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オラが街と躾とハラスメント
日本では、DV防止法・児童虐待防止法が施行されました・・・試行とって言っても良いかと思います さて、戦後復興後、当時の若者が街を整備し、土木で建物を創り上げ、道路などを含め、自分たちが築き上げた「オラが街」が、日本各地で誕生しました この「オラが街」世代は、いまや80歳以上で、上記の法律などがない時代に家庭を築き、子を育て、その彼らの教育は「オラが街(家)で好き勝手なことはさせない」というものが根底にあり、それが「躾」と称して、全てではなくとも日本社会の教育が成り立っていったのでは?・・という考えに私的に至っています そして、彼らやその次世代は同じような思想で「オラが会社」ということが根底あることから、社員に「躾」の体で、良くも悪くもモラハラなどが生まれたと感じています さて、そしてその次世代やその次世代(数えると4世代目?)が今、家庭や会社で上司という立場にいるのですが、彼らには「オラが」という思考がないまま「躾」をしている現状が、各種ハラスメントや虐待を起こしているのでは?と思うのですが・・・ どうでしょうか? ※反論とかではなく、できれば分析的なお考えを書いてくださると助かります ※議論目的ではないので、気軽にどうぞ
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- kukurin5
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確かに、ありますね 自分がされてたから自分もそうする 職場の上司、学校の先輩、嫁、姑…自分がされて自分の為になったと心底思っているならいいと思います ただ、苦しく、嫌な思いをしてたのに自分もされてたから自分も同じようにするのは違うのかなと思います その行為に愛情や思い遣りがあるのなら私は体罰も賛成ですよ
- staratras
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確かに(オラが)集団(街・会社・家)と個人の関係の変化、具体的に言えば集団への帰属意識が薄れたことも各種ハラスメントや虐待の背景にあることは確かでしょうね。ただし、この集団への強い帰属意識やこれを仕切ろうとする家父長的トップの存在には功罪両面があり、個々の成員に対するハラスメントや虐待につながる逆の面もありますので要注意ですが…。 回答者の経験では、昭和から平成に代わる前後に、選挙関係者から党派を問わず「最近の選挙は読めなくなった」というボヤキをよく聞きました。昭和50年代前半ころまでは、有権者は自分が属しているメインの集団に対する帰属意識が強く、例えば農民・漁民なら農協・漁協が支持する候補、都市部のサラリーマンなら会社(管理職の場合)や労働組合(一般職の組合員の場合)が推す候補に大体投票してくれたので、投票直前の「○○票くらい獲得できるだろう」という票読みの予想が自分の陣営・相手陣営それぞれについて大方当たっていたが、最近はそうではなくなっていて、世間全体の「風」を読むことが必要になっている、というのです。 選挙の投票は、有権者一人一人が熟考して自分の判断で行うべき権利の行使なので、これはもちろん悪いことではありません。狭い「ムラ社会のおきて」に従わないものが冷遇されることは問題があり、「村八分」などの人権侵害にもつながりかねませんから。 ただ、世の中がその時々の「風」というか「気分」だけに左右されるとすれば、安定した社会とはならないでしょう。ソビエトの崩壊・東西冷戦の(少なくとも欧州での)終結も同じころで、日本人の多くはイデオロギーに基づく「大きな夢」に魅力を感じなくなりました。といって日本では宗教が欧州のキリスト教や、中東のイスラム教のように、「人々の共通の価値観の土台」になっているわけではないので、多くの人に共通する価値観は「小さなカネだけ」になってしまったというのが残念ながら現実でしょう。「村社会のおきて」は大きな力を失いつつあるが、それに代わる「新たな市民社会のルール」は形成される途上にあるとしか言えません。 職場の中でもこの昭和から平成にかけて大きな変化が起きました。コンピューターやネットの発達はもちろんですが、コンプライアンスの強化が叫ばれ、「結果オーライ」の「なりふり構わぬモーレツ型社員」が称賛されなくなり、「コンプライアンスにも十分配慮した手堅さ」と「情報を素早くつかんで活用できる瞬発力」の両方が求められるようになりました。