• 締切済み

宗教2世やめたいです

uraringodayoの回答

回答No.9

こんにちは、私は宗教3世、現在40代のものです。 産まれた時から信仰の自由などなく 入会させられていました。 私も物事ついた時から 「何故この信仰をしなければいけないのか?」 「辞めたいけど辞めると言ったら母親が発狂する」といった状況でした。 幸いにも新興宗教にハマっていたのは母親のみ 宗教に入会したきっかけの祖母は 友だちの付き合いで入会したので そこまで熱心ではなく、 私の父や兄弟は母親に言われて やむ終えず集会など参加している形でしたので まだ私は孤立せずにいられました。 ただ家には謎の仏壇があったり 土日は宗教のイベントに行かされる日も あって私の青春をこの宗教のために 無駄に費やしたと思うと悔しいです。 母親に辞めたいと言ったら発狂されました。 洗脳されている人を洗脳から解くのは家族でも難しいです。 なので私は19歳で家を出てなるべく母親と 距離をとりました。 宗教のイベントに誘われても 「仕事がある」と嘘をついて行きませんでした。 そして私が結婚する時にも 母親を刺激しないように 「この信仰は良いと思うけれど、旦那さんは未宗教なので、この宗教の事は言わないで」と お願いしました。 それから幼い頃からこの信仰をしたくなかったこともやんわり説明しました。 母親は不満そうでしたが私が宗教に 籍はおいておくので了承してくれました。 とはいえ結婚してからも 懲りずに何度か宗教がらみの イベントに誘ってきましたが 「宗教の事は言わないで」 「孫たちを会わせたくない」 と私が言い続けていたら 孫に会えないのは嫌らしく、今は全くなにも言ってきません。 私は入会したままですが全く信仰していないです。月の会費も払っていません。本心は脱会したいけど親のために入会したままにしました。 それで母親が納得してくれればいいかなと。 産まれてから信仰が決まっている状況は 本当にお辛いと思います。 良い方向に行きますように。

関連するQ&A

  • 宗教

    昔、親に宗教についてたずねると、家は天台宗や、といわれたことがありました。家はということは結局代々天台宗だったということだと思うのですが、これって当然宗教の自由がありますから自分はちがう宗教を信仰していいと思うのですが、親の信仰している宗教と違っていても特に問題はないのでしょうか?また自分は無宗教というかこの宗教を信じる!という宗教が今のところないので、無宗教のままでいいんですかね?あと葬式のときなどお経が読まれるわけですがこれって葬式の打ち合わせのとき亡くなった人が生前、仏教を信仰していた人かどうか確認しているのでしょうか?また亡くなって葬式のときお経を読んでもらうには生前仏教を信仰していないといけないのでしょうか?よろしくお願いします。

  • 義母の宗教について

    一年前に旦那と結婚しました。 付き合ってるときから知ってはいたのですが義母はある宗教を信仰してます。 私は高校時代に,仲の良かった友人が実親からの過剰な宗教勧誘を苦に自殺をはかり,輸血をすれば助かったものの親の宗教の教えで輸血は許されないとされ結局友人は亡くなりました。 それ以来私自身宗教に対するイメージはひどく自分は死ぬまで無宗教で通そうと思いました。 義母の信仰している宗教は調べてみると,勧誘がひどかったり,お金が必要だったり,集会が頻繁にあったり,何かを強要したり…というようなものではないようです。 しかし先日初めてその場所に連れていかれ正直気が狂いそうでした。 普段は本当にいい義母で 嫌いだと思うこともほぼないです。旦那にも相談したところ 「俺も行けって言われるから行くだけで実際は嫌だし,なにも信仰してないよ。お前の友人の話も親に言ってあまり無理矢理連れ出さないでくれって言ったんだけどな…」と少々困っていました…。なによりも春には我が子が産まれるのでその子だけは そうゆうところに連れていきたくないのです…。 義母は自分が若い頃から信仰していてすごく救われたから まわりのひとにもそうなってほしいと切実に願い家族に勧めてるそうですが家族はほぼみんな無視してる感じです。悪意があるようには見えないのですがね。 ちなみに将来は旦那とともに義両親が営んでいる少し大きな会社を継ぐつもりなので 義母との関係が悪くなることは避けたいのですが… はっきりと自分の口から嫌だと伝えるべきですかね??

