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三身常住は 三位一体とどう違うでしょう

littlekissの回答

回答No.23

こんばんは、bragelonさん。 ●それにしても 鬼哭寺とは すごい 名前ですね。 ↑ そだね、字面だけ眺めてみると"鬼""哭"と、←むむ、、、 "おに こく?"で、耳で聞いた"こく"を"国のこく"と聞き間違えたら… さあ大変。 "おにのくにのてら"なんて鬼ヶ島のお話へと転ぶ? どこまで転ぶねん!とのご心配はご無用。 そこはそれ、七転び八起き。話を立て直しまして、 "鬼哭寺"と書いて"きこくじ"と読む。 仮名にするとまた感じが変わりませんこと? "戻りたい戻れない気持ちうらはら~" (禁区より) すごい名前の寺なら他にもありましてよ。 その名も"ガンガン寺" 【 第41話 】 http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hyakuchin/041.htm そなんだな、乳だの鐘だの歌だのと、あれこれ織り込まれてるから絞るのにひと苦労。 ひとまず、乳を訪ねて三千里とロシアへひとっ飛び。 鑑賞アイテムその1 http://www2.famille.ne.jp/~choko-h/memory/palnas.htm 【 パルナスの歌 】 ぐっと かみしめてごらん ママの 暖かい心が お口の中に しみとおるよ 甘い お菓子の お国のたより おとぎの国の ロシアの 夢のおソリが 運んでくれた パルナス パルナス モスクワの味 パルナス パルナス パルナス ケーキをパクリ。ゴックン。舌触り。ペロリ。なんか味が違う。。。と、思いつつ、食後の運動とばかりにジャグリングに勤しむ。かばんの中からあれこれ取り出し、おっと、梵(Brahman)これつかっちゃおうと。シャカ、シャカ、ヒョイと。あらあら不思議。またまたケーキが出てきたわ。ハイジのケーキ"アルハンブラ″。ひへぇ~今度はスペイン?Palacio de Alhambra (アルハンブラ宮殿)へ。そういえば、西欧の鐘楼となんかちがうとかどうとかいってたわね。 西欧:内からの刺激で共鳴 東洋:外からの刺激で共鳴 ほい、ほんでもって"鐘"と"鍾"これもよく見りゃ、見過ごしがち。 鑑賞アイテムその2 http://www.nikkeibp.co.jp/style/life/joy/classic/050811_bell/ 鐘とケーキの孔からアハロノフボーム効果とばかりに帰国できなかった人をたよりに歌を探せば…ラフマニノフ~エドガー.アラン.ポー"鐘"。ほでも無数の詩が並ぶところから鑑みて《ピアノ三重奏曲第2番ニ短調 悲しみの三重奏曲》 鑑賞アイテムその3 【第4章 アンドレイ.ルブリョフ】 http://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/4_rublyov/rublyov.htm 白(しろ)き蝶(てふ)の、白(しろ)き花(はな)に、 小(ちさ)き蝶(てふ)の、小(ちさ)き花(はな)に、 みだるゝよ、みだるゝよ。 長(なが)き憂(うれひ)は、長(なが)き髪(かみ)に、 暗(くら)き憂(うれひ)は、暗(くら)き髪(かみ)に、 みだるゝよ、みだるゝよ。 いたづらに、吹(ふ)くは野分(のわき)の、 いたづらに、住(す)むか浮世(うきよ)に、 白(しろ)き蝶(てふ)も、黒(くろ)き髪(かみ)も、 みだるゝよ、みだるゝよ。 『野分』より カーボンナノコイルがどやこやいう話… "変換"したエネルギーのこっちゃで。 http://www.jsim.or.jp/pdf/H17zisedai.pdf http://phi.med.gunma-u.ac.jp/oldlec/ecology.html http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/155/a01.php http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/144/a01.php

