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織田信長の楽市楽座

楽市は織田信長が最初に行ったものと思っていたんですが、ウィキペディアで見てみると、最初ではないことが分かりました。 では、なぜ織田信長の楽市楽座は有名なんでしょうか。従来のものと何が違うのか、また、織田信長は革命をしたとよく聞きますが、どういった点がそうなのかを教えてください。

  • 歴史
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みんなの回答

回答No.6

有名なのは学校で「信長が楽市楽座をやった」と教えていたからでしょう。 信長がやった革新的なこと ○身分より能力の人事採用 ○地名を変える ○本拠地を移す ○土地の公有化 ○宗教勢力との対決 ○日本統一

  • kazutatu
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回答No.5

信長の楽市楽座が有名なのは、戦いや天下統一にもっとも近づいたからだと思われます。 そして、その裏には乱波(スパイ)をもぐりこませ、情報を幾度の戦いに応用し、戦いを有利に進行しました。 それらのことから信長の楽市楽座が有名なんだということなのでは?

  • rczd
  • ベストアンサー率29% (33/113)
回答No.4

安土で発した、いわゆる楽市楽座令については参考URLをご参照ください。 私個人としては、楽市楽座令は都市政策(信長の首都にふさわしい町づくり=人集めのため)が目的であったと考えています。楽市楽座令の施行→商業の発展…とはなりますが、商業の発展→税収の増加…にはならなかったと思います。 信長が革新的であったとの見方はここ数十年の間、見直されつつあります。行政面(楽市楽座)も合戦面(桶狭間・長篠)も、かつて言われた革新性は伝説に過ぎなかったと。これら伝説は、江戸時代に書かれた小説などに端を発し、近現代の小説や歴史認識に受け継がれた結果だと思います。 もちろん革新的な事績も若干ありました。ただ、一般的に言われる程ではありません。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2834713.html
  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.3

ど~でもいいんですが, 信長は「一向宗全体」と対立していたわけではないらしいです. 少ないとはいえ尾張にも一向宗はいたんですが, 信長と対立しなかった (どころか, 本願寺から「対立しろ」と言われても無視したらしい) ので, 特に何事もなかったとか. 一向宗としても, 「信長とのみ」対立していたわけではありません. 実際には, ほぼあらゆる地域で「その地域を支配する大名」と対立していました. 後の信長包囲網を作る際には, 「一揆を起こさないかわりに信長包囲網に参加しろ」と交渉していたくらいです. 実際には, 信長は「政治と軍事は自分の領分」と考えていて, 他者が自分の領分に入ることを極端に嫌ったらしいです. だから「政治や軍事に介入しない宗教団体」には何もしていませんし, 公家などに対しても政治や軍事に口を出さない限りそのままにしています. 特に宗教と政治・軍事の観点から, 「日本において政教分離を確立した」と言われることがありますね.

回答No.2

No.1の方もおっしゃっているように、信長よりも先に六角氏は楽市楽座を行なっていましたし、今川義元も楽市楽座の先駆者でした。 織田信秀は熱田神宮などの宗教勢力を中心と親しく、独占的に油の専売を行い、物流と商売を管理し、自由な物の流れを阻害し、楽市楽座とは程遠い存在でした。 今川から見て、織田家は近隣では最大の守旧派でした。 今川義元から見れば、むしろ、美濃の斎藤や近江の六角氏のほうが好感を持てる存在だったようです。 そのため、今川義元は、美濃や近江に密偵を派遣し、その経済政策を学び、積極的に国政に生かしていました。 また、その姿勢が織田方から見れば非常に目障りな存在であったのです。 織田信長の父、信秀は、生前、自由な市場の開放を目指す今川のやり方に非常に強い敵愾心を持っていました。 今川が自由な市場を民衆に教えることによって、自分たちが独占的に抱えてきた利益や特権が脅かされると考えていたからです。 信秀にしてみれば、自分たちが蓄えた金は治水、街道の整備、築城などの事業の代金として民に対して還元していると考えていました。 ただ、富の源泉である油の独占的販売権など保護された市場は守らなければ、民に施すべき富すら得られないと考えていました。 民衆に富を分割すれば、民はそれを私利私欲、贅沢のために使い、一般の民衆には富は分配されず、一握りの商売のうまい商人だけが利益を得る。 よって、神社など道徳的観念をもった組織が富を独占し、定期的に神社の立替や、地域整備でお金を浪費することで、富を還元する方法がもっとも理想的な市場であると考えていました。 ただ、織田信長は、今川と対立するなか、佐治水軍などから情報を得ており、今川の経済運営に大きく共感していました。 佐治水軍に出入りしている出入り業者などから駿河の経済統治の話しを聞いて、信長は非常に関心しています。 駿河に熱心に通っていたのは、今川義元がよそ者の商売人も受け入れる開放政策(楽市楽座)をとっていたせいです。 他の地域で販売行為をしようとすると闇売りということになり、違法行為としての危険が伴います。 よって、今川義元の経済政策に非常好意的な立場をとっているようでした。 今川義元、織田信長、両者とも、出入りの商人や間者をつかって相手をよく調べており、お互い相手の危険性を強く認識していたようです。 義元は武田、北条などと同盟を結び、織田殲滅に全力をかたむけるようになります。 信長は、無理はせず、敵の領地の青田を刈って経済的に逼迫させたり、砦を作って物流の妨害をしたりという経済封鎖をもって対抗していました。 また、そうした織田のやり方が、今川義元としては、民を虐げる典型的な守旧派に思え、非常につよい敵愾心を持っていたようです。 信長は、義元を強く警戒していたが、反面、その経済政策の聡明さに関心し、その実力を認めていました。 以上の文章が「信長公記」から読み取れます。

参考URL:
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
  • 250SS
  • ベストアンサー率22% (13/58)
回答No.1

そうですね、信長以前に六角氏が実施していました。偏った見方ですが、当時は寺社が差配する座が多く見られました。信長に寺社の権威や財力を弱める目的があったかは判りませんが、大規模に行った結果、寺社の財力は著しく低下しました。 また、寺社には石垣を作る職人、瓦を作る職人がいましたが、朝廷や寺社以外の仕事を行うことはほとんど無かったそうです。寺社の財力低下で仕事が減ったこれらの人々を積極的に取りこんだのが信長でしたので、安土城のような巨大な城郭を造れたものと思います。とは言っても、天守閣や石垣を初めて作ったのも信長ではありません。 当時の戦国大名は半農でしたので、足軽は農繁期には戦に出られません。足軽がいなければ戦には勝てないので、自然と戦が出来る季節が決まってしまいます。信長は完全な武士集団を構築したので、季節に関係なく戦をすることが出来た点は、革命と言えるのではないでしょうか。 はっきりしませんが、鉄甲船を初めて作ったのが信長であれば革命でしょうね。 信長の革命とは先人のよいと思った点をとことん具体化し、素早く実践できる、規模が大きい点にあります。既存のものを完全否定とまでは行きませんが、新たな仕組みを考え出した人ですね。よく比叡山を焼き討ち、一向宗との戦いなど仏教を排斥した、城の石垣に仏像も使ったなどといわれますが、真っ先に自分の先祖の墓を壊して使ったそうです。寺社に寄進もしてますので、宗教自体を否定していたわけでもないです。

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