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邪馬台国近畿説での疑問

近畿説の方は以下の疑問に対しどのような回答を出されているのでしょうか? 魏志倭人伝ベースの話です。 1;帯方軍から一支国まで一万二百里、邪馬台(一)国まで、一万二千里となっています。 2;対馬・壱岐・北九州に代官置いていたとありますが、近畿から安全に行き来出来たのか? 3;日本でしか発掘されない?銅鐸に関して記載ない。 4;出雲/吉備の記載がない。 5;記紀に記載がない。 6;大小(大人/子供or偉いさん・平平?)顔身体に入墨している。他漁労民の風習が書かれている。 7;古事記では顔に入れ墨した人に虐められ、天皇になってから仕返ししたとあり、顔の入れ墨が通常でなかったと思われる。 8;魏志倭人伝ではいずれの版本でも邪馬一国となっているはずなのに、近畿・九州説の大半の本では台国に代えてあります。非常に作為的と思われます。

みんなの回答

  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.8

#3 回答者:oskaさんの補足 おまけ・・・。 >出雲/吉備の記載がない    -省略- 「嫌な表情で、回答拒否(に近い回答)」に遭いますよ。 大国主命は、出雲の国に戻るのが嫌々でした。(別の場所で生涯を終えたかったようです) 大国主命は、藤原不比等に指示され不機嫌そうな感情を抱いていた。 出雲の民を人質に獲られ、大国主命は渋々した気持ちで出雲の国へと向かいましたので、 もしかしたら、出雲井神社は大国主命の墓地かもしれませんね。 一応2chに記述しましたが、神田明神は出雲神社 第一号です。 その後、出雲大社は出雲の国で創建されました。 大国主命の家族が一人、関東に連れて行かれ、社を建て神社を開いたのが神田明神の基です。 神田明神の歴史 http://www.kandamyoujin.or.jp/profile/rekishi.html 社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ) により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。 当時は、何もない平地にただポツンと神社だけが建てられていた。奇怪な風景です。

回答No.7

ふつうに読むと、熊襲に悩まされ、日向から船出して、 瀬戸内海を放浪して安住の地を見出せず、大阪に上陸 しようとして撃退され、迂回して紀伊半島に逃げ込み、 十津川の民を味方にして奈良~京都に入った、という遷都 のプロセスが見えるが、一ヶ所じゃないとダメな理由は? 当時は、中国の古代も同じだが小国のゆるやかな連合 体であり、「中央」はなかった(持ち回りなので、卑弥呼 (ひむか=日向)が落ちた後、男王が立ったがダメで、 伊予が幹事を務めたとか)ので、中国的な中央集権の 常識で記載しようとした「魏志倭人伝」は混乱した、ていう。 日本を倭=和と呼んだのは、「和=集合体」であったから でしょう。 個人的には、日本原住民のポリネシア系の文化において、 集落の代表(マタイ)の集まりによる合議制(強意の接頭辞 「ア」を付して「アマタイ」)が「邪馬台」の語源であり、 それを訳して「和」にしたが、中国は悪い意味の「倭」に 変える一方、日本人自身は、その幹事国を「大和」とし、 その意味である「ヤマタイ=ヤマト」を読みにした、という 説がピッタリな気がします。

