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遊牧民の武器調達?

eroero4649の回答

  • eroero4649
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回答No.3

アフガニスタンでは今でも男子は成人したときに銃を贈られるという習慣があります。今でもあの辺の人がみんな銃を持ってるのは、江戸時代の武士がみんな刀を差していたようなものですね。 そしてその銃はアフガニスタン製ではなく、ほとんどがロシアまたは旧ソ連製のAK銃です。安価で手に入るからでしょう。 最近は、西側兵器であるM4銃を持っている人もよく見かけます。旧政府が崩壊したときにみんな武器を捨てて逃げたのでしょう。そして、やってきた占領軍の兵士たちが押収して自分の物にしたのでしょうね。 昔の遊牧民の武器も、そんな感じで手に入れたと思われます。他の皆さんがいうように、いつの時代もどこの国にもお金を払えば武器を売ってくれる「死の商人」はいるんですよ。 またモンゴル帝国があれほど版図を広げられたのは、商人たちの支援があったという背景もあります。国境を越えると関税がかけられるのは今も昔も変わりません。もし広大な地域がある統一国家によって安定的に支配されたなら、商人は国境を越える毎にかかる関税を取られることがないので利益が増えますよね。また自分たちが支援している政権が地域を安定して支配していたら、金目の物を持って移動する商人にとっても安心材料ですね。

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