• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:戦国時代の街道の様子と兵士の脚力・体力)

戦国時代の街道と兵士の脚力・体力

eroero4649の回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10511/33054)
回答No.3

戦国時代の道路で有名なのは、武田信玄が整備したと伝わる「棒道」と織田信長の道路整備です。今回は織田領でのお話ですので、信長の道路整備について説明しましょう。 http://www.sengokunet.com/category2/entry36.html 要約すれば、こういうことです。織田信長は、当時としては異例というか非常識ともいうべき大規模な街道の整備を行っております。なぜ道路整備が非常識なのかというと、上記HPでも述べられているように、自分が侵略される側になると迅速なる敵軍の展開を許してしまうからです。ですので信玄の棒道の跡には、ウネウネと曲がりくねっているものも残っています。これはおそらく敵に使われた場合に混乱させる「ダミーハイウェイ」だったのでしょう。 しかし信長は、敵に利用されるリスク以上に、自軍の展開が迅速になるメリットと、流通が迅速になり商業が盛んになるメリットのほうをとったのでしょう。そしてそれが信長の(そして後に秀吉に続く)莫大な経済力に結び付きました。 なお、信長の街道整備で街路樹が植えられていたのは必ずしも通る人たちだけのことではなく、道路を削られないためのガードレールの意味合いもありました。 なにしろ当時の農民の労働意欲は旺盛で、道路があるとどんどん両側から道路を削って田んぼにしてしまうほどだったのです。だから街路樹を植えて道路を削られないようにしたのです・笑。 秀吉の中国大返しのときは、おそらく秀吉も信長のやり方に従って道路整備をしていたはずなので、それなりの街道が整備されていたと思います。 また大返しのときは、武器等の装備は別途船で輸送したという説もあったり、ルート沿いに炊き出しを用意して通りがかった軍勢がすぐに食事をとれるようにしていたという話もあります。 このときのこういった兵站業務、つまり「ロジスティクス」を仕切ったのがあの石田三成だといわれています。 阪神淡路大震災や東日本大震災のとき、被災地から必要なものを聞いて供給すると時間がかかってしまうという問題点が発生しました。そこで熊本地震のときに現地に必要なものかどうかを聞かずに先にリストアップしたものを送り付ける「プッシュ型支援」が行われました。 しかし、受け入れる側の自治体の規模が小さかったせいもあって被災地は受け入れ態勢が整わず、なのにじゃんじゃん物資が送りつけられて現地はパニック状態になり届かない支援物資が山積みになったという課題が残りました。 かように、不測の事態に必要な場所に必要な物資を滞りなく届けるというのが、通信手段がこれだけ発達している現代でもどれだけ難しいかというのがお分かりいただけるかと思います。 中国大返しは事前に綿密に計算・手配する時間などなく、走りながら手配しなければならない大仕事です。いくつもの仕事を同時に行い、しかも不測のトラブルが発生してもパニックにならずに迅速に収束させないといけません。そうしないとそのボトルネックから渋滞が発生してしまうからです。 そう思うと、この中国大返しを裏方として支えて成功させた石田三成は官僚としてどれだけ優秀だったかという話ですね。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵と秀吉の事業はどれもこれもスケールが常識外れです。それをロジスティクスから支えるのはどれだけ大変だったのかを考えると、秀吉の三成に対する信頼があれだけ高かったのも納得です。会長の大風呂敷を、いつもきちんと広げてしかもちゃんと畳むんですからね。そして三成を佐和山十九万石という大きくない領主にした秀吉の慧眼も分かります。自社の規模が大きくなりすぎるとそちらのほうに時間をとられて豊臣ホールディングスの調整ができなくなりますし、北国街道と中仙道と、水上交通路である琵琶湖のすぐ近くの佐和山に彼を配置したのです。まんま北国街道と中仙道の交差点に置かないところが憎い。どんなに信頼しても、妄信はしない。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 「http://www.sengokunet.com/category2/entry36.html」より感想を。 『日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。』といきなり日本の道路事情の悪さ(国道ではなく「酷道」)を酷評しています。 ……余計なお世話だという気がする。確かに私の記憶に残る昭和30年代にしても、道路は悪かったが、それなりに風情もあった。道路が良くなった現代は、そのことが日本人に「忙しさ」をもたらしたと感じる。(経済的観念ゼロの私でした。(*^_^*)) (1)『弱者は道を壊し、強者は道を造る』、(2)『覇者は道を与える』……「すべての道はローマに通じる」というような諺もあったように記憶していますが、「道路(物流)と戦争」というのも面白いテーマになりそう。 信長はその街道脇に「柳の木」を植えるように命じています。……独裁者的武将というイメージよりも、「気配りの人」という印象を与えますね。信長観が変わりそう。  そしてそれが信長の(そして後に秀吉に続く)莫大な経済力に結び付きました。……戦国時代が高度経済成長期と言われるゆえんも道路整備がその一翼を担ったということですね。  当時の農民の労働意欲は旺盛で、道路があるとどんどん両側から道路を削って田んぼにしてしまうほどだったのです。……(*^_^*)現代でもそういうことあります。油断大敵です。  このときのこういった兵站業務、つまり「ロジスティクス」を仕切ったのがあの石田三成だといわれています。……ただ、物流だけでは戦には勝てなかったということでしょうが、三成は印象が薄いですね。  そう思うと、この中国大返しを裏方として支えて成功させた石田三成は官僚としてどれだけ優秀だったかという話ですね。……残念ながら「武将」としての駆け引きにはたけていなかったのですかねぇ。  そして三成を佐和山十九万石という大きくない領主にした秀吉の慧眼も分かります。……黒田勘兵衛も大きくなかったようですね。

