戦国時代の美濃~越前にかけての街道

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  • 戦国時代の美濃~越前にかけての街道について調べました。当時、岐阜(美濃)から北陸へ行くには琵琶湖経由が一般的でしたが、直接に飛騨を経由する街道も存在しました。特産品についても、難所を通る街道では海産物を腐らせないための特産品が発展していた可能性があります。
  • 戦国時代の美濃~越前にかけての街道には複数のルートがありました。一般的には琵琶湖経由が主流でしたが、美濃から直接に飛騨を経由する街道も存在していました。また、難所を通る街道では特産品が発展し、海産物を腐らせない工夫がされていた可能性があります。
  • 戦国時代の美濃~越前にかけての街道について調査しました。一般的には琵琶湖経由が一般的でしたが、美濃から直接に飛騨を経由する街道もありました。特に難所を通る街道では、海産物を腐らせない特産品が発達していた可能性があります。
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戦国時代の美濃~越前にかけての街道について

戦国時代の美濃~越前にかけての街道について こんにちは! 最近、ドライブで福井県まで蟹を食べに行ってきました。その過程で疑問に思ったことがあるので、質問します。 今は車などの交通網が発達し、岐阜~北陸方面へ向けても便利になりましたが、戦国時代はどうだったのでしょうか? 岐阜(美濃)から北陸へ行くには、一度琵琶湖方面へ出て、それから琵琶湖沿いに北上するしかなかったのでしょうか?それとも、美濃から直接に飛騨を経由して、北陸へ抜ける街道があったのでしょうか?もしあったなら、それは何街道というのでしょうか?また、おそらくそのような街道が存在しても、難所続きだったと思います。大体そういう街道には、海産物を腐らせないようにする特産品が発達すると思うのですが、そういう特産品もあったのでしょうか?

noname#223577
noname#223577
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  • Pinhole-09
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回答No.2

室町末から戦国時代にかけて美濃から直接または 飛騨経由で北陸方面に行く街道としては、 1.加賀へ出る街道はありません。 2.越前へ出るルートは先答にある、温見峠越え  (美濃街道)とその東の油坂峠越え(古くは  穴馬道と呼ばれた)の二つがあります。    どちらも大野経由で前者の方が短い。 3.越中へ出る道としては、飛騨街道で高山(古く は石浦)へ出て、当時越中西街道または越中東街道 と呼ばれたルートで富山へ出ます。 2の道は途中険しく冬の積雪も多く、難渋大で 越中へ出る道の方が楽といわれます。 山中で北陸の魚を手に入れるのに、鮮魚は無理で、 塩漬けの魚になります。   特産品の例として「飛騨鰤(ぶり)」があります。 富山でとれた鰤を塩漬けに加工して貰い、食べると 共に、飛騨鰤の名で他(信濃など)の地方に売り さばいたといいます。 海のない甲斐の国の名物「煮貝」見たいなものです。 越中東街道は「飛騨鰤街道」とも呼ばれました。 塩鰤は古くからのもので、前田利家も食したそうです。   角川「日本地名大辞典」の図を参照。

noname#223577
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  • tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E8%A6%8B%E5%B3%A0 海産物云々は よくわからない。 特産品なんてものは、都市の富裕層のものであり、京都という大都市があればこそ 鯖街道 とかが名付けられたのだと思う

noname#223577
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