• ベストアンサー

○時を回る と ○時を過ぎるについて

とあるWeb小説を読んでいて、どうしても気になったので質問です。 昼を回った だと、私は感覚的に例えば12:25くらいに『ああ、お昼だね』って気付くようなニュアンスで捉えていたのですが、 これは一般的ではないのでしょうか? 大幅に過ぎているとき(例えば昼時を過ぎている15時頃など)に使うのでしょうか? 『昼を回ったせいか、食事処がガラガラだった』というような文章があり(原文とは少し変えています)とてつもない違和感を感じ、 むしろ昼を回ったら混雑してるはずじゃ?と思いました。 そしてここは昼を過ぎた、を使うべきなのでは?とも思いました。 皆さんどう思われますか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • marukajiri
  • ベストアンサー率45% (504/1101)
回答No.3

言葉は生き物です。そして表現は自由です。そして質問の表現による時間には明確な時間設定がされていませんので、各個人個人によって受け取り方が違っているはずです。 本になったもので作者の手から離れたものは、読み手は自分の感覚で読むでしょうから、作者の思っている時間と、読み手の時間に差が生じることもあると思います。 「使うべき」という言葉を出して来るなら、きちんと時計を見て何時何分かを明記すべきだという意見も出ていいはずです。そう思っている読者もいるかもしれません。受け取り方は自由でいいと思います。 私の個人的な感覚では、「昼を回った」→12時5分です。『昼を回ったせいか、食事処がガラガラだった』なら、この店は普通の店とは違って午前中に客のピークが来る変わった店あるいは場所だなと思います。もしくは、作者はそんなところに通っていたからこんな感覚なんだなと思います。その後、ああこれはひょっとして昼というのは昼ご飯時をさしていたんだろうなと二回目に読み返した時に気付くかもしれません。(笑) そして私の個人的な感覚では「昼を過ぎた」→12時5分です。誰が何と言おうが、私独自の感覚ですので、文句は言わないでください。(笑)

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (4)

noname#238918
noname#238918
回答No.5

小説を含む”文学”・・、其れは、正に「曖昧模糊あいまいもこ」とした表現が多いに許される世界なんだ。 小説を読んでて、微細な部分に拘ってる様では、多分、貴方は「所謂国語」の点はあまり良くなかったでしょう.....、まぁ、聞き流して下さい。 「文学表現or文学的表現」なる言葉(=言い回し)は御存じでしょうか❓ 譬えば・・、 政治家が、官僚の国会答弁の席で、「きみっ、そんな文学的表現で言われたって、さっぱり解からん、もっと具体的な言葉で表現してくれ給え」なんて言ってるのをよく耳にしませんか❓ 官僚は曖昧模糊とした言葉で、責任逃れを謀ったり、真意をはぐらかす場合等、常用してますね。 しかし、こと文学(含小説)に関しては、別に作家が言い逃れや、責任転嫁が目的で文学(的)表現を多用する訳ではありません。 文学の世界では、混沌とした複雑なカオスの世界を「端的」で「包含的」な言葉使いが求められ、少々解り辛く魅せられるか如何(どう)かで作者の資質が決まったりしてしまうモノだったりします。 件(くだん)のご質問・・、 『昼を回ったせいか、食事処がガラガラだった』 余程流行らない店ならまだしも、一般的には、飲食店は昼11時半~2時位迄が勝負でしょうか。 ガラガラだった・・ってことは、2~3時位の事でしょう。 故に「昼を回った」は、12時5分や12時30分レベルの事を差して居るのではありません。 食事時のごった返しの喧騒から一息ついた時間帯のこと(辺り)を表現したかったのではないでしょうか❓ ※昼が回る:日常でも良く使われます。 『昼が終わった所為か・・or昼が過ぎた所為か・・」より 「昼が回った所為か・・・」の方がより文学(的)表現だと思われませんか❓ もっといい表現が外にあるようでしたら是非教えて下さい。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • Dr_Hyper
  • ベストアンサー率41% (2482/6031)
回答No.4

『昼を回ったせいか、食事処がガラガラだった』 作者の方は,昼時 といういみで 昼を使ったのでしょうね。 過ぎたよりも回ったのほうが 越した イメージをもちますので, あなたの 昼 であれば 12のハリを回った。なので混んでいる頃。 昼時を回った。 ピークを過ぎたを時間で表現したくてその言い回しを使ったのでしょうけど,すこし文字足らずで恐らく正式な本であれば校閲に引っかかるかも知れないなと思いました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • emaxemax
  • ベストアンサー率35% (43/121)
回答No.2

そもそも、普通は「昼を回る」なんて言葉は使わないのでは? 「12時を回る」ならもちろん使います。 なぜなら、ここでいう「回る」は、時計の針の動きのことですから。 で、食事処がガラガラだったのは昼を過ぎたからで、12時を回ったら混んでるでしょうね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

