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負(数)の実体

※説明下手なので、そこを了承していただいた上で以下を読んでください。 負(数)というのは非常に便利なもので我々には欠かせない概念ですが、負の実体というものを実際に感じることが出来ることはあるんでしょうか。 例えば頭金なしでローンで3000万の家を買うとします。 この時点で書類上は売主が+3000万で買主が-3000万となりますね(利息や頭金ゼロと言った話は置いておいてください) これはあくまで概念を数値化したもので実際に売主が3000万円の現金を貰って売主が-3000万円の現金を受け取ったわけではないですよね。 もう一つ例をあげて海抜をとってみると、あれは海面を0として基準にすると都合がいいというあくまで人による勝手な定義に過ぎないわけで「-1000m」は負の実体と呼べるものではありません。 物理の世界では一つの説としてミラー物質(記憶があいまいです)とか言われる負の物質があるというようなことも読んだことはありますが。 私が勝手に妄想している限りでは「時間」だけが負の実数を体験出来ているのではと思っております。 というのは、我々は必ず現時点(時間)が基準となっているからです。 時間軸で考えると昨日の出来事は必ず負の向きなわけですし、今この瞬間は必ず負の数字に置き換わるからです。 つまり私は今この瞬間にの0とすぐのちに負になる現状を体験しているという考えです。 分かりにくいですね(^-^;) 数学の分野の質問にすべきか迷ったんですが、数学は実体を気にしないジャンルなので物理の方に質問してみました。 質問の意図は「負の実体を実感出来ることはあるのか?」ということです。 なんとなくありそうな気もするし、いざ考えるとすべて数学的な概念の世界にはまってしまってパニック状態です。 自分でもどう言えばいいのか分かりませんが、もし質問の意図が分かってくださる方がおられましたらお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • sanori
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回答No.8