回答No.6

宮崎市定という、東洋史の大家がおられまして、 この先生の意見に全面的に賛成というわけではないのですが、宮崎氏は畿内説です。 しかし、畿内説ですが、邪馬台国の方角が南ではなく東だとかではなく、魏志倭人伝については内容に大して意味はない、と言っています。 中国の歴史書は、特に異民族に関する記述は正確ではないから、一字一句を精読しても無意味という事です。 例をあげますと清代に書かれた「明史 日本伝」で、豊臣秀吉についての記述は以下となっています。 『日本にはもと王あり、その下に関白と称する者ありて最も尊し。時に山城州の頭、信長をもってこれと為す。たまたま猟にいで、一人の樹下に臥するものにあう。驚起して衝突す。とらえてこれをなじる。みずから言う「平秀吉、薩摩州の人のやっこたり」と。雄健僥捷にして口弁あり。信長、これをよろこび、馬を牧せしめ、名づけて「木下人」という。のちにようやく事を用う。信長のために画策し、二十余州をあわす。ついに摂津の鎮守大将となる。 参謀の阿奇支なるものあり、罪を信長に得たり。秀吉に命じて兵を統べ、これを討たしむ。にわかにして信長、そのしもの阿奇支の殺すところとなる。秀吉、まさに阿奇支を攻め滅ぼす。変を聞き、部将の行長らと勝ちに乗じて兵をかえしてこれを誅す。威名ますますふるう。ついで信長の三子を廃し、関白を僭称し、ことごとくその衆を有す。ときに万暦十四年なり。 』 間違いを探すと、 信長は関白になったことはない。秀吉は「平秀吉」と名乗った事はないし、薩摩出身ではない。 阿奇支は明智光秀の事でしょうが、最初のアしかあってない。 信長が秀吉に明智光秀討伐を命じて逆襲にあって殺されたというのは、本能寺の変と違う。 「部将の行長」は小西行長の事でしょうが、山城の合戦には参加していない。 間違いは、他にもいくらでも出てきます。 この様なレベルなわけです。明史が完成したのは、日本では徳川吉宗の時代ですが、その時代ですら中国側の日本への関心度はこの程度だったわけです。 当時でも日本から文献を取り寄せたりすることも可能だった筈ですが、必要性を感じなかったのでしょう。つまりどうでも良い事だったのです。 それより1000年以上前の記録がどうして正確なものであったと言えるのかという事です。 したがって、この先生にかかれば、あなたの疑問にある1から8までは、大して意味ないで済まされるのではないでしょうか。 阿奇支はアがつくから明智光秀だろう。 同じ理屈で邪馬台国はヤがつくから大和のことだろう。魏志倭人伝には色々書いてあるけど、そんなの関係ない、で終わりなわけです。

回答No.5

邪馬台国の場所によって、ヤマト政権の場所が決まってきます。 賛否両論あると思いますが僕は九州説派ですね。

441moe
質問者

お礼

有難う御座います。

  • tokrenf
  • ベストアンサー率25% (3/12)
回答No.4

 この手の話は結構怪しいんですよね。  1.里の長さが時代によって違う。短里を使用したのではない。起点になる位置の解釈が違う。  2.一大卒は大宰府の前身ではないか?  3.神武天皇は九州から東征した。よって銅矛・銅戈の文化圏の由来ではないか?  4.日本書紀に神功皇后が山陰沿いを通って北九州へ来た。よって中国地方は制圧され、領内のため。  5.中国との冊封体制を隠すため。当時、常に記録が採られていたとは考えにくい。  6.倭国の範囲が特定されていない。  7.6と同じ  8.一は゛ゐっ”だったかな、元の字が打てないのですがあの文字を略した。  4や7は私の想像です。ごめんなさい。多分こんな感じだったと思います。私個人の感想としては、無理があるように思いますね。他にも矛盾点はあるんですよ。魏志倭人伝に記載されていないものとして、馬や絹の存在、逆に城柵、物見やぐらやなどの記載があること、また鉄器があまりにも少ないことですかね。纏向遺跡にそぐわないんですよ。  それに同遺跡のC14年代測定法に使用している土器の炭化付着物は汚染の可能性が高いし、年代測定すると、1世紀から4世紀とかなりばらつくんだそうです。この公式発表の2日前にマスコミがリークしていたといいますから、何か裏があるのではと疑いますね。

