• 締切済み

明治新政府で藩主だけ排除の論理

noname#247736の回答

noname#247736
noname#247736
回答No.3

歴史知識に乏しいので、具体例を示せず、回答が「曖昧模糊」としているのは否めませんが、面白いテーマだったので、老化した頭の体操を試みてみました。 藩士のみが新政府入りして藩主は排除。……幕末から維新への変化の原動力となったのが、「殿様」ではなくて、上級、下級を問わず「藩士」だったということの結果の反映だと思います。平時は、「バカ殿でも殿様」で世の中は回ったのですが、ペリーの来航など、海外からの圧力によって、民衆までも大騒ぎしている中で、「そんなこととはつゆ知らず」とは言わないまでも「我関せず」という「殿様」も少なくなかったと想像しますし、そんなぬるま湯につかったような殿様の命令を当てにするよりも、勝敗は別にして「自分が動く」、あるいは「自分が動かなければ」という一種の使命感、もっといえば悲壮感が幕末・維新の原動力になったと思います。そんな中で、殿様も藩士も動いた典型は、藩士や領民にとっては、悲劇的な結果にはなったけど「会津藩」だったという印象を持っています。 しかも藩士も藩主も世間も、其の措置が当然であると認識。……「当然である」という認識は、ほとんどの藩士も藩主も世間も持っていなかったのではないかと想像します。少なくとも「維新の中心になり、新政府の中枢に座った藩士たち」にはなかったと思います。なんといっても、武士たちも700年の歴史と伝統を築いてきたわけですし、「殿様は、バカでも殿様」という意識は、当事者の殿様にも、維新の立役者となった下級藩士にもあったと思います。そのことが明治2年の版籍奉還とともに通達された太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」(華族令)によって、殿様たちが侯爵などに叙位されたということにも反映されていると思います。まさに、天皇のみならず、「上流の権威の世襲」は、いかなる状況の日本でも無視できないということの表れではないでしょうか。そして、その「世襲」というお化けが現代の政界や芸能界を中心として、あらゆる分野でよみがえっているというか、カビのようにじわじわと浸透し、社会をむしばんでいっているように感じています。 横道にそれましたが、「華族令」については、あるいは、「殿様を叙位することよって、なだめすかしておけば、維新に乗り遅れた地方の不満武士たちも、少しは抑えられるのではないか」という邪な期待も明治新政府にはあったかもしれません。 維新の原動力になった薩長土肥では、「賢いか馬鹿かは別にして、殿様には静かにしておいてほしい」という思いが藩士にあり、その他の藩では、「殿様に、もう少し、情勢を理解して、殿様自ら動いてほしいとか、藩士に安心を与えてほしい」というような思いが藩士にあり、藩の置かれている地理的な条件や諸藩のいろいろな事情、いろいろな葛藤が綯い交ぜになりながら、そして政変、乱、戦争などを織り交ぜながら、世の中が動いていった、さらにその結果としていろいろな悲喜劇が生まれていった……それが幕末・維新という舞台だったような漠然とした印象を持っています。

関連するQ&A

  • 現政府と薩長土肥について

    明治維新の立役者として、新政府樹立後多くの官僚を輩出した薩長土肥ですが、 平成の今になっても、少なからず薩長土肥というものが影響を与えているということはあるのでしょうか? 例えば公には言わないけれど、薩長土肥出身者が高官になりやすいとかw

  • 会津藩は明治政府にいじめられましたか?

    会津藩は明治政府にいじめられましたか?

  • 幕末期の長州藩主について

    幕末期において長州藩は大活躍をします。 しかしなぜか藩主は有名ではありません。 時代劇ドラマでもほとんど出てきません。 この時期活躍した諸侯の藩主は多いのに、長州の藩主のみ無名なのはなぜでしょうか? 黒船が来航してから明治政権樹立まで約15年、長州の藩主は何をしていたのでしょうか? 子供だったとしても大人になっているはずですが。 ぼんくらだったとしても数々の歴史的決断を下しているはずで、もっとクローズアップされてよいはずです。 明治になってからも活躍しなかったのでしょうか?