>>> 電荷や磁気、重力を負の実感としてよいのかどうかまでは今の私では知識と理解力が足りないようです。 ------ いやー、そんなご謙遜は不要です。 重力に関しては、下記の一言だけで、一発で理解できますよ。 遠くに行くほど、重力は小さくなり、遠く(位置エネルギー=大)から落ちてきたものほど、地面にぶつかるときの衝撃が大きいということです。 この、たった一言が、前回の回答の「本質」なんです。 距離の関数で表せば、1回微積分したときにマイナスがつく。 ぴったりつじつまが合う。 おー! これは、なんと美しい! ・・・と、 これに気づいた過去の偉大な物理学者は、自分の発見に感動したことでしょう。 (数学史の年表には、「微分法の発明」とか「開発」なんて書いてありません。必ず「微分法の発見」と書いてあります。宇宙の始まりには神の手は必要なかったと私は思っていますが、微積分、ひいては、加減乗除という極めて単純な四則演算さえも、もしかしたら、神が仕掛けたものなのかも?) ------------- あと、 電気のプラスマイナスですが、 電気回路においては、グラウンド(接地=アース)というものは、0Vでも1.5Vでも5Vでも1万ボルトでも何でもよく、それを基準に考えれば済むことです。 ところが、 電流は、そうはいきません。 電子の流れの方向があります。 歴史上、電流の発見は、勿論、電子の発見よりも前です。 だから、「プラスからマイナスへ電流が流れる」という、まるで2分の1の確率で、ハズレのくじを引いたような定義をしてしまいました。 (全然関係ないですが、円周率も、3.14ではなく、6.28の方が良かったと思っています。最初に偉大な学者が決めてしまうと、後人はそれに従うしかないですからね・・・。) しかし、電子の流れの方向が変わるごとに、符号が逆になってしまうような式を法則にしてしまうのは、非常にナンセンスです。 計算が複雑になりすぎます。 かといって、一定数を足し算してプラスだけに統一するのは、さらにナンセンスです。 身近な例を挙げてみますね。 例えば、交流電流を、最も簡単に表せば 電流 = 定数その1 × sin(定数その2×時間) です。 もしも、電流の向きが変わっても、電流の符号を変えないようにこだわるとすれば、 電流 = 定数その1×{1+sin(定数その2×時間) } そして、電圧もマイナスにならないように こだわれば、 電圧 = 定数その3×{1+sin(定数その3×時間)}] となりますね。 (sin に足す数は、1でなくても、1以上であれば、なんでもありですが。) さて、ここから、家庭用電気製品の消費電力を求めましょう。 本当は「力率」というのも考慮に入れるべきなのですが、そんなの放っておいて、たんなる電気抵抗だと思いましょう。 つまり、電熱線です。 理科の実験で、電熱線をビーカーに入れて、電気のエネルギー(=仕事)が熱と等価であることを習いましたよね? そして、電圧に電流を掛け算したものが、単位時間当たりのエネルギーとすれば、ちょうどつじつまが合うことも知られていますよね? こだわりがなければ、 瞬間の消費電力 = 電圧×電流= 定数3×定数1×(sin定数その3×時間)の2乗 ここで、三角関数の加法定理を思い出しましょう。 cos(a+b) = cos(a)・cos(b) - sin(a)・sin(b)  a=b=x ならば、cos(2x) = {cos(x)}2乗 - {sin(x)}2乗 ところが、高校で三角関数の習い始めの頃に {sin(x)}2乗 + {cos(x)}2乗 = 1 ということを習っていますから、 {cos(x)}2乗 = 1 - {sin(x)}2乗 これを代入すれば、さっきの式から cos を消去できます。 cos(2x) = {cos(x)}2乗 - {sin(x)}2乗  = 1- {sin(x)}2乗 - {sin(x)}2乗  = 1- 2×{sin(x)}2乗 だから、 {sin(x)}2乗 = {1 - cos(2x) }/2 ということは、先程の式は、 瞬間の消費電力 = 定数3×定数1×{1 - cos(2×定数その3×時間) }÷2 時間で平均を取れば、消費電力(の平均)になります。 三角関数というものは、0の上下に等しく振れる関数なので、cosの平均はゼロです。 したがって、 消費電力 = 定数3×定数1×{1 - 0 }÷2  = 定数3 × 定数1 ÷ 2 さて、 仮に、電圧と電流がマイナスにならないようにこだわったら、消費電力の計算は、どうなるでしょうか? カロリー計算とつじつまを合わせるには、どうしても、 (電圧 - 定数その1)×(電流 - 定数その3) で計算しなくてはいけません。 ここでいう電流、電圧とは、 電流 = 定数その1×{1+sin(定数その2×時間) } 電圧 = 定数その3×{1+sin(定数その3×時間)}] です。 結局答えは同じになりますけど、なんか、めんどくないすか?(笑) 1を0に変えちゃえば便利そうです。 それは、つまり・・・。 ------------------ <おまけ> 実生活だとぴんと来ないかもしれませんが、 放射能の粒子の一つで、β線(ベータ線)っていうのがあります。 テレビで、放射性物質を扱う施設とかに放射能を測る機械をもっていったとき、 その測定器(ガイガカウンタ)から、ファックス送信中みたいな、 ・・・がらがらがらぶーがらがら・・・がらがら・・・ とか ・・・ぷつ・ぷつ・・・ぷつ・・ぷつ・・・・・ぷつ・・ ってい音が鳴るの、聞いたことありませんか? その、「がら」とか「ぷつ」っていう音は、1発1発の放射粒子を数えている音なんです。 そして、放射粒子には、アルファ線、ベータ線、ガンマ線等々種類がありますが、 「(1発の)ベータ線」というものの実体は、実は、(1個の)電子そのものです。 そして、 「反粒子」っていう言葉、聞いたことありますか? SF小説とかに出てくる、 「粒子に反粒子がぶつかると、2つとも消滅してしまうんだ。  別の宇宙から来た僕の体は反粒子。だから僕と君が触れてしまうと・・・。」 っていう、あれです。(笑) しかし、反粒子は、現実に存在します。 これをご覧になってください。 http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/Rmin_GL_027.html コバルト60から出てくる電子は、ベータ(β)の後ろにマイナスがついてますが、 コバルト55,56,58のβの後ろには・・・・?!!! これも、 プラスとマイナスが共存しないように「電子の電荷の値を本日から2倍とする」という宣言をして切り抜けますか?(笑) なお、 宇宙にある原子核が全部プラスで、電子のほとんどがマイナス、つまり、粒子と反粒子とのバランスが取れていないから、消滅せず、そして我々は存在しているのですが、 なぜ、宇宙が生まれたとき、プラスとマイナスがアンバランスになったのかという理由は、まだ明らかになっていないなずです。宇宙論、物理学の重要な課題の一つだと思います。

TT0909
質問者

お礼

さらに詳しい回答ありがとうございます。 sanoriさんの回答やリンク先の内容に関して深く調べて勉強してみるつもりです。 とても具体的でしたし、分かりやすかったです。

その他の回答 (7)