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題について問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に非思考の庭が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。それは われわれのものでさえある。けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。そしてそこまでである 信仰をめぐる《超現実》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。到り得ない。   ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とは 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ☆ このように《個人にとっての・わがたましいの》問題である 信仰は。  その信仰から 瞑想を経て観想(テオーリア)を得て この観想から理論(テオリ=セオリ)を打ち出すとすると その命題が 組織宗教では教義とされる。教義は すでに信じるではなく 考えるの問題である。  人は人をころさないものだなぁという観想から 《汝 ころすなかれ》という教義をこしらえる。けれどもこの教えは 信仰の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。ところがこの個人の信仰は ついぞ 非思考なのであって 教義とは別物である。まして組織ないし集団の心をひとつにする手段にはなり得ない。その仮りの命題を持って来て その教義化によって信教と良心の自由を侵してはならないものである。  したがって  ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。  ☆ と言えたとしても 問題は すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》というその組織宗教じたいについての批判が先である。後光でないものを後光としている。信仰から来る後光だと仮りにしても 後光の源をすでに忘れており ないがしろにしている。なぜなら 組織会員一人ひとりの信仰を 集団の教義ないし規則に従うようにする動きを必然的にもたらすからである。  この逆立ちは 個人の信仰の自殺行為である。  個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物である。  仮りに信仰をも批判する人がいて  ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  ☆ というくだりを 次のように言いかえたとしよう。  ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  ☆ だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? まづこのように反論する。  つぎにもしたとえ《信仰は 幻想的幸福》でしかないとしたとしても 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ 話し合いをつうじて互いに幻想も現実に合ったものとして行ける。  信仰は 教義化をせずその観想――おしえのようなものになりうるが――を他人に押しつけない。語り合うまでである。そこで心から同意する内容があれば 自分で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。幻想的幸福は 練られて行くであろう。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく 信仰および自由意志を侵害する悪癖に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 両親の宗教

    私は高校2年です。両親が信仰している宗教のことで悩んでいます。 私が小学校低学年の頃に両親が信仰し始めたのですが、 毎週日曜日に必ずその宗教の神社に連れていかれました。 私は今まで一度もその宗教に対して信仰心がありません。 ただ、両親に当たり前のように無理やり連れていかれてます。 私が一番嫌なのは、 月に1度、滝を浴びさせられるんです。 滝はその神社の敷地内にあるのですが、 浴びるのは女性だけなんです。 しかも、白い浴衣のような薄い生地のものを 上下共に下着を付けずに着させられ、 そして浴びるのです。 水を浴びれば服が透けて、全裸と言ってもいいほど。 しかも、その周りで、たくさんの男性がニヤニヤしながら 楽しんでいるかのように見てるんです。 現に父は、 滝の日に限って機嫌がよく、顔がずっと笑ってます。 そのせいで、私は男性不振になりました。 近くにいたり、触られたりするだけで嘔吐するようになりました。 滝の日になると何度も逃げたり反抗したりしました。 その度に父親に殴られたり水を掛けられたりされます。 大金を捧げて、男性を楽しませて一体何になるのか。 疑問しか浮かびません。 信仰とは自由だけど、私はその宗教を信仰したくない。 親が信仰してるから、 高校を卒業して家を出るまで 私は逃れられないのでしょうか。 学校の先生とか、話を聞いてくれそうな人はいるけど、 行動してくれるような人はいません。 児童相談所とかに相談したら、 私は施設に入れられてしまうのですか?

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 宗教について質問があります

    こんにちは。 私はモルモン教を信仰しているものです。 ですが、バプテスマはしていません。 私は以前から入信を考えていましたが、最近少し疑問に感じ、躊躇しています。 その理由が戒めや教えについてです。 引っ掛かったのが ・両親を敬うこと ・同性愛を禁ずること あと一夫多妻は法律によってしぶしぶ現在はおこなっていないようですが、モルモンの教えでは容認しているように感じます つまり預言者を通して神さまが決めた教えですよね? でも、私は親から虐待されていて親は敬えないし、トランジェンダーで悩んでいてLGBTに関心がある私はどうしても同性愛を禁ずるのも疑問を感じるし、一夫多妻も良いと思いません。 本当に神さまの教えなのかと思ってしまいます。 皆さんはどう思いますか? あと、自分は少し間違ってても自分が信仰している宗教を正当化しようとしているのではないかと思ってしかたがない気がします。 あと、自分が思っていることがたまに勘違いじゃないかと思ってしまいます。 皆さんの考えをお聞かせください。 お願いします。