お書きのとおりだと思います。 なお,「昼」は, (1)「12時」と (2)「昼食をとる時間帯=学校や職場の昼休み」 の二通りの意味があると思います。 「昼を回る」は,(1)の「12時を過ぎる」の意味しかないはずです。 いっぽう,「昼を過ぎる」は,(1)「12時を過ぎる」,(2)「昼休みが終わる」の両方の意味になるはずです。だから,他人から電話で「昼過ぎにうかがいます」と言われると,少なくとも私は「13時にお待ちします」と念を押します。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • ゲーテの詩はすばらしいということになってますが

    ゲーテの詩はすばらしいということになってますが 外国の詩というのは多分にリズム感とか韻律であり その詩が発するメッセージの内容は訳者によってニュアンスが それこそ180度変えられることが主ですから、 ゲーテの味わいはやはりネイティブでないとわからないはずであり、 どんな訳になっても内容が影響力を持ち続けて内容の秀逸さが残りつづける、というのは 詩に限ってありえない。 ゲーテの美しさは、あれは翻訳した側の尽力があればこそであり、 ゲーテ自身の影響は訳した時点で一割程度に過ぎないのではと これはランボーですが、時が流れるお城が見える、なんて原文にはそんな愉快なニュアンスはないはず。訳者のセンスなりけり。 もしかしたら原文で読んだらがっかりするかもよ? それなのに無条件でゲーテを賛美するのですか? 早合点ではないですか? それくらい原文と訳されたものは別個のものでありはしまいか。 原典がすばらしければどんな訳者でも満足なはずですが 残念ながら駄訳というのはあるわけで、いくらゲーテでも ひどい三流なものになる。つまり詩の内容をたのしむならどんな訳でも いいはずですがそうではないということは やはり詩というものは リズムなどの装飾部分がメインになるわけですね。 あくまで訳者の一人舞台なわけで原作者の意図は空しく裏切られる。 もしかしたら原典は大したことないのに名訳により 名著に仕上げてくれたのかもしれないじゃないか、高橋さんは。 ともかく原典読まないうちにゲーテさんを持ち上げるのは早いんじゃねえのかね? 文章が長い小説を答えの例示として出すのは遠慮くださいませ

  • 接続詞の位置

    皆さんにお聞きしたいことがあります。 以下は私が小説で見かけた文章です。 『彼は、しかし、現れなかった。』 『彼女は、とはいえ、動揺を隠さずにはいられなかった・・』 これらの文章の“しかし”、“とはいえ” の場所に違和感を感じます。私なら、たんに 『しかし彼は現れなかった。』 『とはいえ彼女は動揺を隠さずにはいられなかった・・』 と書いてしまいます。 “しかし”“とはいえ”など、これらの語を文頭に置いた場合はすんなり文を読むことができるのですが、文中でいきなり出てくると、文の流れが途切れる感じがしてしまいます。もちろん私の感覚です。 ただいずれにしてもこのような使い方は小説等でよく見かけます。間違った使い方ではないと思いますが・・ 皆さんはどう感じますか?

  • 接続詞の位置

    皆さんにお聞きしたいことがあります。 以下は私が小説で見かけた文章です。 『彼は、しかし、現れなかった。』 『彼女は、とはいえ、動揺を隠さずにはいられなかった・・』 これらの文章の“しかし”、“とはいえ” の場所に違和感を感じます。私なら、たんに 『しかし彼は現れなかった。』 『とはいえ彼女は動揺を隠さずにはいられなかった・・』 と書いてしまいます。 “しかし”“とはいえ”など、これらの語を文頭に置いた場合はすんなり文を読むことができるのですが、文中でいきなり出てくると、文の流れが途切れる感じがしてしまいます。もちろん私の感覚です。 ただいずれにしてもこのような使い方は小説等でよく見かけます。間違った使い方ではないと思いますが・・ 皆さんはどう感じますか?

  • 接続詞の位置

    皆さんにお聞きしたいことがあります。 以下は私が小説で見かけた文章です。 『彼は、しかし、現れなかった。』 『彼女は、とはいえ、動揺を隠さずにはいられなかった・・』 これらの文章の“しかし”、“とはいえ” の場所に違和感を感じます。私なら、たんに 『しかし彼は現れなかった。』 『とはいえ彼女は動揺を隠さずにはいられなかった・・』 と書いてしまいます。 “しかし”“とはいえ”など、これらの語を文頭に置いた場合はすんなり文を読むことができるのですが、文中でいきなり出てくると、文の流れが途切れる感じがしてしまいます。もちろん私の感覚です。 ただいずれにしてもこのような使い方は小説等でよく見かけます。間違った使い方ではないと思いますが・・ 皆さんはどう感じますか?

