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最近の児童虐待について
- 最近の児童虐待について心配しています。
- 日本の子供の教育には問題があると感じています。
- 国が法改正を行う必要があると考えます。
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質問者が選んだベストアンサー
つっこみどころ満載ですが、禁止事項ガイドラインに触れますので控えます それを前提として、忘れてはいけない事件が、附属池田小事件です 開けた学校を目指し、地域に教育現場を開放しようとしていた矢先の事件でした この事件を期に、地域の大人であっても、自由に教育現場に入れない事態になったのです 義務教育現場の完全週休2日制に合わせ、教育現場を土日に地域へ開放し、地域の人たちと子どもをワークショップで結びつけていく・・・いわゆる、ゆとり教育の本懐でした つまり、あの事件がなければ、書かれている通りに、親でなくとも子どもたちを一緒に育むことが目的とされ、今となっては理想的な地域教育社会がそこにあるはずでした その本懐が果たせないのなら、ほかの方法は?という思考を吹っ飛ばしての法改正論議は、正直なところ・・・間違っていませんか?と思うところです 目を伏せるのではなく、法改正を待つのではなく、今苦しんでいるであろう、虐待を受けている子どもの発見能力向上、地域の協力、できることの選定・・・などを疎かにして、政府のせいにしてしまっては、選挙の票集めの材料にされるだけです 法改正を望むのと並行し、今、あなたにできることを探されては?と思います
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んー!? 全てが負のスパイラル。 何処から始めれば良いのか分かりませんが、、、親、子供、学校の現状はというと、 「家族」・・・少子高齢化、核家族化により道徳や風習、善悪を伝える機会が少なくなってきている。 男女均等、参画等の風習が男尊女卑を否定し家族の組織化が保てなくなっている。 「セクハラ、パワハラ、非暴力」等により、若い打ちに体感しておかなければいけなかった「痛み」や「男女の性的駆け引き」の経験不足。 因って「失敗」や「損失」と言った言葉を嫌い、情報の選択からより良い「効率」を求める。 「子供」・・・上述とオーバーラップする部分や親の思考に大きな影響を受けるケースは珍しくない。 昔は小さい時に近所や祖父母の影響を受けて身の丈をしったり、輪に溶け込む術を身を持って体験していた。 それが無くいきなり団体行動、生活をせよと言われても術が分からない。 獲物を見付ければ恰も感情のはけ口がそこにあるかのように加減の無いイジメに走ることもある。 弱い者を守ることを知らない。 もっと可哀想なのは、上下関係を知らない。社会に出ると致命的。 今も昔も「今の若者は・・・」と非難したものだが、タダの経験が浅くていずれ自分たちのレールに乗ると分かるだろうというような期待感は出来ない路線で進んでいる。 小中のクラブ活動がこの上下関係の破綻を生んだ。 雇われたコーチ、監督は兎に角試合に勝たなければいけない。 強い選手をレギュラーにするのは当たり前。 礼儀や文武両道等を前面に出しているクラブチームは少ない。 下級生が先輩をイジメ、堪え袋が切れて先輩が下級生をバットで殴った例が有った。 スポーツを通じて子供たちに何を教えるべきなのか?未だに改めることはない。 「教師」のサラリーマン化。 もはや人気の無い職業。 親に公務員、教育者が居る過程の専門職化。 叱ってもその後に「諭す」というケアー。このケアー中に子供自らが心の涙を流す、流させれる先生がどれだけいるのか? だから、「ゆとり教育」になった時に、本来なら答えの見つからない道徳を「共育」する時間だったのにそれが出来る力量の先生が居ない。 何故なら上下関係や低層、上層の生活を見て来ていないから・・・。 貧乏な友達、家庭へ行くことを親が許さなかったから・・・。 そこへ「モンスターピアレンツ」の出現! 