なぜ卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていないのか?

このQ&Aのポイント
  • 卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は、卑弥呼が日本で嫌われた売国奴であり、魏に支援を頼んだことで親族の卑弥弓呼に殺されたためです。
  • 日本の記紀において卑弥呼に関する記述は数行で済ませられており、他の文献でもほとんど無視されています。これからも卑弥呼は日本にとっては重要な存在ではなかったと示されています。
  • 魏志倭人伝には卑弥呼と卑弥弓呼の対立や卑弥呼が魏に援軍を頼んだことが記されています。卑弥呼は軍事面では卑弥弓呼に敵わず、売国奴行為と見なされて殺されました。
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卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は?

以下のような目の醒める興味深い投稿を見つけました。あなたはどう思いますか? 卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は卑弥呼が日本では嫌われた売国奴だったからです。 実は卑弥呼に関連する事は記紀の中に記されていますが、それは日本書記の神功皇后のなかで魏に貢物をした時に関連した記事が出てくるだけで当時の記紀の作者らは魏志倭人伝の存在も内容も知り読んでいながら、全く興味を示さずに調べようともせずに、神功皇后の事だけ書いています。 つまり記紀を執筆した人々は完全に卑弥呼を無視しているのです。 しかも彼らは卑弥呼が存在していた事さえ知っています。 それなのにどうして卑弥呼の名前さえ書こうともせずに無視して軽視したのでしょうか? それは卑弥呼が当時は売国奴であり、魏に支援を頼んだところで売国奴として、親族の卑弥弓呼に処分(殺害)されたことに原因があります。 卑弥呼の最後を見てみれば一目瞭然です。 卑弥呼の行動については日本の記紀では数行で済ませていますし、他の文献でも卑弥呼はほとんど無視されています。この事から卑弥呼は日本にとっては重要な存在でなかったことを示しています。 それでは卑弥呼が書かれている魏志倭人伝をもう一度見てみましょう。 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 狗奴国の卑弥弓呼と卑弥呼の仲が悪く、しかも男子王の卑弥弓呼の地位は高く卑弥呼もおいそれと手出しできなかった事が魏志倭人伝に書いています。 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之卑弥呼以死 魏志倭人伝にも書かれているように卑弥呼が魏に援軍を頼んだところでこの男子王である卑弥弓呼に殺されたとみるのが妥当だと思います。 その原因もこの男子王の卑弥弓呼に軍事面では全く敵わないから外国に援軍を頼むという今でも昔でも恥知らずともいえるべき売国奴行為です。 卑弥呼は同じ日本人からも見捨てられて、、魏に内通した売国奴として卑弥弓呼(卑弥呼王)に殺されたのでしょうね。 しかし卑弥呼と卑弥弓呼(卑弥呼王)はどうみても夫婦か血縁的に非常に近い関係ですね。 当時は兄弟でも肉親でも時として反目して戦争で殺しあっていました。 魏志倭人伝をよく見ると卑弥呼は軍事面においてはこの男子王の卑弥弓呼に全く敵わずに援軍の要請を魏に出していることがわかります。その中で卑弥呼は魏を説得させるために明らかに嘘をついています。 だから話がおかしなことになるのです。 金印の原因となった貢物のついても、お金はあるが、軍事力がない卑弥呼のバックグラウンドを垣間見る事が出来ますね。 さて狗奴国の卑弥弓呼ですが、卑弥呼と名前が非常に近い事、また卑弥弓呼とは卑弥呼王と推測できるが故にこの人物も間違いなく皇族であり、卑弥呼とほぼ対等な立場の人間だったと思われます。 卑弥弓呼(卑弥呼王)と卑弥呼は文字通り兄弟若しくは親戚。はたまた夫婦であったと考えられます。 だから狗奴国の卑弥弓呼も邪馬台国の政治に関与できる人間と見た方がいいでしょう。 実際に卑弥弓呼は男子王を擁立しようとしています。 と言う事は狗奴国の卑弥弓呼は邪馬台国の政治に口を出せる立場であった事がうかがえますね。 魏志倭人伝でも狗奴国の卑弥弓呼は殺されたとは書いてありません。 むしろ邪馬台国の後継者問題に口をはさんで争いを起こしているのです。 それでも殺されていないことが伺えます。 これは卑弥弓呼は卑弥呼と仲は悪かったが、邪馬台国において非常に高い地位にあった事を示しています。 結局はこの卑弥呼と言う女は対立する卑弥弓呼を殺ろして日本を乗っ取るために魏に援軍を頼んだものの、それがすぐに発覚して殺されたとみるべきでしょう。 卑弥呼(詐欺師)の貢物や金印の目的も魏志倭人伝に書いてありますし、死因も書いてあります。 じゃあ、卑弥呼とは誰だったのでしょうか? 最近の最も有力な説の倭迹迹日百襲媛命ですが、この人の場合には最後には陰部に棒が刺さって死んでいます。(これは最後には売国奴と死んだことを表しています) 魏志倭人伝の卑弥呼の場合にも悲惨な死を迎えましたから、合致していますね。 日本の記紀によると神功皇后の時代に卑弥呼がいたと記されています。 注意したいのは記紀では神功皇后が卑弥呼だとは一言も言っていないのです。 該当するのはおそらく仲哀天皇の残りの二人のお妃でしょう。 もしくは神功皇后に仕えていた侍女あたりでしょう。 本居宣長は山門(ヤマト)の田油津姫を候補に挙げていますが、知ったか戦後の現代人の考える卑弥呼像より、こちらの方がはるかに正しいと私は思います。 ともかく売国奴として死んだ卑弥呼はその後に忌み嫌われて日本史の舞台からは抹消されたと考えるのが筋でしょう。 記紀の内容は嘘ではなく真実も多く含まれると思われます。 魏志倭人伝の内容も邪馬台国の位置や方向がでたらめな事を考慮するとこれもまた半分は眉唾物であり、記紀と同じくらいの正確さしかないと思われます。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

