本感性教育学会の この命に関する見解も奥が深くて面白そうですよ。 機会がいただければ 私流にですが紹介してみます。 一回限りの生という考えの中に、いかにひとりひとりの人格を尊重するか、その根拠をかなり深い地点に見ているからです。 その中にひとつ、 この現在時における 復活につながる精神の世界に関してとてもおもしろい考えの世界があることを見つけました。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  直前(No.24)のお礼欄にも書いたのですが どうも 《復活論 特に 現在時に絞ったそれ》については 一たんその議論の手前にまで来たと思っているのですが それ以上は なかなか 進まないのではないか こう思うようになっています。  けっきょく 覚りや信仰の極致の問題に 議論としては 足踏みしつつ 終わらざるを得ないのかも知れないと思えます。  逆に言うと そういう議論でよいとも思えます。そもそも 幸福論の哲学は そこに行き着くわけですから。  ブッディスムを探究されるのでしたら いろんな切り口を打ち出して来てくださるとよいと思います。  《赦す》問題にしても その理論を展開していただくとおもしろいのではないでしょうか。  わたしとしましては 空観=縁起共生観のほかに いまは 追究しようという関心が薄れてきてはいますが。もっともっとおしえて欲しいのですが わたしが挑戦的で どこか ブッディスムをばかにしたところがあるので なかなか 切ないところです。  涅槃にしても どうも 暗いなぁと思ってしまいます。要するに 死 と言っているのでしょう? 不死の境地を 他方では 掲げているようですが。    少々 足踏み状態に陥りました。まとまりのない恰好ですが あしからず どうぞ。  

関連するQ&A

  • いま・ここにおけるわれの《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は     決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇    くことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたし    のところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い    出さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わた    しをお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えに    なった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させること    である。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命    を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだか    らである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから歴史を始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。

  • いま・ここにおけるわれの《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は     決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇    くことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたし    のところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い    出さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わた    しをお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えに    なった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させること    である。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命    を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだか    らである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから歴史を始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。  1. すべてを 終わり=目的から 始める。  2. では 終わりは どこにおくか。  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

  • 神の意志は非合理か?

    理性と意志が対立するのであれば、 神の意志というのも非合理であるわけで、 これが気になっています。 ヨハネによる福音書6章40節 ショーペンハウアーとかニーチェとかの意志の哲学が ドイツ語なので、ドイツ語がわかる人はwilleといったときに 非合理だと思うのかどうか? あとついでに、フランスのルソーも一般意志とか特殊意志とか いっているみたいですが、フランス語の意志も非合理なのでしょうか?

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     あえてこの主題を ふたたびですが 問います。  かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。      *  健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。   1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。   2. では 終わりは どこにおくか。   3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。   4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。  (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。       *  さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。  しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。  前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。  あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか?  みなさんの知恵を拝借となります。

  • エホバの証人は 神を信じているか?

     表題のとおり 特定の宗派のことがらについて問うものです。  その問いを ヨハネ福音の解釈をとおしておこなおうとします。  次のくだりの解釈を示してください。特に《人間の意志によってでもなく》と《神によって生まれた》とに焦点を当てています。  ▼ (ヨハネによる福音書 1:1~18  新共同訳) ~~~~~   http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  11: 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。  12: しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。  13: この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。  △(新世界訳=エホバの証人の聖書) ~~~~  http://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E8%81%96%E6%9B%B8/nwt/%E5%90%84%E6%9B%B8/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/1/  11: 彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった。  12: しかし,彼を迎えた者,そうした者たちすべてに対しては,神の子供となる権限を与えたのである。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからである。  13: 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち:  ▼ (ヨハネ福音 1:13) ~~~~~~~~~~~  ▽ (1:13)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Jhn&c=1&t=KJV#s=t_conc_998013   οἳ  οὐκ  ἐξ  αἱμάτων  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  σαρκὸς  οὐδὲ  ἐκ  θελήματος  ἀνδρὸς  ἀλλ᾽ ἐκ  θεοῦ  ἐγεννήθησαν  ▽(KJV 1:13) Which were born, not of blood, nor of the will of the flesh, nor of the will of man, but of God.  △(新世界訳) 彼らは,血から,肉的な意志から,また人の意志から生まれたのではなく,神から[生まれた]のである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが この《人間の意志からではなく 神によって生まれた》というくだりは 《感性や理性ではなく・つまりは感じたり考えたりすることによるのではなく 信じること・すなわちその名を受け容れること》を言っており つまりは信仰のことだと考えられます。《思考に非ず》なのだと捉えられます。  しかるに エホバの証人の側では 《信じる》をたとえば次のように用いています。  △ (エホバの証人はイエスを信じていますか) ~~~~   http://www.jw.org/ja/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%92%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B/    はい,信じています。  イエスは,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。(ヨハネ 14:6)  わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。(ヨハネ 3:16)  わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  とはいえ,イエスが述べた「父はわたしより偉大な方」という言葉もそのとおりに受け止めています。(ヨハネ 14:28)  イエスが全能の神であるとは信じていないため,イエスを崇拝することはしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 端的に言って 問題とすべきは 次です。:  (あ)  △ わたしたちは,イエスが天から地上に来て,完全な人間としての命を贖い(あがない)の犠牲として差し出してくださった,という信仰を抱いています。(マタイ 20:28)  ☆ これは あくまでもオシエです。信仰ではありません。そして 《天から地上に来た》というのは 経験事象になります。すなわち これはその名を受け容れる信仰ではなく オシエの内容を考えることです。この思考としてのオシエを理解し知ったという《人の意志から エホバの証人が生まれた》ことになります。そういうことにしかなりません。ヨハネ福音1:13とは 矛盾です。  (い)   △ イエスの死と復活により,イエスに信仰を働かせる人は永遠の命を得られるようになりました。   ☆ すなわち《信仰を働かせる》のは 《人の意志》です。聖書の言っていることと矛盾しています。  (う)  △ わたしたちは,現在イエスが天で神の王国の王として統治しておられ,まもなく地球全体に平和をもたらすことも信じています。(啓示 11:15)  ☆ こんなことは 経験世界を超えたこととしては 想像であり 経験世界のこととしてなら思考の対象として考えるべきことです。《信じる》とは何の関係もありません。  想像や思考をほどこすということは 《人の意志 または 肉的な意志》であり 決して《神から生まれた》と言えるようなことではありません。聖書とは 矛盾します。  さしづめ以上を問います。どうでしょう。