441moe
質問者

お礼

個人的には奈良が一番可能性低いと思っています。奈良の学術員、教育委員会の人は奈良前提で、純真無垢な私の質問は馬鹿にされ無視されます。貴族平民共に顔身体に刺青入れる習慣に至っては更にメチャクチャでした。 質問目的は新しい発見を知りたい為です。邪馬台国所在地分かれば面白くないでしょう。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>近畿説の方は以下の疑問に対しどのような回答を出されているのでしょうか? 先ず、近畿説の方は「大和朝廷=邪馬台国」と看做す事が大前提です。 そうしないと、天皇支配の歴史(古事記・日本書紀)を否定する事になりますからね。 大げさに言うと、古事記・日本書紀を否定すれば天皇を否定する事にも繋がります。^^; 神攻皇后は、ヤマト朝廷成立後の人物(日本書紀)ですから、近畿説でないと都合が悪い。 「天照大神は、卑弥呼だ!」という説もありますよね。 質問にある個々の回答は、(中国・韓国と異なり、学問の自由があるので)人それぞれに回答が異なります。 また、どれが正しいのかは誰にも分かりません。 近畿悦・九州説以外にも、四国・沖縄など全国各地に「ここが邪馬台国だ!」という研究者が多いですよ。 それぞれ、自説に都合が良い様に魏志倭人伝記述を解釈していますがね。 魏志倭人伝の記述の通りの方向及び(当時の一般的な基準での)距離を線で結ぶと、奄美大島から沖縄地域になりますよね。 が、近畿説の方は「記述に間違いがあって、実は南でなく東なんだ」と不思議な解釈です。 九州説でも「陸行1月は、陸行1日の誤りだ!」との、不思議な解釈を行っています。 そもそも、魏志が書かれた当時は「魏が徐々に衰退している時代」です。 どこまで正確なのかを、先ず検証する必要があります。 おまけ・・・。 >出雲/吉備の記載がない 出雲・吉備は、古代ヤマト朝廷と敵対していた国々です。 出雲大社でも、現祭祀は古代ヤマト朝廷から派遣された一族が代々行っていますよね。 が、お参りをする時の正面には「大国主命は、居ない」のです。 本殿正面には、古代ヤマト朝廷から派遣された軍司令官が弓・剣を持って征服者として鎮座しています。 この弓・剣の先は、本殿の向かって右側に鎮座している大国主命に向いています。 つまり、占領軍が大国主命(一族)が再度蜂起しないように見張っている状態なんですね。 ※拝殿で拝んでいるのは、軍司令官であって実は大国主命では無い。 この事を知っている方は、拝殿正面でお参りした後で「大国主命が正面になる位置になるように、本殿の左側方向に回って大国主命に向かってお祈り」を行います。 余談ですが、出雲大社神官一族よりも古い一族が出雲に存在します。 大国主命一族の、子孫なんですね。 子孫?と言っても、某全国紙の編成局次長を務めたり、裁判所の判事だったりと真面目な一族です。 この一族が守るのが、出雲井神社です。 質問者さまも、出雲大社で「出雲井神社の場所」を訊いてみて下さい。 「嫌な表情で、回答拒否(に近い回答)」に遭いますよ。 まぁ、歴史は勝者が作るのです。邪馬台国も、例外ではありません。 質問者さまも、色んな説を見れば「各説の矛盾と回答」が分かります。

441moe
質問者

お礼

現時点では何が正解かわからないのが前提です。質問内容を説明する為に多くの傍証を検証されていると思うからです。 韓国併合を正当化する為多くの中国古資料が研究されました。 当然昔韓国南部が倭国であったとしたい為です。真偽は不明です。

  • chiha2525
  • ベストアンサー率10% (245/2384)
回答No.2

一応、私は九州説を支持している者ではありますが、畿内説的な説明としては次のようなものになると思われます。 1、三国志の時代には1里が約400~440mであり、魏志倭人伝に書かれている里数は現実の尺度に合わないため、これを重視しない。 2、代官と行き来の安全性との関連が良く分かりませんが、九州も機内ヤマトの勢力下であったと考えれば無理なことではない 3、記載のないことは問題にならない 4、同上 5、北九州が機内ヤマトの支配下であるなら、北九州の記述があることは不思議ではない 6、7、同上 8、三国志の原本は失われており、現存する写本で最古のものは宋代のものだったと記憶しています。それらが『邪馬台国』『台与』(台は旧字、分かりやすくこちらで書いてます)ではなく『邪馬一国』『一与』と記されているのは、他の歴史書の記述などを合わせて考えると、台→一の改字が意図的に行われた可能性が高い、と私は考えます。

441moe
質問者

お礼

ありがとうございます。 おっしゃるように、北九州が大和の支配下なら疑問解消です。 8に関しては、原資料は資料のままに記載した上で、間違い等を論ずるのが、研究の鉄則と思うからです。

回答No.1

私は専門家でもないし、その手について詳しいわけでもありませんが 近畿説であっても九州説であっても その時代は言い伝えであるので、どうしても詳しく伝わらなかったなどという場合が考えられます。 質問者さんがおっしゃったような部分でおかしい部分もあると思いますが 逆にいうと九州説にもおかしい部分があるということにもなります。 そのように議論してても昔の人が現れるわけではないので嘘かホントかはわからないという結論に至るしかないのだと思います。 ちなみに私は九州説の人間です。

441moe
質問者

お礼

ありがとうございます。 数少ない資料として中国の記録があります。 仕事で5~6年奈良を廻り、文化財関係にも出入りしていましたが、質問出来た学芸員の方全ては「邪馬台国=大和」が前提で、上記疑問は馬鹿にされた上、何一つ回答得られませんでした。特に原資料で一国になっているものを台国にした上での研究姿勢は非常におかしいです。一般には許し難い方法の筈です。原資料は絶対に改竄したら駄目でしょう。少し話し逸れました。

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