• ベストアンサー

幕府ができたあとの朝廷の政治??

oska2の回答

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2207/4896)
回答No.3

>幕府が出来た後は、歴史の教科書では幕府の政治を追っていきます 文科省公認の教科書では、その様に記載していますね。 ただ、鎌倉時代は朝廷と2分割政治を行っています。 実際、朝廷側は度々「討幕命令」を全国各地に出していますよね。 室町時代でも、3代足利義満までは「朝廷の承認の上で幕府が政治を行う」制度でした。 ただ、天皇家分裂に陥った仲裁制度としての(1317年)に決定した「両統迭立」(持明院・大覚寺系天皇の相互交代制)を大覚寺系・後醍醐天皇が認めなかった事で討幕が始まりました。 ※後醍醐天皇の息子は、この制度では天皇になれない。 鎌倉幕府は滅びましたが、政治的な権力を持たなかった後醍醐天皇は失脚。室町幕府の誕生になります。 尊氏は、両統迭立に従って持明院系の光厳天皇を即位させます。 つまり、この頃の朝廷は何ら政治的な力を持っていなかったのですね。 >朝廷は形式だけ運用していたのでしょうか? その通りです。 江戸幕府は、毎年3万石を朝廷に与えていました。 朝廷は、ここから天皇・公家の生活費用にしていたのです。 ※下級公家では、内職をしないと生活が出来なかった。 幕末には、それでも10万石になります。 天皇・公家の文化継承が主な仕事でした。 禁中並公家諸法度に従っていました。 >希に幕府から外交の相談があったようです まぁ、外交文書には「朝廷の印」が必要な場合がありましたからね。 井伊直弼が「天皇の許可なし米国と条約を結んだのはけしからん!」と言うのは討幕側のこじつけです。 当時の朝廷内では、諸外国の情勢は認識不足でした。 当時の諸外国は「国王は、君臨すれども統治せず」を日本でも適用していましたからね。 >内政面での命令は完全にできなくなったのですか? その通りです。 政治的・軍事的な力がなかったので、今でも天皇制が続いているのです。 明治政府になっても、天皇は自分の意見を述べる事は不可能でした。 ※明治天皇は、伊藤博文が指揮する「相撲隊」隊員だったとの説があります。 ※裕宮(後の明治天皇)は、七卿の都落ち時に誘拐され長州で死亡した。 ※裕宮は、右利き・虚弱体質。明治天皇は、左利き・筋肉隆々の大男。 ※裕宮を知っている都の者は、明治天皇を見て「誰や?この人?」と言ったという逸話が多く残っている。

関連するQ&A

  • 武家政権になってからの朝廷と幕府の関係について

    源平の合戦に勝った源頼朝が、朝廷より征夷大将軍に任じられて、鎌倉に幕府を開いた。これより明治維新まで武士の政治の時代が始まる…… ここまでは小中学生でも知っている歴史的事実かと思うのですが 最近このプロセスに疑問を感じまして、質問させていただきました。 武家政権に政治の実権を取られても、京に天皇や朝廷は存続し、形式的には天皇が武家よりも上位でしたよね。この上下関係が残ったからこそ、朝廷が位を武士に「授けて」いましたし、また武士のトップも朝廷の承認を受けてから幕府を開いていました。 そこで質問です。 ・なぜ朝廷は、武士に実権を握られてからも、まるで「お飾り」としてでも存続でき、それどころか形式的には上位の存在であり続けられたのでしょうか? 現代を生きる私の感覚からしてみれば、戦に勝って実権を握ってしまえば、朝廷や天皇を無視しても(もしくは西洋の革命のように処刑しても)かまわないような気がしてならないのです。しかしそうはならず、「武士のトップが天皇や朝廷の承認をいただいて政治を行う」というプロセスが鎌倉、室町、江戸時代と律儀に守られ続けました。 きっと当時の人たちにとっては、そうでなければならない理由があったのではと思います。 (武士にとっては朝廷の承認が無いと、権威の正当性を主張できず、また民衆にとっても、それが無いと権力者として認められない事情や心情があったのかと思います。) 当方歴史の勉学については中等教育レベルで止まっている者です。ご指導のほどをよろしくお願いします。

  • 吉宗は、最も朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたか?