  • ドイツ語のwilleの意味を教えてください。

    ~~~~~~~~~~~ Denn das ist der Wille des, der mich gesandt hat, daß, wer den Sohn sieht und glaubt an ihn, habe das ewige Leben; und ich werde ihn auferwecken am Jüngsten Tage. http://www.bibel-online.net/buch/luther_1912/johannes/6/#40 ~~~~~~~~~~~~ わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。 1:ヨハネによる福音書/ 06章 40節 新共同訳聖書 ~~~~~~~~~~~~ ネットで無料で読めるドイツ語の聖書で おすすめの物がありましたらついでに教えてください。 ドイツ語のwilleの意味を教えてください。 意味と書くと、意義がどうとかいわれるかもしれないので、 めんどうですが、ドイツ語のwilleがよくわかりません。 新共同訳聖書だと「御心」になっています。 willeを意志と訳してばかりだとなんだか違和感が出てきました。

  • ゲツセマネとは

     ゲツセマネとは  何なのでしょう?  ▲ (マルコ福音14:32-42) ~~~~~~~~~~~   一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。   そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。    ――わたしは死ぬばかりに悲しい。      ここを離れず、目を覚ましていなさい。   少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。    ――アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。     この杯をわたしから取りのけてください。しかし、     わたしが願うことではなく、     御心に適うことが行われますように。   それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。    ――シモン、眠っているのか。      わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。      誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。      心は燃えても肉体は弱い。   更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。   イエスは三度目に戻って来て言われた。    ――あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。      もうこれでいい。時が来た。      人の子は罪人たちの手に引き渡される。      立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  その後の十字架の死および復活は 推移としてそのかたちに関しては 割り合い 分かりやすいと思われます。その前に起こったこのゲツセマネの祈りにかんして ご教示をお願いします。  ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?   何故なら イエスは 自分勝手に(《自分から死ぬのだ》*) 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということが考えられるので。     * 《自分から死ぬのだ》:     ▲ (ヨハネ福音書/ 10章 18節) ~~~~~~      だれもわたしから命を奪い取ることはできない。      わたしは自分でそれを捨てる。      わたしは命を捨てることもでき、      それを再び受けることもできる。      これは、わたしが父から受けた掟である。」      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ この杯を去らせてください。  ☆ についても おしえてください。むろんこれは イエスが人間であるということを表わすと見た上でです。要するに イエスも 泣いたということ。ほかに意味が 考えられますか?  あと思うことは このイケニエは もういっさい必要がないということ。これを示したものと思われますが いかがでしょう?

  • もう復活できない?

    昨年の暮れに職場で知り合った2歳下の男性と1月から付き合い始め、途中1度別れ2週間ぐらいで復活しましたが、また4月の終わりに別れを告げられました。 彼は今まであまり女の子と付き合ったことがなくて女友達も少なめな人で、私はどちらかというと逆なタイプです。 1回目の別れがあるまでは彼の方が不器用ながらも一生懸命に接してくれていたのですが、復活してからはあまり誠意が感じられず。。私の方が歩み寄ってもあまり分かってもらえてなかったような気がします。原因もはっきりしないまま一方的に別れてしまいました。 2週間前に何とか会ってもらえたのですが、ノリなのか本当なのかわかりませんが「本当は大好きだけど○○ちゃん(私)が自己中だから一方的に思ってるのは疲れた」と言われました。。どの辺が?って聞くと「まぁ俺も自己中だからな」というかんじでした。 今はその言葉を信じて私の方から積極的にアプローチしていている段階です。、付き合ってる時にディズニーランドに行きたいと言われていたのに私がめんどくさがって断っていたので、先週誘ってみました。 行く予定日は今日だったんですが、昨日の夜になって泊りに行ってもいい?ってメールが来て「急だからお泊まりはまた今度にしよう」って返事したらメールが来なくなり、さっき「今日は体調が悪くて熱があるからディズニーはまた今度にしよう」と連絡が来ました。 彼はもう私のことを都合のいい女としか見ていなくて、お泊りを断ったからディズニー行かないのかなぁ。。としか思えなくて悲しいです。 すぐに復活とはいかなくても定期的に会って私の誠意を見てほしいと思っています。アドバイスお願いします。