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明治新政府で藩主だけ排除の論理

eroero4649の回答

  • eroero4649
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回答No.1

藩主はあくまで「お飾り」で、実際に藩政を仕切っているのは家臣たちですからね。長州藩最後の藩主である毛利敬親はなんでも部下のいうことを「そうせい」というから「そうせい公」とあだ名をつけられたという逸話がありますが、敬親にいわせれば「他に返事の選択肢がないだろが」というのはあると思います。 これの総本山が天皇です。 現在でも天皇が内閣総理大臣を任命したところで内閣は正式に発足します。じゃあ、天皇は「俺ァあいつが気に食わねえから総理大臣に任命しねえよ。署名に拒否する」といえるのかというと、いえません。任命権があるのに、なぜか拒否権はない。 これは大日本帝国における天皇も実はあまり変わらなくて、国家の方針を最終決定する御前会議で、日米開戦の決定をするときに昭和天皇は「御前会議で発言する」といって周囲を慌てさせています。御前会議では天皇は黙ってそれを認可する習わしになっていたので、御前会議で発言する、即ち決定事項を差し戻す可能性があることをいわれるのは内閣はもちろん侍従長にとっても一大事だったのです。侍従長を始め周囲は大慌てで「御前会議では天皇は発言しない習わしになっている」となだめました。 現代でも、社長は創業家の息子が単なるお飾りになっている会社は山ほどありますよね。ギャンブルで84億円を溶かしたといわれる大王製紙の社長がそうでした。会社の仕事なんて何もやらせてもらえないから、暇なのでギャンブルばっかりやってました。 なので単なるお飾りに過ぎませんから、昭和天皇に戦争責任が問われなかったように藩主に責任も問われなかったのです。 徳川慶喜を筆頭に、徹底抗戦した会津藩藩主の松平容保も切腹はさせられていません。会津藩は藩主の代わりに家老の首をひとつ差し出しました。半沢直樹じゃないけれど「すべては彼がひとりでやったことです」と。 何もやってないので、新政府発足にあたっては「貴族(華族)」という立場を与えてどうぞ悠々自適に暮らしてくださいとなったのです。

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