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邪馬台国の位置についての私論
- 邪馬台国についての個人的な研究を通じて、北九州に存在した可能性を考えています。
- 魏志倭人伝の記述から、邪馬台国が近畿地方ではなく北九州にあったと推測しました。
- 弥生時代の移動手段や船の航海術について考えると、九州に邪馬台国があった方が自然だと思います。
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>邪馬台国は北九州にあったと思うのです。 私も、九州説が有力かな!と思っています。 近畿説では「東と言う感じを間違えて南と書いてしまった」という、致命的な欠点がありますからね。 ただ、倭人伝をそのまま読むと「最後には、琉球地方」まで進みます。^^; 私が九州説を支持するのは、旧唐記に「倭国は、委奴国である」との記載があるのです。 委奴国王金印は、九州で見つかっていますよね。 邪馬台国は「連合王国で、委奴国が盟主的な国だった」と思うのです。 ※中国語では、台=タイでなくトと発音。ヤマトコクが正解? 天皇家の正当性を書いた日本書紀とは、全く異なる記述がある「物部家古文書」にも九州説の記述があります。 ※物部神社の古文書。 物部家は、天皇系よりも古く「出雲王・スサノウの子孫であるウマシマジを祖先」としています。 この古文書では、出雲のスサノウが九州の邪馬台国に侵攻。(邪馬台国動乱) アマテラスと和議を結び、アマテラスとスサノウは契りを結ぶ。 3人の女神が生まれ、宗像大社の祭神となる。 その後、近畿地区の王国を攻め滅ぼします。 神武大王(おおきみ)が統治した国の国号は、秋津洲(アキツシマ)。 ※邪馬台国は、隼人族・熊襲族の攻撃を受けて衰退。神武は九州を脱出し近畿へ移動。 崇神大王が統治した国の国号は、敷島(シキシマ)。 国号が変わっているので、支配者も代わったのでしようね。 そもそも、日本書紀は「天智天皇を滅ぼした天武天皇の正当化の為に書かれた勝者の記録」に過ぎません。 ※天皇を名乗ったのは、天武が最初。 こんな事を書くと、万世一系の天皇を主張する方から叱責を受けますが・・・。 話が逸れましたが、そもそも「魏志倭人伝は、魏が動乱で亡ぶ頃に書かれた記録」です。 自国が亡ぶか否かの時に、他国の正確な情報を持っているとは限りませんよね。 とすれば、勝者の記録である日本書紀・古事記の記録よりも古い古文書を参考にするのも一考です。 これらの古文書を「日本書紀と異なる内容なので偽書扱い」とするなら、魏よりも新しい「旧唐書・新唐書」を参考にするのも一考。 「邪馬台国と日本(日下・ひのもと)は、全く別の国だ」という衝撃的な内容も旧唐書・新唐書に書かれています。 まぁ、日本はどこかの国と違って「為政者が都合よく決めた正しい歴史」を強制しません。 教育思想の自由が認められているので、自由に色んな考えを聞くのも面白い!
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- rikimatu
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まず最初に、魏志倭人伝に関してなのですが 記述に関しては書いた陳寿がわざと嘘を書いていたらしいという説もあります。書いていた時はまだ呉があったのでもしも読まれたときに同盟(もしくは属国などにして戦力が増える)などされたら困るという意図もあったみたいです。 航海術に関しては東南アジアまで縄文人が行っていたのでそれなりにはあったみたいですよ。 方角は星を見ていたのだと思いますよ。
- Radish_Boyaboya
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九州にあったかもしれないですが、有ったとしたら、国と言えないような、小さな集落か村みたいなものではなかったか?と思います。 卑弥呼も女王ではなく、村長レベルの人だったかも? それなら、日本の記録に残らずに、存在したかもしれないので。 金印が九州で1つしか見つかってないので、最初から金印は1つしかなく、九州にあった集落を、邪馬台国とか、勝手に創作したのかも? 田中英道先生が言ってたと思うのですが、卑弥呼が存在した記録が日本全国を探しても出て来ない。 日本は、実在の有力人物が存在した記録は、どんなに古くても、日本中を探せば何かが出て来る。 それが、”女王”扱いされていたような人物の記録が、日本中を探しても何も出て来ないこと自体がおかしいのだとか。 魏志倭人伝に書かれた内容がデマだったことも、想定した方が良いかもしれません。
- eroero4649