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.7

実は、時間が最も、負の概念が分かりにくいですよ。 宇宙の始まりが、そうです。 もしも、私達が感じている時間というものが、体感できる、そのまんまのペース、 例えば、 10秒っていう時間は、目をつぶっていても、だいたい数えられますよね? 世の中のもののスピードも、時計の針の回りかたも、その他もろもろ、人間には全て規則正しく見えます。 ですから、 過去にさかのぼっていけば、もしもマイナスの時間があるのであれば、永遠にさかのぼることが可能であるはずです。 ところが、 我々が日常言っているところの「時間」で言えば、宇宙の時間には始点が存在します。 ビッグバンや、その直前のインフレーションまでは、ぎりぎり、我々の「時間」の範疇で考えられるとしても、最初の種宇宙の段階を考えるとき、どうしても、負の時間にはさかのぼれません。 (ちなみに、宇宙の始まりは虚数、すなわち、マイナスのルートの時間だとする説が最も有力だそうです。) さて、 負の数値の有用性ですが、 電磁気学は、電荷にプラスとマイナス、磁気にNとSがありますから、マイナスの数を定義しなければ、絶対に成り立ちません。 (あまりにも当然なので、以下の説明省略) また、 重力ポテンシャルもそうです。 位置エネルギーっていうの、物理で習いましたか? 高いところにあるものほど、落ちたときの衝撃が大きいので、「高いところにある」ということ自体がエネルギーです。 ですから、物体の質量に重力加速度と位置(高さ)を掛け算すれば、位置エネルギーです。 すなわち、高さに比例してエネルギーが増えますから、高くなるごとに、差分をどんどん足し算していけばよいはずです。 ところが、 重力加速度というのは、ケプラーの法則で証明されたように、天体からの距離の2乗に反比例します。 ですから、無限遠点では、重力が無限小になります。 このとき、 高さ(天体からの距離)が増えるごとに、エネルギーを足し算していくと、非常に不都合なことが起こります。 それは、 位置エネルギーの基準をどこに置くかという問題です。 なぜならば、 ケプラー問題を解くときには、天体は無限小の物体(質点)として扱いますが、 物体が質点に無限に近づいた状況、すなわち、「地面に落ちた状況」を考えると、位置エネルギーが、数式をどういじっても、マイナス無限大になってしまうのです。 当然ながら、適当な数(切片=オフセット)を与えても、その問題は解決しません。 つまり、「地面」を基準にポテンシャル(位置エネルギー)を考えることが出来ないのです。 そこで、どうしたかというと、 「無限遠点での位置エネルギーがゼロ」 としたわけです。 これは、極めて合理的なことです。 なぜならば、そこに何かゼロでない数字を付け足すということは、余分な数を与えることでもあり、物理法則や世の中の真理とは何にも関係の無い「物理定数」を与えることになってしまうからです。 というわけで、 重力ポテンシャルは、無限遠点をゼロ。 そして、「地面」に近づくにしたがって、どんどんマイナスになっていく、というように決められています。 じゃー、マイナスをプラスにひっくり返せばいいじゃねーかという話になりそうですが、これもまたうまくいきません。 ポテンシャルを距離で微分すれば、引力になります。 このとき、ポテンシャルというのは、分母に距離があるので、微分したらマイナスが付きます。 だから、ポテンシャルのマイナスを解消しても、今度は、その代わり、引力をマイナスにしなくてはいけなくなり、要は、もぐらたたき状態になります。 以上は、ほんの一例ですが、 本件に関して、もっと簡単な例について、別件に私が回答したものを下記にピックアップしましたので、お時間ありましたら、読んでみて下さい。 その1 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2116735 その2 ↓たくさん回答者がいますが、No.10が私です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2099769

TT0909
質問者

お礼

丁寧な解説ありがとうございます。 非常に納得出来ました。 が、電荷や磁気、重力を負の実感としてよいのかどうかまでは今の私では知識と理解力が足りないようです。 ただ、人間の都合によって基準を定義し負(数)の概念を使う場合(道具としての負数)と、絶対的に負(数)を必要とする状況がある(負の実体を必要とする)という風に今は理解しております。 この理解が正しいのであれば私にとって大きな回答を得たと思ってます。 ※明日いっぱいで回答を締め切ります。

  • kenojisan
  • ベストアンサー率59% (117/196)
回答No.6

そもそも数学というのは実世界に合わせて作ったものではなく、演繹的に合理性の有る論理を構築していった想像の世界の学問です。だから、負の数に限らずすべてが単なる「決めごと」です。例えば「ルート2」なんてーのも、分数ですら書けない数字ってアリ?ですし、良く数学嫌いの人があり得ない数字なんておかしい!と文句を言う「虚数」にしても、それぞれ「2乗すれば2になる数字と決めましょう」「2乗すれば-1になる数字に決めましょう」という約束事に過ぎないのです。それは、負の数も一緒で、「3と足し算すればゼロになるような数字を-3と決めましょう」という約束事なわけです。こういう風に都合良く決めたものを、論理的に矛盾無く数学の中に組み込めれば市民権が得られて認知されるわけです。 ただ、この数学をうまく使えば現実世界を理解したり操作するのに非常に便利なわけです。 時間の概念を、推定される宇宙年齢を基準に全て正の数字で表したり、海抜も地球の中心を基準にしても良いわけですが、負の概念を持ち込んだ方がはるかに便利ですよね。 つまり、数学には実体などというものは無い、あくまで論理学の世界でして、逆に実体を表現するのに数学という便利な道具を使っているだけと考えてください。だから、#5さんのクーロンの法則も、電荷を負の数で表したからクーロンの法則が成り立つのではなく、電荷に関する物理現象を負の数を含めた数学を使えばクーロンの法則のような簡単な表式で書ける、というだけのことです。 ちなみに固体物理の世界だと、電荷の扱いが重要ですから正負の粒子を実感して扱いますよ。

TT0909
質問者

お礼

※返答が遅れて申し訳ありません なるほど。 数学も物理もやはり記述し説明するための道具ですもんね。 物理も記述が先にあってそれに実体がついてくればいいので記述の中で使われる"負"は記述方法の一つになりますね。 #ここまで回答してくださった皆様へ 自分でも混乱するようなテーマなので、皆さんの難しい回答に返信するだけで一苦労です(^ ^;) 解釈が間違っていたり論点がずれていることもあると思うので容赦なくご指摘をお願いします。 ポイントについてはもう少し色んな回答を見てみたいので 様子見させてくださいませ。

