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頂点を目指すものたち
最高峰の山があり 一つの宗教はよくその山に登るための登山道に喩えられます。 そびえ立つ山の頂上は一つなのでしょうか。 夫々の宗教の道を選び歩むもの また無宗教であっても 同じ一つの頂上で出会うことはあるのでしょうか。 崇き山のふもとに立ち 歩み始めた時と場は違えども 頂上を目指そうとする 志を同じくする者たちへ その想いにはどんなものがありますか。
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- shift-2007
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例えば、日本地図を作ろうとする人が何人かいたとします。 どこから地図を作り始めてもいいはずなので、その人たちは今、自分がいま立っている場所から地図作りをはじめます。 地図を作っている過程で、ある人とある人が同じ地区の地図を完成させたとすると、彼らはそのことに関して共感しあうのではないでしょうか。 宗教の違いとは、地図作りを担当している地区の違いという事じゃないでしょうか。 宗教的な事柄について、ある特定の目的地というものがあるのでしょうか。 広大な土地の地図を作っており、ある部分については同じ地図作りをしている他者との共感が得られる、という事じゃないでしょうか。
- mmky
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「なんだかよく解らなくなってしまいました。」 あの世の価値観は地上の価値観とはまったく異なるものですね。哲学的にどのように考えようが理解できないでしょう。強いて言えばドラえもんの世界に近いですね。つまり「不死、不滅、永遠」という世界ですから永遠に嫌い続けることはできないでしょう! これが 「頂点を極めたものはみんな仲良くやっていますよと言いますが ユダヤ教とイスラム教とキリスト教は頂点では仲良くなれるものなのでしょうか。」への回答ですね。 「宗教に共通点というのはあると思いますか?」 宗教の元は1つです。複数あるわけではありません。元は1つであるが認識力の差が高低を分け、伝道者の個性が宗派を生んでいるだけてですね。その世界に君臨する釈迦大如来の説かれるとおり「深遠」なるものです。また、認識力の差が厳然とピラミッド構造を作ってます。死んだらみんな仏になるなどという「陳腐な思想」が入り込む余地など何処にもありません。こういえば、伝教が何処にいるか想像できるでしょう。天台山は非常に高いが中には谷に転がった者もたくさんいるということです。仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、神道だって山は遥か雲の上にそびえていますよ。遥か雲の上のお方はみな仲良しですよ。どの大学の学長も差はあれ仲が良いが下々の学生は喧嘩ばかりしているという構図と同じですね。
お礼
現代の夫々の宗教の頂点に立つ方達も一堂に会すれば仲がいいものなのでしょうか。
補足
イスラム教とキリスト教とユダヤ教は本来は一つなのだということは納得できます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
山も谷も無数にあります。山は無数にありますから頂上も無数にあります。同じ山でなくても同じ高さの頂上にいる人はどの山の頂上にもいけるのですね。摩訶不思議な世界ですからどの山に登ってもいいのですね。ただ山の高さは決まってますから最初からエベレストを狙うか身近な山を狙うかの話だけですね。例えば宗教や宗派には属してないが各界で立派な仕事をした人もそれなりの山の頂にいてみんな仲良しですね。宗教といっても宗派により山の高さはまちまちですね。谷もありますからね、宗教家であろうが思想家であろうが裁判官であろうが何であれ間違えば同じ谷底にいるということですね。いろいろな山の頂に暮らせる心情をどのように掴むかが個人個人に与えられた課題ですから、宗派に属す必要はないんですが、一方、谷に落ちた時が問題ですね。迎えがないだけですね。少なくとも神仏など信じないあの世などないという考えでさえなければなんとかなるでしょう。 良き師に出会えればそびえ立つ山にも転落しないで上ることができることも事実ですが、本人次第ですしね。末法の世にはそびえ立つ山も現れると同時に無数の谷もありますから難しいですね。どれほどの思いを持っているかで決まりますね。 参考まで
お礼
回答ありがとうございます。 なんだかよく解らなくなってしまいました。 宗教に共通点というのはあると思いますか? 頂点を極めたものはみんな仲良くやっていますよと言いますが ユダヤ教とイスラム教とキリスト教は頂点では仲良くなれるものなのでしょうか。
お礼
ある宗教に帰属していながら戦争は何故なくならないのかなと ふと思ったのです。
補足
そろそろ締めようと思います。 回答ありがとうございました。