noname#80116
質問者

補足

《アンドレイ・ルブリョフの・・・イコン画、『三位一体 (トローイツア)』 を見ると、そこには輝くような平和な光と、透明感あふれる慈愛の気分が満ちている。》(神谷武夫) ――ブッダの慈悲の光は どんななのかな。 《カーボンナノコイルがどやこやいう話…》 ――処理・再利用の前の話。コイルは 電磁波を みづからの中に吸収している。そのとき 容量いっぱいに吸収したままになっているの? 一からおしえてくれないと 分からん。吸収したあと 《変換》しているということかいな。変換すれば さらにさらに どれだけでも吸収できるのでござりましょうか? 人体は電磁波を吸収しますか。吸収したあと どうなりますか。 《ボリショイ スチャースチ ベチェネ ベリョーダ》 ――《ボリショイ スチャースチ〔エ〕》は《大きな しあわせ》であり 《ベチェネ》は 《永遠に》だと思うが 《ベリョーダ》が分からん。 《鐘とケーキの孔からアハロノフボーム効果とばかりに帰国できなかった人》の中に 《ラフマニノフ~エドガー.アラン.ポー》がいるのかいな。  ・《The Aharonov-Bohm effect・・・ is a quantum mechanical phenomenon by which a charged particle is affected by electromagnetic fields in regions from which the particle is excluded.》(Wiki)  ・パルナスは palnas っちゃうよ。ええかげん。ことほど かように 日本のブッディスムも どうも ええかげん。  ・ラフマニノフは 深く重い感じから明るいところへ移っていく曲がよかったけれど。(何だか疾患にかかった医師のために作ったんだったか)。(三重奏曲のほうは チャイコフスキーを悼んでだそうな。曲を聞けば 思い出すかな)。  ・ポーと鐘とは ようわからん。(読んでない)。  ・フランツ・リスト(1811~1886)の「ラ・カンパネラ」――鐘つながりだけかよ。これが 超絶技巧だったっけ。  ・盆に梵鐘;早 彼岸も過ぎて;野分も そんなには来ていない。 さて お返しに困った。困った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ――un monostique(一行詩)――    彼は幸せに免疫でなかった。    ――deux distiques(二編の二行詩)――    私は幸福というものに免疫になろうとして    あなたを貪欲に愛し続けたのだ。    あなたに沿って    わたしは歩く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ブッダでは間に合わなかった。 《戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては全く沈黙した。 それが本当の知識人の良心というものだ。》(神谷武夫)といわれる林達夫がのたまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶望の唄を歌うのはまだ早い と人は言うかも知れない。しかも 私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。だれのために仕事をしているのか 何に希望をつなぐべきなのか それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。 この自分の眼にしっかりと何かの光明をつかむために 何かの見透しをもちたいために 調査室の書棚の前にも立ったし 研究会のテーブルの周りにも腰かけてみた。私には納得の行かぬ 目先の暗くなることだらけである。 いや 実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受けつけられないのだ。無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るものではなくして この脾弱い体質から来る。先見の明を誇ろうなどという気は毛頭ない。そんなものがあればあるで 自分の無力さに又しても悩みを重ねなければならないであろう。 (林達夫:《歴史の暮方――時代と文学・哲学》 昭和十五年六月) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 林は その著書の中で なかなかいいことを言っているが そして戦時中という情況をわたしは知らないで言うのだが こういう沈黙や理知的な対処の仕方では 満足できないと思った。ピンと来ない。日本のブッディスムにも クリスチア二スムにも もう一歩を期待したいきょうこのごろ とか。 お滝さんが出なきゃね。

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  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • さとりとは 動態である。

     にわか仕立ての立論です。  批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。  1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。  3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。  4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?  (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。  5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。  6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。  (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。  (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。

  • ブッダは 絶対ですか

    仏性というのでしょうか それは 絶対の境地なのでしょうか。 それとも 人間であるかぎり ゴータマ・ブッダとて 絶対だとは言えないでしょうか。 あるいは 生命だとか慈悲というのでしょうか そのような普遍的な力とそのはたらきとしてのブッダは 絶対の存在なのでしょうか。 仏教は 絶対という概念をめぐっては どういう立ち場なのでしょう。是非とも知りたいと存じます。ご教授ください。

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?