• 締切済み

これは悪なのか?

性格というものはなかなか変えられない。 だから二の舞三の舞を起こしてしまう。 自分の場合は人を学力でみてしまう。 まぁ、文面上誰がみても悪いと思うでしょう。 でも、これはたとえ口に出さなくても 悪は悪でしょ?でも、これは直せない。 そんな中生きてる。口に出さなくても もし心の中で人を軽蔑していたらそれは悪。 自分は理系人間なので誰が唱えたのかはしりませんが・・・

  • shu84
  • お礼率12% (43/358)

みんなの回答

  • biginer
  • ベストアンサー率24% (382/1537)
回答No.10

 人を学力でみてしまうことは善ですよ。 客観的に判断しているのですから。  人を偏見や差別などの先入観や思い込みで判断することは悪です。  でも人を学力だけでみてしまうのは悪です。 判断する材料や基準(ものさし)は多い程いいと思いますよ。  心の中で人を軽蔑することは悪ですがある意味仕方のない事です。(気にしない事です。)  沢山の読書や映画鑑賞や芸術鑑賞やあるいは仕事に打ち込む事で、あるいは人との付き合いの中で御自身を磨いていく努力を続ければ自然に年令とともにそういう気持ちが薄れていくものと思われます。  耳順という言葉がありますものね。

  • frogg
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回答No.9

・・・そうですか、学力で人を見てしまう、学力が低いと、その人を軽蔑してしまうのですか?・・成る程。 倫理的に悪い、とうより、何か、ご自身の癖、なのではないでしょうか。  それを、ご自身で、悩んでおられるのならば、しばらく、学力で観るという事は、それはそれで、置いといて、無理にそうしないようにとか、しないでですね、それ以外の、人間のすばらしさを発見するように工夫されたらいかがでしょうか?  これは悪なのか、というご質問についてですが、人を相対的に比較するということは、序列をつける、また、したがって、人を判定する、ということに繋がるわけですので、キリスト教的には、これは「罪」になるんでしょうね。  しかし、大事なのは、キリスト教ではどうとか、仏教では、とか、ではなくて、ご自身の心のなかに、これは、悪ではないのか、という言葉が生起している、という事だと、感じます。  

  • _hiroya_
  • ベストアンサー率5% (2/34)
回答No.8

常に自己の限界にあり、自己を発揮して生き続ける人は、「私を生きる」ということができると思います。もし無を生きたら、死んでしまうと思います。 悟りを得た人は21日で死ぬという話を聞きました。何も食べないからです。 生きる理由もなく死ぬ理由もなかったら、死んでしまうのでしょう。 なんで生きるのかは、悟ったお釈迦さんにすれば、みんなのために生きるということになるらしい。悟った後に死のうとしたが、神様の王が出てきて、「教えをひろめて~」って頼んできたらしいです。だから、死ぬまで教え続けたそうです。慈悲心だそうです。  自分ってなんだろう。悪い自分?思っている自分?観ている自分?と考え続け、自分と一体化した時に、どうなるか、それは人それぞれだと思います。他人の出る幕はあってもいいけど、用意する必要はないかもしれません。その人にはその人の悟りがあるのだと思います。 別に、悪くてもいいんじゃないんですか?悪魔には悪魔の楽しみがあると思います。優越意識に浸る。それも一つの快楽だと思います。 しかし、人と自分を比べているので、その人はほんとの自分を得ていないでしょう。比べようのないものとしての自分を知ること、それが大事だと思います。 それが、比べようのない、測り知れない幸せを体験しえるからです。 馬鹿でも、賢くても、幸せだったらいいと、僕は思います。 賢い方が、馬鹿よりも幸せに近いと考えるのは、僕にはできません。 幸せには、なにも関係ないことだと思います。 ただ、人の幸せを奪い、不幸を与えるようなことが、悪の幸せだろうと思います。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.7

●すこしわたし自身のことを書いたほうが結論を理解していただけると  思いますので そのことから書きたいと思います。  わたしは わたしより賢い人物を見たことも聞いたこともありません。  したがって きまってどんな対象となる人物でも わたしの中では  バカ アホ ロクデナシ という形容がなされます。  それでも 不思議と人間関係はうまくいってます。  問題はあなたの性格が「悪」か?ということではなく。  あなたが堂々と「あなた自身」として生きているかということです。  堂々とあなた自身なら なにを考えようとそれは「善」です。  また何を言ってもなにを行っても普遍的には それは「善」です。  あなたがそれが「なんか自分自身」ぽくないなあと感じているなら  それは「悪」です。あなたは 自分自身を模索して見つけて  本当のあなた自身を 生きるべきです。

noname#2013
noname#2013
回答No.6

学歴で人を判断すると言うのは、性格ではなく物事の判断基準だと思うのですが。 私の場合、企業の人事部で幾人もの人を面接しました。その場合の判断基準のひとつが、学歴です。 もちろんそれが全てではありませんが、面接では、第一印象というきわめて感情的なことでしか人を判断できません。重役に、採用理由を聞かれたとき、「笑顔がよかったので」などという理由は通用しませんから。(うーん、通用したときもあったか・・・) もし、自分の価値観を変えたいと思うのであれば、思い切ってまったく違う人々との交流をしてみてはいかがでしょう。 いろんな人がいる、と言うことを頭で無く肌で感じれば、価値観も変わりますしひいては、性格も少しづつ変わるような気がするのですが。