  • ojisan7
  • ベストアンサー率47% (489/1029)
回答No.5

「負の実体を実感出来ることはあるのか?」、負の数は、あくまで人による勝手な定義に過ぎないわけです。 確かに、わたしも、質問者さんと同じことを以前から感じていました。義務教育の数学で教える負の数の導入は、いかにも、「人による勝手な定義」ですね。このことに関連してよく質問されるのは、負の数×負の数がどうして正の数になるのかということです。数学的には「定義」ですので、この理由をあれこれ説明しようとする努力は間違っています。しかし、物理の世界では、どのようになっているのか?ということだと思います。物理の世界では、いろいろな場面で、(負の数)×(負の数)=(正の数)となります。身近な例で言えば、電気力のクーロンの法則F=qq'/r^2ですね。qq'が正の場合斥力、異符号の場合引力ですね。このことから、負の数は、「人による勝手な定義」でもなさそうです。

TT0909
質問者

お礼

※返答が遅れて申し訳ありません。 私も負が「人による勝手な定義」と言い切るには何か物足りないと思っているんです。 それはその回答があくまで数学の立場によるものだけに聞こえちゃうからかもしれません。 No.5さんが例に挙げておられる電磁気力の引力斥力は確かに負と正の要素を持っているような気がしますね。 同時に引力(重力)も一方的に負の実体なのかもしれないという考えが浮かびました。 便宜上、正の力で正の加速度を与えることになっていますが、エネルギーを吸収する方向に働く力と考えると負のベクトルのような気がしてきます。 共感出来る回答でした、ありがとうございます。

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.4

摂氏温度や華氏温度はいかがでしょうか? 摂氏ならマイナス => めっちゃ寒い という実感。 仰る通り数学ではそもそも負に限らず数そのものが実体ではなく概念なので問題になりません。現在では、ですが(過去、数学史上何度かこういう数の拡張は問題にはなってきたわけですが。とくに虚数のことは有名ですね)

TT0909
質問者

お礼

※返答が遅れて申し訳ありません 私も瞬間的に思ったのが温度でした ただその実感は生物としての実感ですね -100℃の物質も-200℃の世界にいけばエネルギーを放出する(吸収される)ので負と呼ぶには人間側の都合になっちゃいますね 数の拡張で言うと、0という数字はすごいですよね 0を具体例をあげてうまく説明してくださる方募集(笑

回答No.3

そういえば。 反物質って負の物質 なんじゃないかと。 物質とぶつかると消滅してしまう。まさに負の存在ではないですか? マラソン42.195キロ。 よーいドン で逆走してしまった。ではマイナスではないんですよね。難しいです。 電気のプラスとマイナス(アース、地球が基準)も当然駄目なんですよね。 胎児の年齢・・・・は時間ですかね。 なんというか、相対性理論的な考え方なんじゃないでしょうか。 あなたのイメージでは基準が無いからすべてが正で、負が無い。 普通負をイメージする時には基準を作ってそこから正と負を決めるんですよね。 なので、基準が無いままで負をイメージすることは不可能なんじゃないかと思います。

TT0909
質問者

お礼

※回答ありがとうございます。 また、返答が遅れたこと、No.2の方とまとめて返答する無礼をお許しください。 >No.2、No.3 確かに仰る通りかもしれないですね。 負数は観測者が基準を決める前提が必要なのかもしれません。 でもそれだけで結論にしてしまうには何かが物足りないというか、納得しかねる自分がいまして・・・。 No.3さんの反物質はもし存在が確認されれば負の実体だと思いますが、今の所はまだ解釈の一つという段階だったように記憶しています。

回答No.2

私が思うには、さっき言われていた「海抜」がもっとも分かりやすいと思います。 結局、正の数、負の数というのは、たとえば、ある基準を定めます。これはどこでもいいもので、人が勝手に決めてよいのです。正の数というのは一般的にその基準より右や上、負の数というのは左や下ということなのです。 ここで、海抜という高さの表示の仕方は、海面の高さを基準として0としているわけですから、それより下、つまり海の中にいれば、それはマイナス何メートルにいることになるのです。 だから、海に潜ることこそが負の数の実体を実感できるということなのです。

noname#21327
noname#21327
回答No.1

面白い考えですね。時間が負というのは。詳しくは分かりませんが、以前BBCの放送で、最近の物理学の超ヒモ理論なるものを紹介してました。それによると、実社会とは全く異なる別世界があるんだとか。負の世界というより虚の世界ですかね。 また、アインシュタインの相対性理論でも、観測者が感じうる、なんて表現がでてきて、観測者が実感できないものはあってもわからない、というそうです。 そう考えると、負の実感って、やっぱり過去の記憶しかないのかな。借金の苦労も、負の記憶だけど、ちがうか…