母親にハイスペックな最終学歴を持つ者が多くなり、先生の学歴を見下げてしまう言動。 少子化によりひとつ許されれば集団心理が圧倒し、我が子も我が子もとなったのは必然的。 「文化の構築は教育」に有り。 このスパイラルに投薬するとなればここしかないでしょう。 カンフル剤となるか?漢方薬となるか?効き目は徐々にかもしれませんが、教員免許の年齢緩和、学歴以外に社会経験やボランティア、NPO経験実績を考慮する。 また、行政書士レベルの一般常識問題、秩序、矛盾に対処出来る応用等に階級を付けてその合格進級も先生方の課題にする。 教育現場を企業化し、横一線の関係を断ち切る。(校長、教頭が新人職員に命令出来ない環境は可笑しい。)いろんな角度から評価される現場でなくてはならない。 情報交換によって指示、責任は校長に委ねる。 人格、資格が無い校長は辞職、退職もあり得る。緊張感を持った職場環境が望まれる。
- SAKUiro
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私が小1の集団下校の際、台風直撃でみんな親が迎えにきてしまい、1人で歩いてました。そしたら知らないおばちゃんが、レインコートにスクーターで現れ、「おばちゃんち、あの家なんだけど、見てられなくて。送ってあげるから家はどこ?」とかけつけてくれました。私も相当疲れてたか心細かったのか。おばちゃんのスクーターに乗って家まで送ってもらいました。母親は虐待と育児放棄気味でしたが、これはまずいと思ったんでしょう。小1の私にはわかりませんでしたが、学区内の出来事でしたので。私は当時、おばちゃんの温かさに感謝してましたが、母親からすると、世間体的な。うちは専業主婦で車も3台ありました。おばちゃんの一件があって以降、それから台風の時は世間並みに迎えに来てくれるようになりました。 あの時のおばちゃんの行動に私は気持ち的にも救われましたが、今では誘拐罪になる恐れの方が強いわけで。そうやって助けてくれる人も少なく、同時に親が、他の優しい大人から学ぶこともなくなってきてるんでしょう。でもこの一件で虐待が収まったわけではないのですが。私の知る限り、弟は2度死にかけてます。
- kaxuma119
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質問者は戦前の教育体制であれば「学校での教育が地域と過程(家庭:誤字ですね)での情報共有」がうまく行っていて児童虐待は無かったと信じているのでしょうか? さらに「戦前の先生の体罰」は「良い意味」を持っていたと信じているのでしょうか? 事実に基づいて話をしましょう.日本で初めて「児童虐待」を取り上げたのは、監獄教誨師として免囚保護事業をおこなっていた原胤昭であると言われています.明治42年1909年に彼は雑誌『慈善』第1編第2号で「児童虐待防止事業」と題した論文を発表し、その中で「虐待された児童は、不幸にして死ぬ。幸いに死なぬ所で不具廃疾となる、片輪者にならぬ所で確かに根性曲りにはなる、此の根性曲りが九歳十歳と成長して獨り立ちの出来る者になると、虐待を避けて家を飛出し浮浪生涯に陥り、浮浪児窃盗児即ち悪種の不良少年となり之より進んで盗業者となる、由来此の根性曲りと云ふのが、彼の犯罪性情であって強窃盗放火殺人と云ふ大罪を犯すものであります」と述べています.現代の状況と何も変わりません. むしろ戦前は貧困対策の不備で親の責任放棄による孤児や,「おしん」のように苛酷な児童労働の強制,さらには困窮家庭の少女は女衒に売られることも普通であり,恵まれない家庭に生まれた子どもの運命は今より悲惨であったと考えるべきでしょう. さらに体罰は,それで育てられた世代に「しつけのためなら暴力は容認される」という認識を刷り込む効果しかありません.体罰を放置していた旧軍の新兵しごきは,どのくらいの自殺者やトラウマによる精神障碍者を作り出したか見当もつきません. 教育現場で体罰を用いる指導者は,自分の感情を制御できないか,他の指導方法を持たない指導能力に欠ける不適格者にすぎません.
