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人の行動や思考は、決定論なのか?

stmimの回答

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.8

話が食い違っていますね。質問者さんと私とで決定論の内容が違うとことだろうか?私が言っているのは「ハードな決定論」なのですが、質問者さんは「ソフトな決定論」なのかな? 「特定の状況でなら、誰しも、犯罪を犯す。」という話は、決定論と関係ないように思います(犯罪心理学の話ですよね)。言えるのはAさんが特定の日時に殺人をした、これはAさんには避けることができなかったということだけです。他の人だったら、どうだったかは不明です。 そして、その後Aさんが再び犯罪をするかどうかは既に決定されています。 再教育するとか、しないとかは関係ないのです。 というか、Aさんが、再教育がされるかどうかも既に決まっています。 私の考える決定論は、自由意志の存在しない決定論なのですが、質問者さんは自由意志が存在する決定論のように思います。 違うものに同じ「決定論」と名付けて話しているから、噛み合わないのだと思います。自分からすると質問者さんは決定論と違うものを混ぜて語っているように思えます。 現在の刑法は自由意志を認めており、もし決定論で考えるなら、法律を大幅に変更しないといけなくなることは一致してますね。そんなことをしたら犯罪を抑制できるのかな?と思いますが、それは横道ですね。

noname#236874
質問者

お礼

個人的には、「自由意志や自由選択が厳しい」「決定論が優しい」と感じるのは、「犯罪被害者と、その家族」の立場を考えるときです。 犯罪被害者やその家族は、考えるでしょう。 もし、「犯人が違う選択をしていたら?」、「もし私が違う選択をしていたら」、「被害者にはならなかったのではないだろうか?」と。 起こり得なかった選択を悔やむことは、とてもつらいことだと考えます。 私はその立場を経験したので、特にそう思うのかもしれません。 なら、変えようもなかったのなら、諦めもつくのではないか?と考えることができるのではないか、と。 そして、同時に、犯罪を行った人にも、選択の自由がないとするのなら、許すことができるのではないか?と、考えるわけです。 ということが、私の根底にあるのですが・・・、まぁ、えらいひとたちが、論争しても、自由意志も決定論も仮説どまりなので、話し合えたことは、楽しかったです。 一応アクションを、待ちますが、自信の考えを煮詰めるためにも、長考にはいりますね。 とても勉強になりました。 ありがとうございました。

noname#236874
質問者

補足

私の方も、偉そうなことを言ったわりに、久しぶりに決定論について、深く考えたので、混乱しています。 また、誤解を招くような文章があったのも事実です。 そのへんは、申し訳ありません。 話を少し戻して、これについて。 決定論によると、Aさんがある特定の日時に殺人をすることは決まっており、それをどのようにしてもAさんには避けることができません。だとしたら、Aさんには、責任能力がないことになります。したがってAさんは無罪です。 要点をまとめると。 Aさんは、自由意志を持っている。 Aさんは、殺人をする。 自由意志を持ち、自由選択ができるAさんは、殺人を回避出来たのに、しなかった責任があるので、罪がある。 よって、Aさんは有罪。 決定論だと、 Aさんは、殺人を避けることが出来ない。 Aさんには、回避できたのに、しなかった責任は生まれない。 よって、Aさんは無罪。 で、良いですか? 私の考えも、ほとんど同じで、補足させていただくと。 Aさんは、自由意志という”主観”を持っている。 Aさんは、殺人をする。 Aさんは、殺人を避けることが出来ない。 Aさんには、回避できたのに、しなかった責任は生まれない。 よって、Aさん自身には罪はない。 しかし、犯罪行為によって生じた損害賠償やなぜ犯罪を犯したのか?というAさんに対しての、研究や教育、治療が必要になる。 また、所属する社会に対して、不利益を当てるものは、隔離される。 のが、理想的ではないか?ということです。 現行の法律の刑務所が、「その人の問題であり、その人の自由を奪い、再教育や刑務作業を行わせて、改善を促す」のに対して、私の決定論の考え方では、「その人の問題ではなく、その人を含めたケースの問題であり、誰しもが同様のケースになれば、同様に人を殺す。ので、その問題になるケースを分析し、そのケースにならないようにする」のが理想ではないか?と。 重大犯罪に関しては、特に、その人の自由を奪って、研究の対象とすべきではと感じます。 つまり、現行の法整備と大差はなく、刑務所での「労働や教育」が「犯罪行動への実験と研究」となるので、そこまで大きくは変わらないと考えます。 また、犯罪行為を行うことが、トータル的な得になるのか?という問題もあるとは思います。 で、特に気になったのは、この2点。 上記のとおりに、決定論だからといって、犯罪行為を行った者への、ペナルティーがなくなるわけではない。 >決定論によると誰の犯罪も責任を問うことができなくなるはずです。 誰の犯罪もその人に責任はないが、社会を維持していくために、犯罪を予防、対処する機能は、残り続けます。 仮に、決定論の社会が作られたとしても、犯罪者が野放しになるというのは、大きな誤解だと考えます。 もうひとつはこれで >私の考える決定論は、自由意志の存在しない決定論 私の中では、自由意志は、客観的には存在しないが、主観としては、自由意志はあり続けるというものです。 「本人がどう考えるか?を、コントロールできている」と考えるのは、その人の中でしか成立しないし、自分がコントロールできていると思っていても、他人から見れば、コントロールできていない場合もあると思うので、自由意志は、主観としては存在するが、客観的には存在しない。 ただし、私も、「自由意志の存在しない決定論」なんですが、語弊がありましたかね。 きっと、語弊があったのでしょう。 心理学、宗教も好きなので、けっこうちゃんぽんなのは、否定できません。 その点は、深く考えることができ、嬉しいです。

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