TT0909
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 私も過去の記憶というものだけが負の実感なのかなあと思っています。 ただ時間に関しても現瞬間に負の時間を体験しているわけではないので微妙かなあというのもありますが。 あくまで記憶というメモリの世界ですから"負の世界を体験した(している)"という説得力には力不足な感じもあります。 超ヒモ理論は私もいくつかの本で読んだんですが、難しくて未だにその理論を理解出来ていないです。。。 借金の記憶は・・・確かに負の記憶ですけどね(笑

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    高校の数学程度しか理解できないのですが、空間の曲率というものに興味をもっていまいました。 空間の曲率というものを難しい微分方程式などを使わずに概念的に理解するためにご教示ください。 まず一次元(線)の時は、曲率は0か正しかありません。(正・誤) つぎに二次元(面)のときは、曲率が0以外に、正と負の値をとることがあります。 面と直交するz軸をとり、面に属するx軸上の曲率と、x軸とも直行しながら面に属するy軸上の曲率が(z軸を基準に)反対方向である場合、この平面の曲率は負である言います。いわゆる「馬の背」の面。(正・誤) さて、本題ですが、三次元(立体空間)の場合、x軸、y軸、z軸のいずれとも直交するt軸をとり、t軸に対するx軸、y軸、z軸の曲率がが全て同方向であれば、正の曲率ですかね。 またx、y、zのうちの一軸だけが反対方向に曲がってる場合は負の曲率ということでしょうか。 つぎに、z、y、zの内の二軸の曲率が他の一軸と異なる方向だった場合、z=は正、yが負、zも負であれば、正x(負x負)=正になるのではないでしょうか。 つまり、「三軸のうちの一軸が反対方向」と「三軸の内の二軸が反対方向」という場合は、結局、最初の一軸の曲率を負とみなせば、立体の曲率が負に成るし、最初の一軸の曲率を正とみなせば立体の曲率が正となるわけです。 これでは、「三軸のうちの一軸の曲率が反対」というのと「三軸の内の二軸の曲率が反対」というのが同じ結果になります。 最終的に三軸ともが負なら、三次元が負になるわけですが、その方向が負か正は誰も決められないのではないでしょうか。 質問:「三次元空間の曲率が負である」と判定されるためには、x軸、y軸、z軸のそれぞれが、相対的に(何を基準に)どちら方向に曲がってる場合なのでしょうか。 微分幾何学など難しい数学を習得せずに、「空間の曲率」の正・負に関して概念的に理解する方法があれば、ご教示いただけると有り難いです。 位相幾何学などの教育を受けたことが無い素人の質問ですが、どうぞよろしくお願いします。