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>なぜ九州北部から近畿地方まで一気に記述が飛んでしまうのでしょう。なぜその間にあったはずの国々についての記述がないのでしょう。 それは全然分からないですね。かといって奴国の隣に邪馬台国があったと考えるのは「なぜ魏志倭人伝の記述をガン無視するのか」という疑問に有効な回答ができません。 私個人は、「邪馬台国は九州にあったと思いたいが、畿内であっただろう」と思っています。 その最大の理由が、古代中国語の研究者によると2世紀頃の中国語で「邪馬台」を発音すると「ヤマタォ」になるから、というものです。 基本的に中国では音に字を当てますから、その使者が自分の国は「ヤマタォ国」だと名乗ったのであれば、大和から来たと考えるのが自然だろうなと思うからです。 何かと話題の「南に1ヵ月行ってしまうと海の上になる」というのは、日本列島を南北ひっくり返して考えるとそんなに間違っていないという考え方があります。 倭国側の使者が自国の方角をちょいと間違えて認識していたのか、それとも意図的にそのように報告したのかは分かりません。実際の日本列島は東北方向に向かって伸びていますが、それを南東方向、つまり東北地方が南に向かって伸びていたと考えていたなら、大和が南の方角にあったと魏が認識しても不思議はないと思います。 というのも、魏が倭国からの使者を受け入れて友好関係を築いた理由が「倭国が呉への牽制になるかもしれないから」と考えたからです。当時の中国はいわゆる三国志の時代です。もし日本列島が南に伸びている島なら、呉を背後から牽制できるかもしれません。 またそのことを期待させるために倭国の使者が「ヤマタォ国は奴国より南にあります」と報告した可能性もあると思います。 >これは単純に私の感覚的な思いですが、人間は目に見える範囲でしか行動できないと思うのです。今は地図もあるしスマホもあるので知らない土地に苦も無く行けて、ナビシステムがあれば苦も無く目的地に行けます。しかし弥生時代のろくな航海術も移動手段もない時代に、どうやって帯方郡から近畿地方に行ったというのでしょうか。 それは大いなる間違いです。人類の行動力を甘く見てはいけません。 そもそも三国志の主人公劉備は河北省つまり今の北京に近い辺りで生まれ、洛陽から黄河の辺りを経てちょっとだけ山東半島の根っこのあたりをウロウロし、そこから揚子江沿いの中部を転戦した後に四川省に行って成都に入りました。地図で見てください。日本と中国の間を3回くらい行って帰れますよ・笑。鉄道が発明されるまで、人類は自分の足で歩くか馬に乗るか船に乗るか馬車に乗らないと移動できなかったのですからね。 卑弥呼の時代よりずっと前、縄文時代では、シベリアから日本原産の黒曜石が発掘しています。つまり日本で採掘された黒曜石が流れ流れてシベリアまで「輸出」されていたのです。今から少なくとも数千年前に日本とシベリアの間で交易があったというのは非常に驚くべきことです。 それだけではありません。八丈島では縄文遺跡が発掘しています。その後の時代の遺跡が出ていないので、どうやら八丈島の縄文人は何かの理由で絶滅したようですが、縄文時代のある時期、確かに八丈島には誰かが住んでいたのです。 縄文時代は単純な丸木舟しかなかったはずで、そんな船でどうやって太平洋を渡ったのか。それどころか、そこに島があるだなんて誰も知らなかったはずなのに、太平洋にポツンとある八丈島にどうやってたどり着いたのか。集落の遺跡があったということは、少なくとも女も一緒だったということです。子供を残せる年齢の何人もの男と女が、八丈島に来たのです。 >要するに目に見えない目的地に向かって、ただ人からの聞き伝えを信じて移動するなどということは不可能だと思うのです。 これは歴史的視点が欠けているかと思います。日本史から見ればまだ日本は原始の時代のような生活です。 しかしひとたび「世界史」という視点に立てば、劉備や諸葛亮は卑弥呼が魏に使者を送るより前の時代の人です。諸葛亮が死んでから4年後に卑弥呼の使者が魏に来ているのです。 三国志は後漢の時代ですから、その前に前漢があり、最初の統一王朝である秦がありました。始皇帝の兵馬俑ってのをご存知でしょう?あれは卑弥呼の使者より400年くらい古いです。現代から400年前というとおおよそ戦国時代です。そんな前にあんなすごい兵馬俑なんてのを何万体も作ったのです。 諸子百家なんていうともっと古いです。孔子や老子は兵馬俑より古い。 歴史はもっと大きなスケールで見てください。あともうちょっと、邪馬台国以前の時代のことにも興味を持ってください。縄文時代、弥生時代でも日本全国規模で人やモノのやりとりがあります。古代の人々は、質問者さんが思っているよりももっと大きなスケールでダイナミックに活動しているのです。
- D-Gabacho
- ベストアンサー率64% (1068/1663)
