• 締切済み

織田信長の楽市楽座

Heartmine9の回答

回答No.2

No.1の方もおっしゃっているように、信長よりも先に六角氏は楽市楽座を行なっていましたし、今川義元も楽市楽座の先駆者でした。 織田信秀は熱田神宮などの宗教勢力を中心と親しく、独占的に油の専売を行い、物流と商売を管理し、自由な物の流れを阻害し、楽市楽座とは程遠い存在でした。 今川から見て、織田家は近隣では最大の守旧派でした。 今川義元から見れば、むしろ、美濃の斎藤や近江の六角氏のほうが好感を持てる存在だったようです。 そのため、今川義元は、美濃や近江に密偵を派遣し、その経済政策を学び、積極的に国政に生かしていました。 また、その姿勢が織田方から見れば非常に目障りな存在であったのです。 織田信長の父、信秀は、生前、自由な市場の開放を目指す今川のやり方に非常に強い敵愾心を持っていました。 今川が自由な市場を民衆に教えることによって、自分たちが独占的に抱えてきた利益や特権が脅かされると考えていたからです。 信秀にしてみれば、自分たちが蓄えた金は治水、街道の整備、築城などの事業の代金として民に対して還元していると考えていました。 ただ、富の源泉である油の独占的販売権など保護された市場は守らなければ、民に施すべき富すら得られないと考えていました。 民衆に富を分割すれば、民はそれを私利私欲、贅沢のために使い、一般の民衆には富は分配されず、一握りの商売のうまい商人だけが利益を得る。 よって、神社など道徳的観念をもった組織が富を独占し、定期的に神社の立替や、地域整備でお金を浪費することで、富を還元する方法がもっとも理想的な市場であると考えていました。 ただ、織田信長は、今川と対立するなか、佐治水軍などから情報を得ており、今川の経済運営に大きく共感していました。 佐治水軍に出入りしている出入り業者などから駿河の経済統治の話しを聞いて、信長は非常に関心しています。 駿河に熱心に通っていたのは、今川義元がよそ者の商売人も受け入れる開放政策(楽市楽座)をとっていたせいです。 他の地域で販売行為をしようとすると闇売りということになり、違法行為としての危険が伴います。 よって、今川義元の経済政策に非常好意的な立場をとっているようでした。 今川義元、織田信長、両者とも、出入りの商人や間者をつかって相手をよく調べており、お互い相手の危険性を強く認識していたようです。 義元は武田、北条などと同盟を結び、織田殲滅に全力をかたむけるようになります。 信長は、無理はせず、敵の領地の青田を刈って経済的に逼迫させたり、砦を作って物流の妨害をしたりという経済封鎖をもって対抗していました。 また、そうした織田のやり方が、今川義元としては、民を虐げる典型的な守旧派に思え、非常につよい敵愾心を持っていたようです。 信長は、義元を強く警戒していたが、反面、その経済政策の聡明さに関心し、その実力を認めていました。 以上の文章が「信長公記」から読み取れます。

参考URL:
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html

関連するQ&A

  • 「楽市楽座」か「楽市・楽座」か

    織田信長の行った、「楽市楽座」についてお聞きします。 この場合の表記は「楽市楽座」が正しいのでしょうか、 それとも、「楽市・楽座」と中に、点を打つのがただしいのでしょうか。 中学校の教科書には、「楽市・楽座」と表記されていました。 あるいは、どちらでもいいのでしょうか。 お教えください。

  • これって・・・? 織田信長の楽市楽座

    こんにちは。 先日模試を受けました。その際、社会で「楽市楽座(織田信長の政策)を行った目的」を問われ、「城下町を繁栄させるため」 と解答したところ、誤答になってしまいました。正答は、「商工業を活発にするため」です。 楽市楽座の目的を教えてください。また、自分の解答のどこがだめだったのかも指摘していただけると嬉しいです。 ウェブで調べてみても、いまいちはっきりしなかったので、質問させていただきました。よろしくお願いいたします。

  • 楽市・楽座とは??

    今社会の歴史で織田信長をやっています。 先生に「楽市・楽座」の意味を分かるようにしてきなさいといわれたのですが、 いまいちよくわかりません。 教えてくれないでしょうか?? 回答お待ちしております。

  • 楽市楽座の目的

    どんな参考書にも、うすぼんやりとしか書いてない信長の楽市楽座の目的とは、なんなんでしょうか?