  • <原形動詞はカテゴリーか実体か>

    前回の投稿質問<概念が情感を喚起することがあるか>の続編です。今回は、モノの概念ではなく、動きの概念の場合について考えてみます。始めにおざっぱに説明を進めます。おかしなところがあれば御指摘をお願いします。  足を交互に進めることによって地面の上を移動する人間の行為は抽象化されて<歩く>行為と名づけます。これが<歩く>という概念です。walkという原形が使われます。 <歩く>という概念はカテゴリー的行為です。次のA,Bにおいては、現実に誰かが歩くことを表現しているわけではありません。 A: to walk is to move forward by putting one foot in front of the other (Macmillan) B: Walking in the park refreshes us a lot. / It refreshes us a lot to walk in the park. ところが、<歩く>という概念が時間と空間という2つの形式によって実体化された時、(実体化というのは時間と空間を持つ、すなわち現実に行われるということです)、概念である原形のwalkに代わって、その外延であるwalk(現在形), walks, walkedやwalkingが使われます。さらに、Cにおけるように、歩くことによって得られる空間的実体(距離)と時間的実体(所要時間)を表現することができるようになります。 C: I walk an hour to my office every week day. において、空間的実体はto my officeによって、時間的実体はan hour によって表されています。時間的実体はto my officeによって暗示されているとも言えます。今回は時間に焦点を絞って話を進めます。 Cにおいて、原形のwalkは現在形です。現在を中心にしていつでも成り立つことを表現できます。このように、概念である原形動詞は過去形や現在形を使ったり、推測・可能性や意思を表す助動詞を使ったりすることによって、実際にそうした行為が行われる時の具体的な時間を表現できます。さらに、完了形や進行形を使うことによって動作の諸様相を表すことができます。要するにテンスとアスペクトにおいて具体的な時間が表現されるということです。 ところが、概念を表す原形動詞がカテゴリーと実体の両方を表す場合があるように見受けられます。 D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy. walkは外延ではなく原形です。原形であればカテゴリーを表すはずですが、ここでは、実体を表す、つまり実際の行為を促しているように読み取れます。walk a lotという行為をある程度の長時間行うように、それも発話時より以後の時点以降において行うように具体的に忠告していますが、実現の可能性は十分あります。というか、実現することを念頭に入れた発言だと言えます。  では、カテゴリーを表せないのかというと、前回の投稿<概念が情感を喚起することがあるか>と前々回の投稿<概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合>でも述べたように、概念が実体を表す時は同時にカテゴリーをも部分的に表しているはずです。Dにはrather than to use a carが省略されていると考えればカテゴリーを表すと考えることができます。 このように、原形動詞にはカテゴリーと実体の両方を同時に表す場面が存在することは明らかです。前回の<概念が情感を喚起することがあるか>においては、こうした場面においては情感が表現されることが可能性として存在するのではないかと問題提起をしました。その時に言及した概念は無冠詞名詞が表す概念でした。今回は原形動詞です。なお、限定詞(決定詞)システムと名詞との関係は時制システムと動詞との関係と同じであるという見立てです。 E: You should take a walk every day to keep yourself in good health. において、take a walkは概念を表します。ここでは行為の実体を表しているように見えます。行為はまだ実現していませんが、聞き手に行為の実現を促すものなので、実質的に実体を表していると言えるはずです。  でも、take a walkはカテゴリーを表しているとも言えます。無冠詞名詞の場合と同じように情感を表す可能性を持つのでしょうか。これが今回の私の問題提起なのですが、前回の質問と同様、文脈や状況との絡みは脇にどけておいて考察していただけるとありがたいです。  よく見ると、この文では法助動詞が使われています。法助動詞にはmodalityが存在します。modalityは話し手の主観的態度を表すものです。その中には、懇願とか警告とか勧誘とか依頼とか疑問とかがあります。そうしたものの表明がどういう文法的状況においてなされるかということを鑑みた場合、情感の言語的発露は法助動詞と原形動詞の組み合わせによってなら可能であると言っていいように思います。ついでに言うと、命令文やその他のmodalityを表現する構文も法助動詞と同じ働きをすると思います。 modalityを表現する構文には例えば次のようなものがあります。 F: We advised my daughter that she be more quiet when we are with guests. イギリス英語ではshould beが使われるのが普通ですが、アメリカ英語ではbeも使われます。 G: It is surprising that he should say so. (原形は使わないようです) surprising は感情を表す形容詞です。他に、astonishing, sad, regrettable, shocking, curious, queer, strange, embarrassing,などいろいろあります。 It is a pity / a shame that ----という構文もあります。 そもそも、言語使用者が概念を形成する際に、同時に<もの>の、あるいは<動き>に対する知覚が行われなければなりません。その時、同時に情感の相においても認知行為が行われているはずだということは、前回の投稿<概念が情感を喚起することがあるか>と前々回の投稿<概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合>においてすでに主張しました。人間は知覚的相(感覚器官の働きによる)においてモノを観察するが、同時に、情感的相においてモノに心を開いていると言えると思います。 法助動詞の使用時に何らかの心的状態(懇願とか警告とか勧誘とか依頼とか疑問とか)が表明されますが、そうした心的状態は突然生まれるわけではありません。何か困惑することがあったり、心配事があったりして、それに対応するように命令や懇願が行われるわけです。また、人間の心中の気分や感情は単独で存在できるものはありません。だからこそemotionsやfeelingsという言い方がなされます。何かを懇願する時、さまざまな情感(心配や不安や期待感など)をも伴っているものと考えなければならないと思います。 "Watch out." とか"Be careful." とか"Let's enjoy playing soccer." と言うとき、モダリティーということで言えば、警告や勧誘が表されていると言えるのでしょうが、さらに心配そうな感じやうれしそうな感じも含まれていると思われます。May you be happy forever. には様々な気持ちが表現されていると思います。  もう一つつけ加えておきます。情感はモダリティーを表す表現と原形動詞の組み合わさった時に表出可能なのではないかと言いましたが、私の考えでは、モダリティーを表す表現と共起しなくても原形動詞だけでも(実体とカテゴリーの部分を表現しさえすれば)情感を喚起できるのではないかと思います。その上に、モダリティーが伴えば情感の喚起が促されやすくなるということなのではないかと思います。 D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy. において、toldをadvisedに代えればモダリティーが表明されやすくなりますが、toldであっても文脈と状況次第ではモダリティーの表明は可能だと思います。気持ちを押し包んで(advisedという動詞を避けて)toldを選択したということもありうることだと思います。いかがでしょうか。

  • ダークエネルギーと宇宙定数の関係

    ダークエネルギーの物理的実体として真空のエネルギーが挙げられる,という記述をよく見かけます. 「アインシュタイン方程式において,宇宙項を付加すると空間が加速膨張する」という議論は(純粋な数学なので)曖昧さがないのですが, 1.「数式における宇宙項」と「エネルギーと言う実体」がどのように対応するのでしょうか 2.「真空のエネルギー」というのは,物質が存在している場所にはなく,物質が存在していない場所にあるエネルギー,ということでしょうか. 3.宇宙定数による膨張によって,空間が広がっていくことで,見かけの光速度が遅くなったりはしないのでしょうか.その他の物理定数も変更が加えられないのでしょうか.

  • 数はどうして存在するのですか?