  • 宗教について両親に言うべきか

    今、結婚を考えている人がいます。その人は創価学会に入信しています。親御さんも入信しているようです。 付き合いはじめから知っていました。私は、創価学会のことは詳しくなかったのですが、宗教に関しては、高校がキリスト教主義だった事もあり、私自身、比較的寛容なため、あまり重要視してきませんでした。 彼の信仰具合ですが、新聞や本は購読していますが、お祈り(?)は一切していません。集会等にも行っていません。私に強要したり、薦めたりすることもありません。 あまり宗教色が感じられなかったため、今まで重要視してきませんでした。それに彼が信仰する宗教であれば、悪いものではないんじゃないか、との想いもあります。 来月、彼を両親に会わせたいと思ってます。 両親には一切話していません。私の家庭は、無信仰一家なので、話したところどんな反応をするか、も想像がつきません。 私は今の段階から、特に話す必要はないと思っていたのですが、今になって、実は話をするべきなんじゃないか、そして理解を求めておいた方が良いのではないか、と思いはじめました。 万一、彼が実際に私の両親に会った時、この話になった場合、親がどんな反応をするのか、も不安材料の一つとしてあります。 果たして話すべきか、話さないべきか、皆様の考えをお聞かせ願えれば幸いです。また、同じような経験をなさった方、経験談を教えて下さい。 宜しくお願い致します。

  • 結婚と宗教・無宗教:これって宗教の押し付け?

    つい先日、会員登録をしました初心者です。 質問するのも今回が初めてですので、皆様、何とぞよろしくお願いいたします。 今回質問させていただく内容はこのサイト内でもよくある内容ですが、「結婚と宗教」についてです。ただ、今まで質問については、どちらかというと特定の宗教を持たない方(以下、便宜的に「無宗教の方」と言います。)からの質問が大半だったような印象を受けましたので(もちろん日本人の大多数はそのような宗教観をお持ちだと思いますが)、今回特定の宗教(私の場合はキリスト教〔カトリック〕)を持っている者から質問させていただきます。 ※ただし、自身はそんなに敬虔なクリスチャンではありませんが・・・年に数回教会に行けばいい方ですし、普通に初詣へ行ったりもします。 私には今、婚約している女性(無宗教)がおり、結婚式のスタイル及び今後の結婚生活等々について少し揉めているところです(感情的に言い合ったりすることはありませんが)。 私が現在結婚式を挙げるにあたって検討している教会では、結婚式を挙げる前に、数回神父様のところに行ってキリスト教に関する基礎的な教義を聞くことが義務付けられています。私自身はそれが当然のことだと思っていますし、もし仮に自分が宗教を持っていない立場であっても「結婚に対する一つの考え方が学べるのだから別にいいや」って感じですんなりOKしてもらえるのではないかと短絡的な考えを持っていました。しかし、私の考えとは裏腹に彼女は頑なにそのこと(教義を聞くこと)を拒否しています。 彼女の主張としては、「結婚式は教会で挙げたいけど結婚にあたって事前に色々な教義を聞くのはイヤ」「宗教の強制ではないのか」と言うのです。私としては、元々彼女と自分の宗教が違っていることについてはお互い認め合っており、今回の行為自体は入信を強制する訳ではない旨説明したのですが、納得してもらえません。また逆に「もし教義を聞くのが嫌なら、そもそも教会で式をあげずに無宗教的な場所で(ウエディングドレスとかも着ずに)人前式で挙げるけどそれでもいい?」と聞くと、彼女は「教会で挙げたい。真っ白なウエディングドレスも着たい」と言うのです。私から見れば、彼女は要するに「形だけのキリスト教」に乗っかりたいだけにしか思えないのです。 ※私からすれば、ホテルや式場に備え付けられているような、まさに「形だけの」教会で式を挙げるのであれば、それは私にとって不快なものであり、いっそのこと「人前式」や「籍だけ入れる」といった選択肢の方がまだマシだと考えるのですが・・・。 今ではクリスマスも宗教色が抜け、日本の行事としてすっかり定着していますが、結婚式を教会で挙げることについてもそのような傾向は多分にあると思います。だから、彼女の気持ち(「宗教色のない教会」で挙げたいという気持ち)も分からなくはないのです。ただ、その気持ちをもって「他の宗教の教えを聞くことすら拒否する」のには違和感を覚えます。それとも、私のしていることは単なるエゴなのでしょうか?妥協点を見つけられずに悩んでいるところです。 そこで、無宗教の方、宗教を持っている方それぞれに質問です。 (1)無宗教の方へ:私は以上のように少なからずキリスト教の影響を受けて育った者ですので、持っていない方からすると「教義を聞く(聞かせる)」こと自体も強い抵抗感を覚えるものなのでしょうか?経験談等もあれば、それについてもお聞かせ下さい。 ※もちろん彼女にも「聞かない自由」はあるかと思いますが、形式だけとは言え教会での挙式を望んでいるのですから「聞く義務」もあるのではないかと思います。 (2)無宗教の方、宗教を持っている方両方へ:「彼女―私」の妥協点はどの辺りにあるかと思いますか? ※私の宗教観は申し上げた通りです。彼女は特に宗教を有している訳ではありませんが、初詣やクリスマス等の行事化されたものは普通に参加します。また、先祖を敬う気持ちもあり、実家に帰ったときなどは墓参りをするなど、私からすれば彼女も決して「(厳密な意味での)無宗教人〔無神論者〕」ではないかと思います。なお、私が宗教を持っていることについては「別に構わないし、それはそれで尊重する」とのスタンスです。 本当に本当に質問が長くなってしまい誠に申し訳ございませんが、皆さま一つよろしくお願いします。 ※補足説明:ちなみに両親の宗教については、 ・彼女側:両親とも無宗教。ただし上記質問に対しては、「娘〔彼女〕が望めばキリスト教でも一向に構わない」との返事を頂いています。 ・自分側:父―キリスト教、母―無宗教。ただし結婚について両親とも「当事者同士で決めたのであれば、特にキリスト教にこだわる必要もない」とのスタンスです。