しかし考えてみればこの両者には相反する面があります。スピードを過度に重視すれば、情報を十分確認しないままに間違った情報をうのみにする危険なことになり、情報の確認にじっくり時間をかけ過ぎればチャンスを逸しかねないからです。企業・役所の不祥事や失敗の相当部分はこの矛盾をうまく解決できなかったことを意味しています。 ここで興味深いのは「折檻」という言葉が現代の日本では「体罰」とほとんど同じ意味で使われていますが、もともとの漢語の由来となった故事はそうではなく、「自分の命をかけて臣下が主君をいさめること」だったという事実です。家臣が耳に痛い諫言を発したので、怒った皇帝はその家臣を連れ出すように家来に命じましたが、その家臣は手すりにしがみついで忠言をやめず、無理やり引きずり出されたので手すりが折れてしまった(折檻)というのが古代中国の漢の故事です。この皇帝が偉い人物でその折れた手すりの修理をさせずに自らの戒めにしたという結末になっています。 現代の日本には、主君の考えを忖度してその実現のためにはコンプライアンスを顧みないタイプの「忠臣」はいまだに相当数いるようですが、自らの地位を失うことを顧みず主君の耳に痛い忠告ができる「折檻の忠臣」は残念ながらほとんど見かけなくなりました。 こうした状況の中で「職場がすべて」などと考える人は少なくなりましたが、「家族」がその隙間を埋められたわけではありません。家庭や家族のあり方も大きく変わったからです。昔(昭和50年代ころまで)のテレビドラマでは家族大勢で夕食をとっているシーンがよくありましたが、現在では子どもは受験のための塾通い、お父さんは残業で帰宅が遅くなっているなどして夕食の時間がばらばらになっている家庭が少なくありません。「家風」などという言葉は一般家庭では死語に近くなり、プラスの面よりもむしろ自由な生き方を制約する桎梏(手かせ足かせ)と考えられるようになっているのです。 暴力で子ども(実子やパートナーの連れ子)を死なせた親などの多くが「躾のつもりだった」と弁解しているという深刻な事実があります。「折檻」が「体罰」とほとんど同義語になっていることと考え合わせると、道徳教育が必要なのは子どもたちではなく、むしろ大人たちの方であり、特に社会のリーダーにはもともとの故事のような「折檻」の諫言を行える勇気が求められているのはないかと思います。 ところで、ご質問に登場する「オラが第1世代」は、回答者の親の世代ですが、この人たちは1945年の日本の敗戦を境に価値観をひっくり返させられる共通の経験をしています。万邦無比の国体を誇る軍国主義の教育を受けていたものが、「平和な民主国家としてやっていきましょう」ということになってしまったのです。問題は、きのうまで「お国のために米英と戦って死ぬのが臣民の務めだ」と言っていた教師や大人たちが、手のひらを返したように「それまで大切にしていた教科書に墨を塗らせて平和と民主主義を教えた」ことで、こうした経験から「どんなことでも疑いを持たずに信じ込むと大変危険だ」という信念を持った人が多くいました。 このため大正の終わりから昭和ひと桁生まれの「オラが第1世代」は、その前後の世代と比較すれば柔軟性がありました。柔軟性というより、上から一つの思想を押し付けようとすることに対する反発心といった方が当たっているかもしれません。明治大正生まれの旧世代と昭和ふた桁や戦後生まれの世代に挟まれた微妙な立ち位置で、家庭生活を犠牲にしても日本経済の高度成長を最も支えた世代です。(興味深い事実は、歴代の内閣総理大臣で昭和ひと桁生まれは昭和6年生まれの海部俊樹氏ひとりだけだということ)現在では「ご意見番」的な役割を果たしている、この世代の人々がいなくなった後の日本はどうなっていくのでしょうか。
お礼
回答ありがとです
補足