    数はどうして存在するのですか? 私の疑問がどのような学問に属するか、あるいは皆さんのご意見をお聞かせ下さい。 私は勉強が苦手で難しいことはよくわからないので、よろしくお願いします。 詳細は以下の通りです。 ふとした疑問です。気になるのです。 数学に対して、その論理性や整合性を見るとこれほど真実に近い学問はないのでは、と前から感じています。 数学はすべての唯物化学の基礎になっているはずです。物理や生物学、化学も「数」を基本にしているように思います。 実際にも、「●●●●」を見ると●が四つあるように認識できるのは事実ですし、林檎や動物などの「物」は数えられます。 ですので、私は「数」が確実に存在しているように思えてなりません。 たしかにお金や日付、時刻などを考えると、「数とは人間が作り出した概念(記号)なのだ」という話も一応納得はできます。 林檎などの「物」も、いくつあろうと、質量も体積も何もかもが一致するものは一組もないでしょうし、数えることは人間が便宜的に編み出したものだろうとするのも間違いではないと思います。 しかし、それでは答えにならない気がするのです。私が知りたいのは「数がどうして存在するか」であり、「数とは何なのか」ではないからです。後者は数学をやれば何となく理解できます。 概念でも何でも、存在するには理由があるはずです。 百歩譲って「数」が単なる概念で存在しないとするとして、なぜ概念「数」はこれほど現実と密接に関係し、飛行機で空を飛んだり、電話、ネットで地球の裏側にいる人々と会話ができるような技術の基礎になりえたのでしょうか。 「人間にとってこの世のすべては概念だ」というのは真実でしょうが少し屁理屈じみてもいます。 技術の進歩によって、概念「数」の集合である「デジタル」でもかなり現実と近いものを作れるようになってきているわけですが、それを考えるとやはり「数」は現実に最も近い概念といえるのではないかと思います。 ならばそれはなぜなのか。 宇宙を構成するには「数」が不可欠だとしたら、「数」が存在しない状態とはどのようなものになるのかも気になっています。 以上のことを考えた結果、私の疑問に近いものの追求を含む学問があるだろうと思い、調べてみましたが、なかなか見つかりません。 物理学でしょうか?哲学でしょうか? 私のような馬鹿が疑問に思うくらいですから、同じことを考えている方はたくさんいると思います。 私の疑問がどのような学問に属するか、あるいは皆さんのご意見をお聞かせ下さい。 ※他質問サイトにも投稿しましたが、諸事情によりこちらに転載しました。私の文なので著作権侵害ではありません。

  • 粒子数って何?

    初歩的な質問ですみません。 ”物質量”というのを習ったばっかりなんですが・・・ 粒子数(原子、分子の数?)はどんなものでも同じなのですか?物理の教科書で、例えばC,H2O,NaCl..などの粒子数が全て6.02×10^23 で1molなのはなぜですか? Cが基準なのでCの粒子数が6.02×10^23gなのは分かりますが。。 なんか頭がこんがらがってきました^^;

  • リンゴ-1個とはどういう状態なのでしょうか。

    リンゴ-1個とは、どのような状態でしょうか。 wikipediaには「負の数を実世界で見つけることができなかった」とありますが、数学的に適正である以上、何らかの形で存在するのではないでしょうか。 SF映画で見られる「反転世界(ひとつの世界と対をなすパラレルワールド)」なるものが存在するのでしょうか。0個(無い)よりもさらに少ないのだから、世界の裏側?に在りそうな感じがするのですが。0和のように表と裏の世界がつりあっている空間があるのでしょうか。あとエキゾチック物質?という物質は質量がマイナスだそうですが、wikipediaに「概念上のもの」とあります。概念上のものとはどういう意味なのでしょうか。実世界には存在しないということですか。

