暴力的な人間の特徴と原因、そして問題点とは?

このQ&Aのポイント
  • 動物的本能の強い者が暴力的になることがあるのか?
  • 運動部や進学校では暴力的な人間は少ない?
  • 暴力のコントロールと大阪の桜宮高校の問題
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動物的本能の強い者が暴力的になる?

 この様な言い方をすると、偏見になるかもしれませんが、  運動部でも進学校の高校や国立大学等では規則や上下関係があっても、  変ないじめや暴力は少ないと思いますし、  幼稚園 小学校 中学校でも環境が良い処は暴力的な人間は少ないと  思います。  青山学院大学の陸上部の監督である原晋氏が部員の自主性を重んじるが、  決まりを守らせる事を徹底させた事で上手く言った例を挙げておりましたが、  あれはある程度理性がある者に適応されるレベルなのでしょうか?  「暴れる人間は逮捕させる」「小中学生でも教室に入れない 隔離させる」  これは全うな意見なのですが、  「暴れる人間」の「強いから従い 弱い者は服従」という感覚をコントロール  しているのが、問題に成った大阪の桜宮高校の体罰問題なのでしょうか?  大半の教師も組織も「体罰はしたくない」と思って居ると思いますが、  この様な生徒の親や家族も暴力的で、暴力により、従うという感覚で育っている者  もいるので、このやり方しか適応できないということなのでしょうか?  (多分、本当はいけない事なのでしょうが、職人やスポーツの世界も  あのような環境で育ち、その方法しか知らないので「殴って仕込む」事に  成ったのだと思います。)

noname#250543
noname#250543

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  • eroero4649
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回答No.3

>あれはある程度理性がある者に適応されるレベルなのでしょうか? 理性というか知性ですね。 ただ知性があっても感情のコントロールができないような人はいますね。スティーブ・ジョブズとかね。彼はとても頭がいい人ですけれど、自分の感情をコントロールすることはとても苦手なタイプの人ですよね。典型的な発達障害ですけれど。堀江貴文さんもそうですね。最近は何が気に入らないのか、やたらとTwitterでもクソ呼ばわりしますね。 ただ軍隊のいじめみたいなのは世界中の軍隊でありますし、アメリカでもアメフト業界はそういう「伝統のいじめ」みたいなのがあったりして、それを耐えたやつだけが評価されるみたいなのがあります。 オス同士が肉体資本で集まるとそうなる運命なのかもしれないですね。ただその通過儀礼を耐えることでその耐えた者同士で結束力が強くなるというのはあります。私も若かりし頃新入社員研修で体育会系を突き抜けて軍隊系(たぶん自衛隊より厳しかったと思います。ほんの数日だったけど)のしごきを経験しましたが、そのせいで同期同士の結びつきっていうのは強くなったのは間違いないです。たぶんそこが狙いだったと思いますけどね。その一方で、ムラ意識みたいなのもできますよね。

noname#250543
質問者

お礼

ただ知性があっても感情のコントロールができないような人ははいますね 考えるとその様な人は居るような気がします。 自分の感情がコントロール出来ない人、自分の思いが強くそこから少し違うという意見の人は 認められない人、 私も昔、感情むき出しにされる方と仕事で接したのですが、 こちらにそう非がある訳ではなく、普通なら「そうですか」で済まされる処が (5分早く会合の場に入った 名前の読み方を「この読み方で間違いないでしょうか?」 と尋ねると)新聞を叩きつけられた事がありました。 やはり、この人も感情が抑えられない性分だということかと思います。 それを耐えたやつだけが評価されるみたいなのがあります。 オス同士が肉体資本で集まるとそうなる運命なのかもしれないですね。ただその通過儀礼を耐えることでその耐えた者同士で結束力が強くなるというのはあります。 良く解りますが、唯耐えるとえらくなり、耐えれない奴は駄目的な線引きをしてしまい、 耐えた奴の思いは正しい的な感覚だけでやる人間が、暴力的な不祥事を起こすとも思えるのです。

その他の回答 (2)

  • doraneko66
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回答No.2

勉強してたら理性的になります。 勉強していないと理性的なことが 出来ないんだと思います。 見ることだけに夢中で、勉強していない人が 根性論や擬音で行動するわけです。 指導者でも良く勉強している人は、心理と論理で勉強するので人を暴力で従わせようとはしないからでしょう。 自分の指導方法の内側にちゃんと問いかけて 指導する人は色々調べながら実践します。 自分の指導方法の外側に問いかけてしまう人は とりあえずその場の結果がでれば良いとするので 強制や暴力的で実践してしまうのでしょう。 あらかじめルールを作ると言うのは、ある意味、指導者と選手の内と外に問いかけているのかも知れません。 ルールを破れば、自分に結果が返ってくると言うのを 学んでいる人だからだと思います。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 指導者でも良く勉強している人は、心理と論理で勉強するので人を暴力で従わせようとはしないからでしょう。 その方法が最終的には良いと思います。 自分の指導方法の内側にちゃんと問いかけて 指導する人は色々調べながら実践します。 が、この事は自分の内面も問われますし、 その時に反省や相手の評価と叱責も込めてみられているかと 思います。 自分の指導方法の外側に問いかけてしまう人は とりあえずその場の結果がでれば良いとするので 強制や暴力的で実践してしまうのでしょう。 唯、根気が要る事ですので、統制が取れ、纏まるのに 早い方向ですので、このやり方を良しとされた方も居られるとおもいますし、 その方法しかしらない(出来ない)という指導者もいたのだt思います。 唯、このやり方は本当に指導したというよりは振るいにかけ、残ったというだけと いう見方もありますし、その方法で自分は今まで来たのでその方法にしがみつき、他は 受け入れないと言う感覚で、そうすると有望な可能性を持った者の芽を摘んでいるとも 考えられます。

  • g0721475
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回答No.1

私は小学生の低学年と高学年の見守りをしていたことが有ります。その経験 からすると、低学年はまだ良い事も悪いことも解らない、興味津々で覚えて いく年代。高学年は物事の良し悪しが解り「大人しい子と暴れる子」に別れ ます。そして色々な経験を積んでいく内、知識が身について精神年齢も発達 していきます。ただ、暴力的なのは高学年のままの精神年齢が残っているの ではないでしょうか。ならば目線は小学生に話すつもりで、付き合えば良い と思います。でも、小学生な大人を納得させるのは大変ですけど、根気よく 話をする事が大切だと思います。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答有難うございました。 高学年は物事の良し悪しが解り「大人しい子と暴れる子」に別れ ます。そして色々な経験を積んでいく内、知識が身について精神年齢も発達 していきます。ただ、暴力的なのは高学年のままの精神年齢が残っているの ではないでしょうか。 暴力的なのは高学年のままの精神年齢が残っているの ではないでしょうか。 この様な感覚のままで指導的立場に成り指導されている場合があり、 それを良しとしている人も多いかと思います。 根気よく 話をする事が大切だと思います。 これが大切ですが、唯「力が全て」の感覚でいる人種が今でも居ると思います。 大変難しい事ですが、その様な思いを私自身は持ちたいと思います。

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