拝読しました 1980年代、時計を家に忘れ街にでかけたときに、当時の人の60%が時間を知るためにどうしたのか?というと・・・『人(他人)に時間を聞く』でした いまや30代の人たちでさえ、この人に時間を聞くということが、信じられないそうです しかるに、人に聞けない・聞かなくても良い・・という万能感に近い考えを持った若者が増えた現在では、時間を聞けた世代からしたら、古い表現ではありますが新人類でしょう そうなると、モラハラ・パワハラでしか対応ができないのでは?と感じるところです しかし、されている方と言えば、その意味さえもわからない環境下で育ってきています ネット社会や生まれたときから近くに端末のある世代、彼らに歴史感や古いと言われる思想感を伝えるすべは前世代の人たちにはないのかも知れません 柔軟性は備わず、人に聞けない・距離感を学べない新世代には、新しい価値観を産んでもらうしかないのかも知れません ただそれらのことを学べていない世代・躾の意味を知らない世代が、虐待死や、意味不明な無差別事件を起こしているようにも思えます 帰属意識・・・確かに今の世代の帰属する場所は、ネット世界かも知れませんね・・・怖いなっ
- SPS700
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#2です。補足です。 こういう見方もあるようです。 https://getpocket.com/explore/item/too-rich-too-comfortable-why-japan-is-so-resistant-to-change-even-as-disaster-looms?utm_source=pocket-newtab
お礼
回答ありがとです
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
僕も同じような考えです。 「おらが」は言い換えれば農村的構造で、それが商業都市的な構造に変わったことと、日本の伝統的な広い意味での意思疎通の手段が西欧的に 変わったこともあるでしょう。 1。農村型では、働き手が多い方が都合がいい、その多産の結果、兄や姉は「小さい子をいじめてはいけません」といういじめに手加減をする躾が行われる。 しかし一人っ子には弟妹に対する手加減を教わる機会がないので、いじめが無制限に広がり、いじめられっ子は、いじめの避け方を知らない。 過疎化の問題は今日のNYタイムズ紙にも取り上げられています。 https://www.nytimes.com/2019/12/17/world/asia/japan-dolls-shrinking-population-nagoro.html?searchResultPosition=3 2。商都型では、方々から集まった人口のため「村の氏神」的まとまりがなくなり先祖との連携は薄れ、寺じまい、墓じまいが続き、伝統の行事も消えてゆく。 それに変わって、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどの外来種や、義理チョコ、など和製雑種もできてくる。 もう一つの経済的な面では、自給自足型から、お金で物を買う経済になり、教育も金で買い、年功序列>金作り>集金力>集票力>政治家、と今に至っている。 でも古い面が全て消えたわけではなく、征夷大将軍的な血統による特権グループや庶民の「上」に位する役人が情報を握る不透明さはまだ生きています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A0%B1%E9%81%93%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%BA%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0
お礼
回答ありがとです
- kukurin5
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そうですね、世代によっても躾に対する認識は違いますよね 確かに各家庭、地域、組織など昔と比べると愛着が薄れているとも思います また、各個人でも当然、違いはあると思います 難しい問題ですよね 指導する側は良かれと思い熱血漢で接しても教わる側がパワハラだと感じられればパワハラになる可能性があります ただ、本当に悪意のある虐待、パワハラ、いじめに対してはなくなって欲しいと思います 余談ですが、私は躾という文字が一番好きです
お礼
回答ありがとです
補足
昔、お客さんに姑さんがいまして、その人がお嫁さんをいじめていました 理由を聞くと、自分もそうさせられてきたので、もう決めていたことだと言うのです しかしその理由も「躾」という文字でかき消されるのかなぁ・・と感じます
お礼
回答ありがとです
補足
校則問題も似ているかも知れませんね 理由を説明できない・教えないのでは、納得しないまま人に圧を与えることが当たり前としている大人になっていまうかもです