  • 概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合

    概念と実体の関係について知りたいことがあります。私の説明におかしな点があればご指摘をお願いします。 A: Water is a clear pure liquid. B: I drank some water a few minutes ago. C: I'd like water, not wine tonight. D: Waiter, bring me water, quick! Aではwaterの概念が、カテゴリーとして表現されています。すなわちこの世に存在するwaterすべてに適用される言説です。カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として文中で使われます。又は、限定詞として不可視の冠詞がついていると考えても構いません。今回の議論では限定詞不要という言い方で一括しておきます。  Bではwaterの外延(実体)としてのsome waterが表現されています。some は実体であることを示すための限定詞です。限定詞はあるものに時間や空間の限定を与えるためのものです。ここでsome waterは一定量のwaterを表しています。 Cではwineではなくwaterをと言ってるわけだから、waterの概念がAと同じくカテゴリーとして表現されています。意味(論)的にはこの世に存在するwaterすべてを指しています。水であればどこで採取された水でもいいはずです。ところが、現実には(語用論的には)この世に存在するwaterすべてを表すわけではありません。レストランでの会話だとしたら、waterには店が提供できる量的な限界があるはずです。Cの発話を聞いた後、聞き手はたぶんa glass of waterかa jug of waterを持ってきてくれます。つまり、現実には(語用論的には)実体としての水をも指していることになります。 この場合、カテゴリーを表すわけだから限定詞は不要と考えられます。しかし、同時に、現実に実体としての水をも指しているのであれば限定詞のsomeが必要なはずです。これまでの説明が正しいとすれば、この相矛盾する事態は文法違反として扱われることになりますが、文法的の問題がないとするためには、この矛盾を解決するための何らかの解釈が必要とされます。 そこで、私なりに仮説を立ててみました。 <認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。Dのwaterは実体であるが量を意識しない表現だということになります。  一方、認知対象に空間的制約を与える必要があると思われる場合は(はっきり量を意識する場合は)someを含む数量詞を使う。この場合はもちろん実体のみを表すことになります。Bのsomeはそのような発想で使われる限定詞です。 付言すると、waterは分割されることが想定されない水を、some waterは分割可能な(取り分けることが可能な)水だということになります。>  この考えでよろしいでしょうか? Dは相当impolite(ネイティブはこういう指摘をする人が多いようです)な言い方に聞こえますが、実際にこのような使われ方を時々見聞きします。乱暴な言葉遣いをする人は平気でこういう文を使います。また、瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないかも知れません。Give me water!あるいは単にWater (please)! と言うかもしれません。  限定詞がついていないということは、ここでのwaterはカテゴリーを表しているはずですが、文脈を考えるとそうではないようです。実体としての水を持ってこいと言っています。この世のwaterのすべてではなく、一部分のwaterを表すわけだからsomeがつくはずなのについていません。実体を表すものなのに限定詞がつけられていないわけですが、先ほど提示した仮説に立脚すれば一応の説明が可能です。Give me water!においては、実体としても水が要求されていると考えられますが、量を意識したものではないので限定詞は不要と言ってよさそうです。  だとすると、瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないのではなくて、量を意識する余裕がないのではないかと思います。impoliteだとする説はたぶんに語用論的なものというか、少なくとも文法的には無視できるものであるような気がします。いかがでしょうか。 さらにこういうことも言えそうです。カテゴリーの全体ではなく部分を表す時、そのものはカテゴリーであると同時に実体でもあることも表しているわけですが、表現の重点がどちらに置かれるかは文脈(特に話者の気持ち)に依存するのではないかと思います。 同じことは抽象名詞の場合にも言えます。 E: Fear is the feeling that you have when you are frightened. F: I feel some fear now. G: I feel fear now, not anxiety. H: I feel fear now. I'm so scared. Eではfearの概念が、カテゴリーとして表現されています。カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として、限定詞なしで文中で使われます。 Fではfearという概念に対する外延のすべてではなく一部分のfearが表されています。fearだけでなく、hopeやjusticeなど心の中でうごめくものは量的なものと見なされてsomeをつけることができます。 Gのfearは概念を表しているのでカテゴリーのすべてにあてはまるものです。ただし、現実に恐怖心を感じているわけだから実体としてのfearを感じてもいます。ただし、量的なものではあっても、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言ってよさそうです。 ややこしいのはHです。文の内容を考えるに現実のfearをひしひしと感じているようです。実体としてのfearを表しています。Gと同じく、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。  ついでに、複数名詞の場合にも言及しておきます。 I: Jewels are sold at the jewelry store. J:I bought some jewels at the jewelry store. K: Bring me jewels, not money. L: Bring me jewels. Be quick. IのJewelsは概念に非常に近いものを表しています。この世の宝石すべてに当てはまります。Jでは、カテゴリーの一部を表されています。実物を表すので限定詞のsomeが使われています。 KとLでは宝石強盗が店に押し入った場面を想定しています。  KではIと同じくカテゴリーを表しているはずですが、現実には宝石店の宝石なのでカテゴリーの一部が表されているにすぎません。また、文脈から実物が要求されていると考えられますが限定詞はついていません。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。 Lでは明らかに実体としての宝石が話題になっています。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。いくらでもいいからとにかく持ってこい、と要求しているものと思われます。 この問題は、前回の質問に対する回答者の方のご意見とも関わっています。たしかヘレン・ケラーの次のような話を紹介して頂きました。<ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....."> -ヘレン・ケラーがモノにはすべて名前があることを知ったのはwaterのみずみずしさに触れた時だったはずです。Water! Water! と叫んだ時、waterは彼女にとってカテゴリーの名でもあったし、同時に手で触って確認できるみずみずしさや冷たさを感じさせる実体でもあったはずです。 <認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。>という考えに依拠するとき、waterには限定詞は不必要です。いかがでしょうか?

  • リーマン幾何学を更に発展させた微分計量幾何学

    大雑把な言い方ですが、一般相対論によると、物質(エネルギー)があると、その周りの空間が湾曲しますが、その数学はリーマン幾何学によってあらわさせます。 もし、物質の密度が大きいほど、物質が、時間の経過に従い、どんどん収縮すると仮定すると、リーマン幾何学を更に、進化させる必要があるはずですが、そんな数学(微分計量幾何学)は、あるのでしょうか? 追伸 物質の密度が大きいほど、物質が、時間の経過に従い、どんどん収縮するというのは、あくまでも、仮の話です。数学は、物理(現実)と違い、なんでも許される楽しいです。