  • 松本市の食事処

    来月、信州に旅行に行くものです。 旅行行程の中で松本城に行くのですが、ちょうど昼時なので松本城から歩いて行ける食事処を探しています。 ジャンルは問いませんのでここに来たらこれは食べた方がいいという食事処を教えて下さい。 宜しくお願いします。

  • 英語に翻訳することを前提とした日本語文の書き方

    ネット上で小説を書こうと思っています。 そこで、文体に特徴を与えるために、英語に翻訳しやすい文章で小説を書こうと思っています。 日本の小説が海外で翻訳される際、言語の壁によって日本語の持つ独特の味やニュアンスが失われてしまう、というような話をよく聞きます。 そのような、翻訳されることによって良さが失われてしまうような日本語文は使わず、言語の壁を超えても雰囲気やニュアンスが伝わるような文章を書きたい、と思っています。 そういった文章を書く上での決まりごとや法則は、描写や技術などを制限することになると思いますが、その制限の中で試行錯誤をして書いていくことで、却って特徴的な文体ができるのではないか、と考えています。 大江健三郎さんや村上春樹さんは、翻訳されることを意識した文章を書くことで、独自の文体を作り出しましたよね。 私も英語に翻訳しやすく、なおかつ日本語としても違和感のない文体で小説を書くことを目標としています。 英語に翻訳しても、きっちり雰囲気やニュアンス、表現したいことなどが伝わる文章の書き方を、詳しく解説している書籍やサイトを教えてください。 また、このような文章を書く上でのコツやヒント、注意すべき点、やってはいけないことなども教えて頂けると助かります。 御回答よろしくお願いします。

  • 段落を変える時に1文字分下げること

    文章は、段落を変える時に1文字分下げますが、電子メールの普及のせいか、 通常の紙の文章(横書き)の時も1文字下げないで書くことにあまり違和感が無くなった気がします。 そんなことないでしょうか? 私の気のせいでしょうか? 敢えて1文字下げない文書もありですか?

  • 助詞「が」と「を」ー 願望を表す時について

    動詞を「〜たい」と願望にした場合(食べたい・飲みたいなど) その前についている助詞が「を」であれば「が」に変更するのが正解だと説明している文を見ました。 しかし私は以下のように考えています。 「ご飯を食べたい」ー 12時だから仕事の手を一旦とめて、食事の時間にしたい 「ご飯が食べたい」ー お菓子やおつまみではなく、きちんと食事がしたい つまり、状況によって助詞のニュアンスは変わりますが「が」にしなければ不正解だという説明には、少し違和感があります。 どう思われますか。 アドバイスをお願いします。

  • 海外文学の名作について

    小説好きの人が海外文学は名作が多いというのをよく目にします。 質問なのですが、海外文学は英語を日本語に翻訳したものを読んだとしても、名作としての価値を落とさず素晴らしさを認識できるものなのでしょうか。 というのも、小説では、小さなニュアンスの違いでも たとえば、今まで下らないと思って読んでいた小説を、作者がこういう意図があって書かれているんだよと知った後に読んだら感動したという経験もあります。 まして、名作と言われる作品は、無駄な文章や表現がない。あったとしても計算された形になっていると想像します。 たとえば、クラシックは詳しくありませんが、全く同じ楽譜を見て演奏しても、世界的に有名なピアニストが引いた曲と地域のコンクールの優勝者が演奏したのでは感動が違うと思います。 翻訳者の方も、文学力は優れていると思いますが、何十年、何百年といった時間を超えて語り継がれる文豪の表現したいことをフルに伝えて翻訳出来ているのでしょうか。 気になったのですが、海外文学の素晴らしさを分かる人というのは原文で読んで、 名作と呼ばれる作品は、文章構成が素晴らしいのでしょうか? 内容が素晴らしいのでしょうか? それとも、一文一文の小さなニュアンスが素晴らしく、全体として素晴らしいものになっているのでしょうか? 私に名作を理解出来るだけの読解力、感性がないだけなのか、原文で読んでいないからなのか気になり質問させていただきました。 海外文学は数冊しか読んでいませんが、個人的には日本文学の方が感性に合います。

  • 休みの日に気付いた。世の中の仕事が始まるのは11時

    休みの日に気付いた。世の中の仕事が始まるのは11時が多いことを。 食事処、洋服屋、車屋、病院。 早い所は10時オープンだけど大半が11時オープンなので10時に行くと閉まっているお店が多くて結局、人も11時にならないと増えない。 日本人は働き者というが11時に開店して1時間後に昼飯を食べる昼休憩が始まる。 実質昼の労働は1時間しかしていない。 開店前に働いているとかは客には関係がない話なので朝から準備しているとかの反論は要らない。