  • 宗教のこと、教えてください。

    私は、日本に存在している宗教団体名と、その母体の宗教が何なのか等、も詳しくわかりません。 現在、何かの宗教を信仰はしていませんし、団体の宗教に入信したい希望はありませんが、日本人は無宗教だから、と言われると、自分自身がまったく無宗教か? とは、なんとなく言い切れない感じが、時折します。 宗教名とかは特別なくとも、心の中には、自分なりの神様はいつも存在していて、団体での宗教活動等、希望はしていませんが、知識だけは持っておきたいなと思っています。 宗教別の特徴、活動内容 お祈りの方法、儀式について 信仰している方と、無宗教の方との、普段の生活で大きく違う点 恋愛、結婚が、宗教が異なると出来ない所もあるのか?   (合同結婚式するところもありますよね?) 生まれながらに、家系で宗教に属している人たちは、恋愛、結婚の際、相手の宗教や無宗教について気にするものなのか?  恋愛・結婚する相手は、同じ宗教の人に限定しているものなのか?  これまで無宗教の人が入信することもあるのか?  その際にはどんな儀式? 入信方法なのか ?  退会できなかったり、希望するとよからぬことがある宗教 宗教団体の幹部の方とかに、修行の上、特別な力を持つ人もいるのだろうか?  宗教によって、禁止されていること、など 独特な思想について など、宗教に属さない人たちから見ると、謎のヴェールに包まれているようなこうした疑問について、何かご存知の方がいましたら、教えてください。 よろしくお願いします。

  • 彼氏が宗教を信仰しています

    こんにちは。私は今付き合っている彼がいます。一緒にいて楽しいし、結婚したいと思ったことも何度かあります。でも、彼はある新興宗教を信仰していて私がそれが嫌でたまりません。(彼の両親は信仰していません)私には勧誘をしてきたりはしないので、彼の為を想うなら好きなようにさせてあげるのが本当だと思うので、何度も我慢しようとしましたが、その宗教の団体活動の為に朝まで働かされたりしているのをみると、なんとかやめてほしいと思います。しかも彼は結構人を信じて疑わない性格なので、自分からやめる事はよほどのことがない限りないと想います。彼をできるだけ傷つけずにやめてもらえるには、なんと言えばいいのでしょうか?前に何でその宗教をやっているのか聞いたら、好きでというより義務みたいな感じでやっている。と言ってました。何か良いアドバイスがありましたらよろしくお願いします。