回答No.5

うーん、いいとか悪いとかっていうより、 世間をわたっていく上で、損はするかもしれないって感じでは ないでしょうか。 学歴や学力はその人のひとつの力を現すものでしょ。 あなたは自分のその力を大切に思っていて、これをもっている人を 価値があるように思う、そうでない人に魅力を感じないという。 それはひとつの状態であって、べつに反省とかしなくても いいんじゃないでしょうか。 心の中で思うだけなら、誰が傷つく?他人は誰も傷つきません。 そういうことを思う自分自身がその考えに傷つくのなら、 そんな都合の悪い考え、捨てちゃえばいい、 そうでないなら、そのまま置いといてかまわないと思います。 そして、そう思う自分の気持ちを外に出すかどうかは また別の話で、それは世間をわたるうえでの保身を考えてすればいいでしょう。 選択肢はいろいろあります。 自分が心の安らぐようにすればいいと思います。 私はどうかといえば、学歴は気にしません、が、 知識を持っていてそれを使える人には敬意を感じます。 自分で考えて、その判断に従って行動してみようとする人にも敬意を感じます。 つまり、そうしない状態の人のことは軽蔑する傾向にあります。 で、そういうふうに思う自分を、これでいいんじゃないかと思ってます。

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.4

人を学歴で見ている自分を見て、そんな自分を軽蔑している自分を見て、そんな自分は悪いと思っている自分を見る。 そうやっていくうちに、観るということができるようになる。自覚があればいいともうぜ?

  • FFMAN
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.3

善悪の判断なんて数学の公理と似たような立場じゃないの? その基準を全面的に受け入れるから判断できるんでしょう。~は悪だ、という判断を全面的に受け入 れているから悪と判断できるんであって、善悪の基準を受け入れてない人からみれば「なんでそれは 悪?」って感じですよ。ちなみに善悪の基準を放棄している私からすれば、「もし心の中で人を軽蔑 していたらそれは悪」ではなくて不快な行為ですね。 正直言って人の行動を判断するのは快・不快で足りるように思う。絶対的な価値観は、法だけ共有し ていれば、もういいよという感じですね。善悪のような価値観は、できれば、個人的なものとして内 に秘めるか、同じ原理を共有できる人達の中でだけでやってほしいな、窮屈なんで。私もニヒリスト 一歩手前かな…

回答No.2

 学力で人間を評価することは悪いことかどうかということと、  その結果心の中で人を軽蔑してしまうことが悪かどうか、とか言う話ですね。  わたしは nakanakanaka さんのお考えにほぼ同じなんですが、shu84 さんのような傾向を持った人をいっぱい知っています。わたしもそのうちの一人ではないかと思うのですが。  どこかで優越感と劣等感は同じものだと聞いたことがあります。優越感を持つときは、その裏でひそかに劣等感が育っています。そうしてやがて不愉快な人生を送ることになるそうです。そこで優越感も劣等感も持たない性格になれたら、そのひとは一生安楽に暮らせるのではないかと考えて、宗教とか道徳とかが生まれてくるわけですね。  しかしわたしの考えは、shu84 さんのように、自分の性格のそのような部分に気付いているひとは、それはそのまま放っておいても良いと思うのです。いろいろ悩んで本人は苦しいですけどね。やがて素晴らしい人に成長されることは確実です。  問題はそのことに気付かないで、人を評価し差別し軽蔑し、そうして際限なしに争っていく大多数の人々のことですよ。

回答No.1

思うことも、悪いことらしいですよ。 某宗教上、 でも、私は、我慢することも、よくないと思います。 たまには、暴言になっても、本音を言いましょう。 言いすぎは、嫌われます。 なんでも、そうですが、自分が痛い目にあって、 はじめて、自己反省、自己修正、努力する気になります。 あなたは、頭で、考えているだけで、 どこかで、自分を正当化しています。 心の隅は、そうですよ。 ですので、今の自分の考えを喧嘩腰で、多くの人 あなたの考えと反対の人、 あなたの場合ですと、学力の低い人を馬鹿にしてみる。 そうすると、いかに、学力だけで、 人を判断することが、無意味か気がつくと思います。 あなたが、学力があると自負しているとの推測を前提にしています。 学力の低い人が、学力が高い人を馬鹿にしているケースもあります。 上を見ればきりがなし、下を見てもきりがないです。 もっと多くの人と接しましょう。 いかに、自分の考えが狭いか、 頭でっかちか気がつくことでしょう。 井の中のかわず、王様の耳はロバの耳です。 本当の直したいことは、もうとっくに、直ってるはず。 思いが薄いんですよ、ただ、単に。 あなたのなかの優先順位が、低いはず。 私も世の中、大嫌いなことも、多いです。 しかし、そう行いをする人とは、避けてくらしてますし、 バリアーも張ってます。 イエスマンばかりを周りに引き連れるつもりは、ありません。 しかし、同じ言い方でも、 自分が落ち込む、腹が立つ、喧嘩売ってるの? 文句や過去の過ちを指摘されたくないなどの、言い方や、 勉強しよう、はげまされた、見習おう、尊敬するなど、 両極端に受け取ります。受け取られます。

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