その可能性は否定できないですね。 卑弥呼は戦前は無視されていました。 第二次世界大戦後から日本の教科書に出てきました。 確かに日本書記や古事記はほぼ無視するか軽視しているのですから 重要な人物とみなされていなかったのは事実ですね。

vyhhimuko
質問者

補足

その通りです。 戦後出た教科書やGHQによって広められた説をうのみにする人が多いですね。 全く嘆かわしいことです。

その他の回答 (4)

  • misa-on28
  • ベストアンサー率35% (227/640)
回答No.4

近代的国家が成立する以前の「くに」の時代に、「売国奴」という概念を持ち込む事に何か意味が見いだせるのでしょうか。とくに古代の漢民族の帝国は朝貢体制(貿易)で、近代以降の帝国主義とは違った形態と考えるべきでしょう。 >最近の最も有力な説の倭迹迹日百襲媛命ですが、この人の場合には最後には陰部に棒が刺さって死んでいます。(これは最後には売国奴と死んだことを表しています) ホトを棒で突いて死ぬと売国奴となるのなら、アマテラスの衣装のための布を織っていた天服織女(あめのはたおりめ)も売国奴だったことになります。彼女はスサノオが天斑馬を逆剥ぎにして天服屋に落とし込んだのを見て驚いて「梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき」とあります。 かわいそうな天服織女(あめのはたおりめ)が売国奴でないのは明らかです。 とすると死に方からして倭迹迹日百襲媛命が売国奴であったというのは無理がありますね。 どちらかといえば珍説に属するものだと思えます。

回答No.3

卑弥呼って天皇のねーちゃんだから 天皇が姉の指図であれやこれやと大和の政治を動かしてたってのは 聞こえが悪いからでは? それに魏志倭人伝をちゃんと読むと邪馬台国は現在の奈良県付近にちゃんとたどり着きます まぁ卑弥呼の占星術は眉唾だったかも知れませんよ?

回答No.2

ざっと読んで、多くの誤りがあるのを指摘しておきましょう。 まず記紀には卑弥呼は書かれていません。なので『記紀に書かれている誰それが卑弥呼』などという話は全く意味がないです。 記紀はヤマト王権の記憶であり、卑弥呼や邪馬台国とは直接関係を持っていなかったために記紀に書かれていないと考えるのが妥当でしょう。卑弥呼などが書かれている三国志は4世紀ころ、記紀は7世紀ころに書かれたもので、300年程度の時間差があることは留意すべきです。 魏志倭人伝に書かれている内容についてですが、これは最近まで間違えて読まれてきていました。挙げられた文章もその間違いに基づいて書かれている部分が多いです。 どこが間違えているかというと卑弥呼の死亡した時期です。卑弥呼は1回目の朝貢の後、おそらく2回目の朝貢の前に死亡しています。3回目の朝貢が、魏に助けを求めたものですが、このときはすでに台与が女王です。なので、魏に助けを求めたのは卑弥呼ではなく、卑弥弓呼は卑弥呼後継争いには関与してないなど、挙げられた文章のほとんどが書かれた人の妄想でしかないということになります。 簡単ですが、このあたりで(時間がなくなってしまいました)

  • mpascal
  • ベストアンサー率21% (1136/5195)
回答No.1

大和政権、特に日本書紀を編纂した持統天皇が歴史から抹殺したかったのでしょうね。(古事記にも出てきませんが)

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