    8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、のでしょうか? 8代将軍・徳川吉宗は、歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった様に思うのですが、どうでしょうか? 朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗は、(秀忠ー家光からの)宗家の血筋ではないのに、将軍になれたのではないでしょうか? 江戸幕府も初期の頃は、対外的には朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せていたと思います。さもなくば、外様大名たちに付け込まれる原因となりますから。 しかし、あの頃(徳川吉宗が将軍になった頃)は、大坂夏の陣から100年が経っており、もはや、そのような事を心配して、朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せる必要はありませんでした。 寧ろ、大坂夏の陣から100年が経過して、なまってきて、公家寄りになってきた(特に、6代将軍・家宣は、自身の御台所の父を始めとする公家と仲が良かったようです。)江戸幕府を引き締めて、はっきりとした武家政権である事を示す必要がありました。 それで、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗が将軍に選ばれたのだと思います。 8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、でしょうか? どうかを教えてください。

  • 江戸時代の天皇・朝廷の役割

    旧東海道が日本橋から京都三条までなので、幕府と朝廷は密接な関係にあったと思います。 当時政治の実権は幕府が握っていたし、今のように天皇は象徴でもありませんでした。 では、天皇家はそのころ何をしていたのですか?教科書には江戸時代の天皇のことはなにも書いてないですよね。

  • 幕府というものについて

    浪人生です。日本史の勉強をして疑問に思ったことがあります。 幕府と聞いて連想するのは鎌倉・室町・江戸の三つですがこれ以外にも幕府ってあると思います。幕府というのは日本史の教科書によると蝦夷征討のため陣を敷く際にまわりを幕で囲ったことからこのように呼ばれるようになった、というような内容が書いてありました。しかし頼朝以降その存在が変わったものになった気がします。そこで (1)頼朝はなぜ権右近衛大将の地位を捨ててまで征夷大将軍になりたかったのか。(それまでに征夷大将軍という存在は歴史の流れの中であまり知れ渡ったものではないのになぜなりたかったのか) どこかの参考書に蝦夷征討のために武士を率いる権利を持つ→武士の棟梁として名実ともに認められるとありましたが、では (2)もし(1)が上で述べたようなことであるあらば、天皇ありきの世の中でなぜ政治の実権を握ることが出来たのか。 征夷大将軍に任命されるのも天皇が全てであった世の中であったのになぜ将軍は政治の実権を握ることが出来、またなぜ天皇はそれを許したのか。それに関連して (3)鎌倉の六波羅探題、江戸の京都所司代に代表する、いわゆる朝廷の監視を名目とした役職がなぜ存在できたのか。 そして (4)幕府とは何か。頼朝以降幕府のあり方が変わったのは一目瞭然ではあるが、ではどのように、そしてなぜかわったのか 以上の四つを教えてほしいです。こういうことではないかというようなことでもかまいません。よろしくお願いします。 (上に述べた質問は全て高校範囲で疑問に思ったことなのでもし事実と違っていたらすいません。高校の範囲を超えていいので納得できるような回答をしてほしいです。図々しくて申し訳ありません。)

  • なぜ朝廷は無くならなかったのか?

    お世話になります。 素朴な疑問です。 鎌倉幕府から王政復古の大号令まで約680年間,武家社会になったわけですが,その間もずっと朝廷が存続し,征夷大将軍も天皇の勅令によって任命されました。 そもそも朝廷そのものを滅ぼす(将軍自体が国家のリーダー)という発想は誰もなかったのでしょうか?