- ichikawa2017
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>私は国が法改正に踏み込まなければいけない時期と感じます。皆さんのご意見は如何でしょうか? 法の問題以前の問題かと思います。 人は生まれながらして「親」ではありません。 子供を持って初めて親になります。 子供と共に親として育っていきます。 この親として育つ過程で地域や祖父母をはじめとする親族が教えるともなく教えてきていました。 結果的に親としてやるべきことや親としてはやってはならないこと等を自覚することもなく周囲の年長者から学び取っていました。 核家族化がすすんだだけではなくプライバシーの保護とか個人情報の保護とかが優先され親となっていく過程の人間が学び取る環境や機会が失われています。 言うなれば今度の悲劇も時代の風潮というか社会が生んだ悲劇です。 亡くなられたお子さんにすれば親だけではなく児童相談所も福祉施設も教育委員会も学校も全て自分を死に追いやった共犯者です。。 つまり世の中の大人どもによってたかって殺されたということができます。 IT技術の発達で若者達はスマホなどの画面上の付き合いだけが人との付き合いになってきています。 この若者達が子供を持てば同じ犠牲者を生み出すでしょう。 人と人が触れ合う社会を作り出さない限り悲劇は繰り返され幼い命が失われ続けるでしょう。 社会を変えることなく法律を作れば事足りと考えるのであれば責任を警察などに押し付ける責任逃れやっているだけのことになります。 個人個人の価値観を変えることが必要ですので一朝一夕には解決できない問題です。 幼い命を無駄死ににはさせないと心に言い聞かせて一人一人が地道にできることをやっていく以外に方法はないかと思います。
このご質問、前事務次官前川喜平さんだったら どう感じるか?・・・どう答えるか? と思いました、私なりに書かせてください。 よろしくお願いします。 昔も今も、人は互いに人権を守りながら生きている。 そこは変わらない、と思います。 ただ 解釈が時代の変化に応じ、変わってきた。 つい先日も 登校拒否・不登校は、犯罪か?・・・犯罪なばら 子供が悪いのか、親が悪いのか? について、周りの人と考えてみました。 僕は、まず自分が法を理解することから始め それを家族と共有することから、はじめよう! と感じております。 法の理解は、僕にとっては簡単ではありません。 一人で検討しても、十分ではないし足りません。 そんな自分でも たとえば 東京都いじめ防止条例などについては 常に知っておかなければならない知識。 知る・・・だけならば簡単です。 なんでこういうことになったのか? なにが問題か? このくらいは僕の能力でも十分に足りる。 そのように まず自分にできることは、なにか? 自分では理解できないのであれば、どうするか? そんなふうに考えていて そんな あと少し、自分にでもできるもうちょっとこと で精いっぱいです。
- tomy-eye
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私の持論は「15歳までは叩いて教えなきゃならんことがある」です。 虐待と指導行為は別なのに、今は味噌も糞もごっちゃ混ぜになっています。 こんなバカが増えたのは「叩かれて学んだ大切なこと」がないからです。 ルールなど守らんでも痛い思いはしないんだから、廊下は走る、苛めはした方が勝ち、と全く無節操が罷り通る。 起った我が子の不祥事を学校や警察に責任転嫁する。 学校も警察も誰も叩いて叱れないからグチュグチュお説教。 その言葉端を捉え親子で「パワハラ」と詰る。 もう日本に未来はないなぁ…と新聞を読んで嘆くが、苛めもなく心身共に健やかに育つ孫がいる。 もし、他人様にご迷惑を掛けたら老いた拳も砕けろとばかりに叩いて教えたいと思う でも、あんなに可愛い子等だから、叩くどころか叱ることも出来ないかも知れない。 敬い慈しむ「親子美」は昭和が持って行ってしまったのかなぁ。
- Roseate
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難しいことはわかりませんが、昔は良かったみたいなお話に聞こえます。今みたいに表面化してなかっただけで、昔も酷い話はあったみたいですよ。知人の話ですが、近所の人が出入りするような環境で育った人でも虐待されていました。家庭内のことを表に出さない、日本人特有の閉鎖的な感じも虐待につながっているのではないかと思います。また、子供を親の所有物みたいに考えてしまいがちな所がある気がします。 また、DV家庭内暴力などで市の相談所に相談しても警察も行政も押し付けあっていたりする現実があります。 アメリカなんかも深刻な虐待があったりするようですが、対応が早い印象があります。