  • 明治新政府で活躍した元・大名

    宇和島藩主・伊達宗城は、民部卿兼大蔵卿に就きましたが、他にも明治新政府で活躍した大名はいますか。 ただし、知藩事は除きます。 よろしくお願いいたします。

  • 大政奉還から廃藩置県が完了するまで

    の間、新政府の要職には薩長土肥らの有力諸藩の藩士たちが付きました が、この間諸侯と藩士の関係(上下関係)が次第に逆転して行きまますよね。国に帰った藩士たちはかつての殿様と、どの様な態度、言葉使いで接していたのでしょうか? 両者の間に違和感や戸惑いから確執が生じたりはしなかったのでしょうか? 教えてください

  • 薩摩藩と長州藩

    明治維新の際に 薩摩藩と長州藩は薩長同盟を組んだのに 西南戦争でまた敵同士になるという認識であってますか?

  • 明治維新直後の日本について教えてください

    明治維新直後(明治元年~十年くらい)の日本についてです。 政権が新政府に移り変わり、日本は、「脱亜入欧」や「廃藩置県」など、徳川幕府の頃の国の形を変えていきましたよね。 ですが、それまでずっと徳川が第一と考えてきた市井の人々、特に天領や旧幕軍についた藩の人々は、すぐに国の西洋化を受け入れたのでしょうか? そこで疑問があります。 1.その頃、軍や政府は洋服を着用する人もいたようですが、一般市民はどれくらいの割合で洋服を着用していたのでしょうか。 2.天領や幕府に味方をしていた藩の人々は、徳川がなくなったことに戸惑ったり、新政府の支配下におさまることへ抵抗がなかったのでしょうか。 3.江戸末期の藩主はほとんどが版籍奉還でそのまま県知事に任命されていますが、人々は「藩主」に仕えているという感覚だったのでしょうか。それとも、全く別の、命を懸けてまで仕える必要などない存在と思考を切り替えたのでしょうか。 細かい質問で申し訳ありませんが、ご存知の方がいらしたら、教えてください。 また、当時の人々の様子が分かる書籍やホームページを紹介していただけると、参考になります。 よろしくお願いします。

  • 薩長土肥に次ぐ倒幕派の藩は?

    薩長土肥に次ぐ倒幕派の藩はどこですか。 「土・肥」以上に維新戦争時、倒幕で活躍した藩はないのですか。 よろしくお願いします。

  • 主観に論理性はあるでしょうか?

    そのまんまなんですが、 主観、という言葉の定義にもよるんでしょうが、 科学的、という言葉は、主観の排除から始まるので、主観とは相容れないと思うんですが、 論理的、という言葉、論理性は主観と相容れると思われる方はどのくらいいらっしゃるでしょうか? 脳のメカニズムが生む心の現象であれば、脳の機能には構造的構成が当然あるので、その産物である、感情、主観も論理的な記述可能な構成をとると思うのですが、 あるいは脳科学的視点以外にも、主観でも世間一般に「理にかなっている」「筋が通っている」などという表現があります。これはある種の論理的な性質を感じるのですがどうでしょうか? 、ほかの方はこの点についてどう思われるでしょうか? いろんな意見をききたいのでよろしくお願いします。

  • 主観には論理性はあるでしょうか?

    そのまんまなんですが、 主観、という言葉の定義にもよるんでしょうが、 科学的、という言葉は、主観の排除から始まるので、主観とは相容れないと思うんですが、 論理的、という言葉、論理性は主観と相容れると思われる方はどのくらいいらっしゃるでしょうか? 脳のメカニズムが生む心の現象であれば、脳の機能には構造的構成が当然あるので、その産物である、感情、主観も論理的な記述可能な構成をとると思うのですが、 あるいは脳科学的視点以外にも、主観でも世間一般に「理にかなっている」「筋が通っている」などという表現があります。これはある種の論理的な性質を感じるのですがどうでしょうか? 、ほかの方はこの点についてどう思われるでしょうか? いろんな意見をききたいのでよろしくお願いします。