  • 鎌倉幕府権力の推移

    鎌倉幕府権力の推移-3段階説 (1)鎌倉殿(将軍)独裁政治 (2)執権政治 (3)得宗専制政治 について詳しく教えてください お願いします

  • 江戸幕府の終わり

    ある本に「1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。これをもって江戸時代は、終わりました。」と書かれていました。  そして、ある本には、「1868年3月14日、公家や各藩の大名たちを京都御所に集め、天皇にかわって三条実美が、新しい政治の方針を示した五か条の御誓文を読み上げた。これをもって江戸時代は、終わりました。」とありました。 約半年の違いなのですが、歴史上、どの時点をもって江戸時代は、終わったと考えられているのでしょうか。  大政奉還しても旧幕府の考え方を持った少数派がいて、幕府としての機能を果たしていたという考えの人もいました。いろいろな考えがあると思います。よろしくお願いします。

  • 闇にひそむ「朝廷の裏歴史」とは?

    日本史の教科書・参考書どれを見ても武士の時代(鎌倉・室町・戦国・江戸)は 朝廷・天皇家に関する記述が極めて少ないです。 「天皇家の家系図」を見ても、江戸時代の天皇は聞いた事のない名前ばっかりです。 武士の時代における実質的な政権は、朝廷ではなく幕府にあり、天皇は名目上の 最高位でありながら、陰の存在だったという点は理解しておりますが、この時代、 朝廷内ではどんな動きがあったのか気になります。 幕府では新井白石・徳川吉宗・田沼意次などが活躍している間に 朝廷ではひっそりと血みどろの権力争いが行なわれていたのかもしれません。 摂政・関白の座をめぐって、あるいは天皇の擁立をめぐって、五摂家が覇権争いを 演じていたのかもしれません。 「次の関白の座はわが近衛家の物ぞ。一条の手に穢されてなるものか」 「近衛の横暴極まれり。いざわれら一条家の再興を」 みたいな感じで、何か面白そうなストーリーが闇に潜んでいそうな気がします。 私は権力争いの話が大好物で、戦国時代の群雄割拠、現代史で言えば 戦後の政党・派閥抗争なんか面白いと思っているので、江戸時代の朝廷でも 権力争いでもあれば面白いかと思ってみました。 朝廷の権力闘争の歴史についてのサイトや書籍を御存知の方はいらっしゃいますか? また、この歴史について何か御存知の方は何でも教えて下さいませ。

  • 後醍醐天皇と足利高氏(尊氏)との対立

    さすがの歴史好きの私も唯一苦手なのが南北朝時代なのですが ひとつ疑問が 足利尊氏は鎌倉幕府倒幕の褒美に征夷大将軍を要求しました しかし朝廷が与えたのは征西(鎮守府)将軍 この時天皇だった後醍醐天皇は何故尊氏を将軍にしなかったのでしょうか? 素直に尊氏に将軍宣下をして幕府を開かせれば その後の南北朝内乱も起きなかったと思うのです 後醍醐は朝廷の利権を守りたかった?とするなら尚更だと思いますが… 何か間違ってたらすみません この時代は苦手なので

  • 鎌倉時代末期の最高権力者は誰ですか?

    鎌倉時代の末期においては、「執権」の役職が名ばかりの飾りみたいな存在に なってしまい、政治の実権は無かったと聞きました。 「天皇」→ 名目上は、日本の最高地位でありながら、政権は幕府にあった。 「将軍」→ 名目上は、幕府の最高地位でありながら、政治の最高職は執権であった。 「執権」→ 名目上は、将軍に次ぐ政治の最高職でありながら、政権は北条得宗家にあった。 「得宗家」→ 名目上は、執権北条家に次ぐ名門の家系でありながら、実権は別にあった。 名目上の権力順位が5番目ぐらいの地位が、実際の政権掌握をしていたという非常に 分かりづらい構図になってしまいそうですね。 では、この「真の権力者」と言うべき人物の役職とは一体なんだったんでしょうか? そして、これはどういった人物だったのでしょうか?