• 締切済み

三身常住は 三位一体とどう違うでしょう

littlekissの回答

回答No.25

こんにちは、brageloneさん。 ●気づくのがおそぃー! (ρ_-)o むにゃ むにゃ "寝る子を起こす" |(><)| キャーッ!コワ。いいの? ひとまず、いいということで… (^O^)/ こんちは。ちょい"休息"充電とばかりに静かな"湖畔"でうとうと、すると…もう起きちゃ如何?とどこからか声が、、、ったくぅー オニ!はい、"解凍"します。"遅い"は"late",一文字ちがえば"lake"。よって、先のお礼欄へ立ち返る。すると…"Thank you,littlekiss-san,for your kind answer."←これは何かい、回答要求か? (|||_|||)。。。うーむ ほでは、ここは正攻法で質問にこたえるべかなと、ようさん見たこともない言葉が並ぶご本を一冊本棚から引っ張りだし読みつつもなかなか先へ進まんのよこれが、いまやっとこさP203あたり、総ぺージ数P310。 ちなみに、引っ張り出してきたご本は… タイトル『生命の海<空海>』 著作者 宮坂 宥勝 梅原 猛 発行所 株式会社 角川書店 ↑ 何かの参考になりますでしょうか? http://www.nirs.go.jp/report/nenj/H7/nenj-251.htm#TAG-03

noname#80116
質問者

お礼

こんにちは littlekissさん。寝てたんかいな。起こさなよかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ §生体多様同時計測法に関する基礎的調査研究 生体放射に関しては、    人体から放射されている各種放射    (生物フォトン、遠赤外線、オゾン、コロナ放電、など) の測定に関する前年度までの調査を基に研究を開始した。実験では、気功との関連で注目すべきデータが得られた。 (放射線医学総合研究所年報・平成7年度 §2.5.1放射線科学研究部) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《人体から放射されている》ものがあった!!!  これは 前々から感じていた。あたかも 自由自在に放射するかのようだと感じていた。  さらに解明して欲しい!!!  女性のあなたには言いにくい電波が 人から出ているのですよ。こんなこと言うと おかしいと思われるだろうが。 宮坂 宥勝の編集した『空海コレクション』を読んだ。 梅原 猛は あまり買っていない。  と言っても この秋から勉強をやり直しているわけで その昔も 専門だったわけではない。ゆえに 先学・先達に学んでいます。  密教はわかりにくいですね。即身成仏 ありましたか。曼荼羅は?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      意識の排泄としての放射線 偉い人が 能力に応じて その偉さに応じて 指導者アマテラスとなることに 問題はない。  そのような人たちは その地位をしりぞくことも うまいはづである。 そうでない場合 そうでなく偉い地位に立った人たちは その地位を保守することに必死である。しがみついている。 その結果は とうぜんのごとく みづからの意識を あたりかまわず 吐き散らす。  意識の排泄が ある程度においてでも とおるとなるならば このとばっちりは まわりの人びとにかかる。  このまわりの人びとも 自分より低い地位の人たちに 意識の排泄をおこなうようになる。 意識の排泄がまわりまわって あたかも境界人間にまで至ったばあい どうなるか。  反撥・反抗 それとも 自滅? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これじゃ わたしも 言いっぱなしかも。

関連するQ&A

  • 第三章 特異な内容のオシエ(宗教) 

     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 《三位一体なる神とは?》の決定版を問い求めたい

     たたき台をに ほかの方の質問への回答をあてます。  【Q:〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?】  http://okwave.jp/qa/q5008585.html  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5008585.html  ☆☆ (回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~  いちど 教条のごとく述べてみます。    父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。  父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。  父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は そしてほかの権能も残らず 十全に子である権能に与えられた。(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。  父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。  子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。  第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神は これらの神のみ心を 人間の言葉で 告知したまうた。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。  ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。父も子も愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった聖霊なる神が 愛であると捉えられる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ほかにも いくつかの回答とやり取りがありますので ここから出発するかたちとしました。  活発な問い求めになれればと思います。

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • さとりとは 動態である。

     にわか仕立ての立論です。  批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。  1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。  3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。  4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?  (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。  5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。  6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。  (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。  (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。

  • ブッダは 絶対ですか

    仏性というのでしょうか それは 絶対の境地なのでしょうか。 それとも 人間であるかぎり ゴータマ・ブッダとて 絶対だとは言えないでしょうか。 あるいは 生命だとか慈悲というのでしょうか そのような普遍的な力とそのはたらきとしてのブッダは 絶対の存在なのでしょうか。 仏教は 絶対という概念をめぐっては どういう立ち場なのでしょう。是非とも知りたいと存じます。ご教授ください。

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?