「魏志倭人伝のどこかに記述の誤りがあったはず」というのは、ほとんどの研究者に共通する認識ですし、距離の記述が「千余里」「五百里」「百里」といったように明確な箇所と「水行二十日」「水行十日、陸行一月」といったおおざっぱな箇所に分かれている点に注目しているのも、なかなか鋭いと思います。 しかしながら、せっかく距離に関する記述方法の違いに着目したのに、それを邪馬台国の位置に関する考察には生かしていないのではないでしょうか?質問者さまの仮説のように水行十日や二十日が一日や二日の間違いで、陸行一月も一日の間違いというような短距離であったとしたら、それまでの「五百里」「百里」といった距離表記を、わざわざ「陸行一日」などというあいまいなものに変える理由の説明がつきません。 また「目に見えない目的地に向かって、ただ人からの聞き伝えを信じて移動するなどということは不可能だと思うのです」というのはもっともなことですが、探検家が一人で未知の国を旅するのと違って、魏の官吏が朝貢国である倭に使者として訪れるのですから、当然、案内人や護衛などがついていたでしょう。日本からの遣唐使も自力で唐の都・長安まで旅したわけではありません。上陸地で唐の官吏の出迎えを受け、唐の兵士の護衛で長安まで行くのです。宿泊地の手配その他もろもろすべて唐のお膳立てで費用も唐が負担します。同様に魏の使者の倭国内の移動は倭国側がすべて手配したでしょうから、邪馬台国の支配の及ぶ範囲であれば近畿でもどこでも移動に支障はなかったと思います。
お礼
詳しい解説をいただきありがとうございます。 邪馬台国論争は新たな大発見でもない限り現状では永遠の謎だと思います。いろんな解釈で推理するしかないですが、そこが古代史のロマンなのかもしれません。いろいろな方の意見を聞けて参考になりました。 ありがとうございました。
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
そもそも、大陸国家で航海術に優れていたとは言えない中国が方角を完璧に把握できたとは到底思えないし、「邪馬台国」が日本国内であったと言い切れるものでもない。当時「日本」という概念すら無かっただろうから永遠の謎でしょうね。
- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
浅い知識による推論ですが… 時代は紀元前、場所は福岡。 中国「漢」は東方に「倭」という地の存在を認識していた。 その後、時代は紀元1世紀、 光武帝が倭の「那」から冊封使を迎え金印を授けた。 後に倭は統一され「邪馬」壱国となり、女王「卑弥呼」が立つ。 そこから暫く女王の時代は続くが国勢は安定せず、 以前から往来が有った朝鮮半島北方民族に追われた南方民族が半島から移り住み結果的に「邪馬壱国」は凌駕され、その頃から男王の「邪馬臺国」となり東征を始めた。 紀元3世紀、遂に京の地を定め「大『和』国」として「ヤマト」を名乗った。 だから大和民族には朝鮮渡来と思われる遺伝子を持つ者が多いのだと推測する。 「天岩戸」伝説にも諸説有るが、 戦を逃れ岩穴に身を隠した先住民族最後の邪馬壱国「女王」が、渡来民族の「男王」に説得されて座位を譲り渡し、 卑弥呼から続いた先住民族による「女王」の時代から渡来民族を主体とする「男王」の時代に変わった事を、 後の民衆にも分かりやすく言い伝えられたものではないだろうか。 文字を持たない先住民族の「ワ」や「ナ」等の発音が時代ごとに大陸の文字に変換されたり渡来民族が「倭」民族の発音に漢字を当てたり、 更には漢字に和人の読みによる発音が充てられたりした事が、 紆余曲折しながら「倭の那」を発祥とし女王を擁する「邪馬」壱国から天皇を王とする「大和」の国に、 国の名前は「文字」も「読み」も変化を遂げたのではないだろうか。 時系列を考えれば、 「倭」の時代に日本には文字が無いので記録は「大陸の古文書」に頼るしかなく、 その後の大和朝廷成立までは確かな記録も無く空白と言える時代が暫く続いている。 その空白の時代は200年ほど有るのではないかと思われる。 その間に大陸由来の文明を有する民族が定住せずに東征を進めていたと考えるなら、 後世に残る記録が見当たらないのも納得できるのではないだろうか。 以上、大半が稚拙な知識による憶測ではありますが、 参考にできる部分が有れば幸いです。
お礼
詳しい解説をいただきありがとうございます。 邪馬台国論争は新たな大発見でもない限り現状では永遠の謎だと思います。いろんな解釈で推理するしかないですが、そこが古代史のロマンなのかもしれません。いろいろな方の意見を聞けて参考になりました。 ありがとうございました。
お礼
詳しい解説をいただきありがとうございます。 邪馬台国論争は新たな大発見でもない限り現状では永遠の謎だと思います。いろんな解釈で推理するしかないですが、そこが古代史のロマンなのかもしれません。いろいろな方の意見を聞けて参考になりました。 ありがとうございました。