  • 信長の楽市楽座と代官設置の経済的意義

     楽市楽座による規制緩和や税制優遇措置と関所の撤廃による経済の拡大を、信長は自らの財政力拡大にどう利用したのか教えてください。  座や市を支配していた寺社や公家の特権を剥奪して、信長がその利権を奪取しただけなら今までと同じになるのでは?  近江の草津、大津や堺に代官を置いた事の織田家にとっての経済的利益も同様です。  この事が楽市楽座や関所の撤廃の恩恵と抵触しないのでしょうか?

  • 楽市楽座について

    織田信長の「楽市楽座」政策の説明は「中世以来の座(私はカルテルの一種と理解しております)の特権を排し、商業の自由を認め(現在の資本主義における経済活動の自由でしょうか)、関所を廃し免税を行い商業を振興した」というのが一般的なようですが、一つ疑問があります。 この説明における「免税」とは何を指すのでしょうか。 座に対する座役の廃止や関所における通関税を廃しただけなら織田政権には税金が入らず、商業振興のうま味は無いように思えます。 また、織田政権に対する納税の義務を商人たちに課したなら、座や地方勢力の徴税権が織田信長に移ったにすぎず、商人たちの負担は変わらず結果的に商業振興につながらないように思えます。ということは座や関所への座役より織田政権の税金が安かったということなのでしょうか。 どなたかお詳しい方、回答よろしくお願い申し上げます。

  • 織田信長は優秀だった?

    織田信長は結構人気ありますが政治家として人として本当に優秀だったんでしょうか。 確かに領土を拡大したり楽市楽座をしたり政治家として一定の功績は残していますが、信長包囲網を成立させたこと、義昭の傀儡化に失敗していること、外交を知らず?皆殺ししか頭になかったことなど政治家として問題点がいくつかありそうです。 DNAてきに優秀であればその子孫があまり活躍していないこととは矛盾していますので、DNA的にもそれほど優秀ではなかったのかもしれません。 得意の鉄砲三段ですが、ヨーロッパでまったく同じ戦術がとられていたと聞いています。鉄砲伝播の順番からしても信長が発案したとは考えにくいです。信長の戦術がヨーロッパに伝わったという話は聞いたことがありません。 本能寺の変の後は秀吉にあっさり織田家をのっとられており織田家はやはりまとまっておらず、本能寺がなくても内部から崩壊した可能性すらあります。その後ナポレオンのような運命? 人としてどうであったかといえばやはりもっとも自己中心的な問題児で当時としても残虐で有名であったことから少なくとも尊敬の対象にはならないと思います。 まとめると質問は二点です。信長は優秀であったか、本能寺がなくても織田家は崩壊したり弱体化していたかです。よろしくお願いします。

  • 織田信長の改革における一部例外の容認について。

    織田信長の改革における一部例外の容認について。 関所の廃止や楽市楽座の実施にて、信長は故意に関所や座の存続を局所的部分的に残しています。 合理思想の信長にとって、そのほうが効率的だったからだと思うのですが、 その意図するところが分からないのです。 どなたかお解かりになりますか。

  • 楽市楽座って何がいいのですか?

    楽市楽座というのは税金がいらないから商人が たくさん集まって国がはってんするということですか? そうしたら信長などはどこからお金を手に入れるのでしょうか? また秀吉は家康と違い米穀に依存する度合いが低い代わりに 博多、堺などを重視したようですが、やはり楽市楽座 にした場合、どうやって現金収入をえるのでしょうか 昔から、名前はよく知っているのですが、いまいち なにがそんなにお得なのかぴんときません。 よろしくお願いします。

  • 織田信長はなぜ仕事が早かったのか?

    今、織田信長の本を読んでいます。 49歳で死ぬまでの成果といいますか、仕事量が膨大ですね。 当然ながらその時は携帯もなく、便利なPCなども無いはずなのに、なぜそのような成果を おさめることができたのでしょうか? 戦以外にも藩政もあるんですよね?予算の事を決済したり、領地の水治や土木、楽市楽座 のような経済システムまで、、 今の政治よりも随分ペースが早く、ビシバシ物事が進んでいるように思います。 織田信長が早かったのでしょうか?今の政治が遅すぎるのでしょうか? 昔の人の方が、仕事の効率が良かったような気がしてなりません。 幕末も坂本龍馬で33歳まで、高杉新作が26歳位までしか生きていなかったですよね。 でも、それまでの成果が驚異的で非常に短時間で多くの仕事を成し遂げているような気が します。 じゃあなぜ、今は携帯電話もあるし、交通の便も良いのに仕事率が悪いのでしょうか? 量を計算したわけじゃないので単純に私の勘違いかも知れませんが、そう思いませんか? 短期間に多くの事を成し遂げる秘訣や時間の使い方などがあったのでしょうか? 詳しい方、どうか教えてください。 よろしくお願いします。