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信長の楽市楽座と代官設置の経済的意義

 楽市楽座による規制緩和や税制優遇措置と関所の撤廃による経済の拡大を、信長は自らの財政力拡大にどう利用したのか教えてください。  座や市を支配していた寺社や公家の特権を剥奪して、信長がその利権を奪取しただけなら今までと同じになるのでは?  近江の草津、大津や堺に代官を置いた事の織田家にとっての経済的利益も同様です。  この事が楽市楽座や関所の撤廃の恩恵と抵触しないのでしょうか?

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回答No.2

草津、大津に代官を置いて物流の流れを操作しました。 今までは伊賀の鈴鹿峠の山越えや熊野灘を迂回した物流でしたが、 一度、淡路島や堺に集めておき、淀川の上流して琵琶湖まで出る。 琵琶湖を通って、彦根や長浜などの集めて岐阜を通り東国に流れるルートです。 琵琶湖経由なら甲賀は栄えますが、伊賀は金銭が入ってきません。 だから、今まで繁栄していなかった長浜や塩津などが栄えました。 長曾我部が繁栄したのも同じ理由だといわれています。 毛利攻略を始めた織田は、九州からの物流を瀬戸内海経路ではなく、 四国の土佐周りに変えました。 従って、太平洋側の長曾我部や雑賀などが金を持ちます。 金がないと高価な鉄砲は買えませんからね。 現在と同じように、物が集まれば、人も集まり、地域が栄えれば、代官を置いた領主は金持ちになります。

  • komes
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回答No.1

<座や市を支配していた寺社や公家の特権を剥奪して、信長がその利権を奪取しただけなら今までと同じになるのでは? 地子銭などの納付先が信長に移るだけと考えれば確かにそのとうりですが、少なくとも信長自身の収入になります。 納税者から見れば増税にも減税にもなるのは信長次第です。 寺社領や公家領は廃止されても座や市は残ります。  関所の撤廃は交通税を失いますが、交通の自由化による経済効果の方が大きいのです。 草津や大津は交通、湖上交通の要地で流通の要ですから直轄地とする為に代官を置きました。 堺はそれまで自由都市で誰にも臣従していませんでしたが鉄砲の産地ですし、火薬の原料の硝石の輸入港でもありました。 従って直轄地として代官を置き統治したのです。  長篠の合戦における信長軍の火力はこれで確保されたのです。

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