関連するQ&A

  • 戦国時代の歩兵

    秀吉の大返しについてお尋ね致します。10日で230kmも移動した、ということですが、単に歩くだけでなく、色んな作業をしながら、かつ、一説には20kgとも言われる甲冑を装着しながら移動したということになりますね?それを考えると、当時の人は、相当、頑健な体をしていたと思われるのですが、普段から鍛えていたのでしょうか?

  • 食器戸棚一つだけ運ぶには

    実家に置きっ放しの食器棚を移動することになりました。 大きさは幅130奥行き40高さは半分にできるので各80位の物なのですが、 こういった物を運搬する場合、何便を使うと格安でしょうか?移動距離は100km位です。 ご存知の方いらっしゃいましたらよろしくお願いします。

  • 戦国時代の兵士の食事??

    たぶん良くてお米と、味噌ぐらいだと思います。 現代人がこんな食事で、何日生きていけるでしょうか。 無駄な栄養摂りすぎてるのは、事実だと思いす。 反論お待ちしています。

  • 戦国時代の兵士たちや武将について

    戦国時代には、たくさん武将やらその武将に仕える兵士さん達がいたと思いますが、その人達は普段どこに住んでいたのでしょうか? 戦がない時には自分の家で、今でいう自主練のようなものをしていたのですか?それとも、仕えるお殿様のお城の中に住む部屋(自分の部屋)があって、そこで暮らしてやっぱり自主練などをしていたのでしょうか? 後者であれば、やはりそれなりに偉い人は一人部屋で、兵士達は数人の人たちと同室とかだったのでしょうか? 知りたいので、教えて欲しいです。

  • 戦国時代における兵士の七つ道具

    戦国時代、戦場に刀、槍、鉄砲を持参するのは当然でしょうが、その他に、武器以外で戦場で役に立つ兵士の七つ道具みたいなものはあったのでしょうか???あったとすれば、どんなものがあったのか教えて下さい。例えば「薬袋」みたいなものはあったのでしょうか???

  • 戦国時代の美濃~越前にかけての街道について

    戦国時代の美濃~越前にかけての街道について こんにちは! 最近、ドライブで福井県まで蟹を食べに行ってきました。その過程で疑問に思ったことがあるので、質問します。 今は車などの交通網が発達し、岐阜~北陸方面へ向けても便利になりましたが、戦国時代はどうだったのでしょうか? 岐阜(美濃)から北陸へ行くには、一度琵琶湖方面へ出て、それから琵琶湖沿いに北上するしかなかったのでしょうか?それとも、美濃から直接に飛騨を経由して、北陸へ抜ける街道があったのでしょうか?もしあったなら、それは何街道というのでしょうか?また、おそらくそのような街道が存在しても、難所続きだったと思います。大体そういう街道には、海産物を腐らせないようにする特産品が発達すると思うのですが、そういう特産品もあったのでしょうか?

  • 弘前から能代までの所要時間について

    青森の弘前から秋田の能代まで、7号線(羽州街道)を使って車で移動した場合、所要時間はどの程度かかりますか? 距離を調べたところ約90km程あるようですが、道幅や勾配等の道路事情が分からないため、所要時間のイメージが湧きません・・・ どなたか走ったことがあるかた、凡そで構いませんので教えて下さい。ちなみに時期としては8月上旬なので雪などの影響は無いものと考えてます。

  • 戦国時代の城内の様子について(図説)

    お世話になります。 日本の戦国時代の城内の資料を探しているものです。 城の建築方法や、外側からの写真などを取り扱った書籍は良く見かけるのですが、城内の写真などが載っている書籍に巡り合えません。 当方が知りたいのは、城内の人間の生活空間が載っている図説のような資料で、 床の間・寝室・廊下・庭園・厠などが写真・絵などで図説されているものを探しています。 また、当時の城の資料でなくとも、和室・座敷などについて図説されている資料も、探しています。 写真集・ムック・コミックなど、書籍の種類は問いません。 上記のような書籍をご存知の方は、お教え願えませんでしょうか。 よろしくお願い申し上げます。

  • 戦国時代 : 戦いの最中の兵士の毎日

    例えば戦国時代などで多くの戦いが日本全国で行なわれたと思いますが、その多くは決着がつくまで数週間とか数ヶ月とか時間がかかっていますよね? 特に相手が籠城した時などは長期間にわたる戦いになったように思います。 今と違って結構ノンビリした戦いだったと思います。 その時の兵士の毎日について質問です。 1. まず寝る時はどうやっていたのでしょうか? 今のようにテントも寝袋も無い時代です。 やはり鎧・甲冑をつけたままで地面に横たわっていたのでしょうか? その場合、夏はいいとしても冬は? 2. その寝る時なんですが、総大将や上層部の武士はどうなんでしょうか? やはり下級武士と同じように寝ていたのでしょうか? あるいは何らかの形で布団に入れるようにしていた? 3. 例えば今川義元は何万の大軍を率いて都に上る途中で織田信長軍により倒れましたね。 その今川軍なのですが、何万の兵士に毎日食べさせられるだけの米を一緒に持っていったのでしょうか? となると、膨大な量になると思うのですが ・・・ 何万人 x 3食(2食?) x 総日数という事になりますよね。 もし基本的に毎日毎日、現地で買付けする事が念頭にあるのなら、もし敵方ばかりで誰も協力しなかったら、どうなるのでしょうか? その場合は力づくで? 4. 風呂は? 着替えは? 風呂については、おそらく濡れた手拭いで体を拭く程度だったかなと思うのですが、長期間になると髪に虫がわいたり衛生上の問題が出るように思います。 また着替えについても戦闘が無い時に自分で川で洗濯したのかなと思いますが、実際はどうだったのでしょうか? 5. もし病気になったら? 風邪をひいたり、お腹の調子が悪くなって、薬を飲ませたり医師に診せる必要が出た場合はどうしていたのでしょうか? 今のように前線から本国に連れ帰る事は出来なかったはず。 もしかして医師を戦場連れて行ったり、大量の薬品を持参していたのでしょうか? それに病気になった時、上層部と下級武士で扱いは違っていたのでしょうか? 6. 戦いの終了後、傷ついた兵士にはどう対処したのでしょうか? 例えば自分で歩けない人は誰か数人で故郷まで担いでいったとか? と、素朴に疑問に感じています。 時代考証をしっかり研究した時代劇を見てもそのような描写はほとんどありません。 宜しくお願いします。

  • 昔の人の体力と脚力

    江戸時代、早飛脚で有名だった者が、高崎~江戸~大阪(現在の国道だと620kmぐらいか)を3日間で走破し、帰りも同じく3日間で走破したそうです。 単純計算で1日当たり207km、1時間当たり8.6kmぐらい。 アップダウンの激しい当時の街道を6日間で1240kmも走ること自体が信じられません。さらに食事や休憩時間を差し引くと、もっとすごいスピードで走っていたことになります。 ところで、箱根などの関所や大井川などの川越しの営業時間は午前6時から午後6時まででしたが、早飛脚でもその時間帯は通行できなかったのですか?だとしたら、もっとすごいスピードで走っていたことになります。 栄養学や科学トレーニング、各種サプリメントなどもない時代に、そのような猛者が本当にいたのでしょうか? ちなみに、私は平坦な舗装路を速足で散歩すると1時間当たり5kmですが、そのペースだと3時間が限界です。