海上交通・河川交通の活性化と人、物資の流通状況とは?

このQ&Aのポイント
  • 10~12世紀の海上交通・河川交通の活性化と人、物資の流通状況をまとめました。
  • 海上輸送においては、国内の輸送として奈良に都が作られ、海運が発達しました。平安時代になり、京都に遷都すると海運が一層盛んになりました。鎌倉時代には産業が発達し、日本全国で物資が流通しました。
  • 海上交通・河川交通の活性化と人、物資の流通状況により、10~12世紀の日本では国内の輸送が発展し、奈良や京都、鎌倉などの都市や町に物資が運ばれました。海上交通を利用した水上交通が盛んになり、日本海や琵琶湖が交通の要所となりました。
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日本大学通信学部の史学部の科目取得試験において

10~12世紀(平安時代後期~鎌倉時代前期)における、海上交通・河川交通の活性化と人、物資の流通状況と言う問題が出された場合。下のように回答してればよいですか? 海上輸送においては、国内の輸送として奈良に都が作られ、全国から「租・庸・調」を集める為の海運が発達。内陸地からは川や海の船着き場に荷を背負った人が集められ、舟に乗せて奈良の近くに陸あげされたその荷は人や荷車に乗せ朝廷や貴族のところに運ばれました。 平安時代になり京都に遷都すると、海運が一層盛んとなり、特に日本海側の国々から集められた税は、現在の福井県敦賀(つるが)や小浜(おばま)から陸の道を通って琵琶湖迄運ばれ、舟に乗せかえ、大津迄運ばれて陸上げされた荷物が再び荷車に積まれ、京都へと運ばれました。また、その頃になると京都の特産品が諸国に運ばれる事も多くなり、大いに琵琶湖や日本海を利用した水上交通が利用されました。 更に、鎌倉時代になると産業も発達し、日本のあちこちで作られたものが、京都だけでなく鎌倉を初めとする地方の都市や町にも運ばれるようになっていきました。

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回答No.2

No.1です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼に 「日宋貿易を中心に書けば良い訳ですね。」 とありますが大学側の選考基準を知りませんので良いとも何ともいえません。 今後下記のような考え方を学ばれるかと思います。 参考 江戸期における物流システム構築と都市の発展衰退 https://www.ymf.or.jp/wp-content/themes/yamagata/images/56_7.pdf 具体的な事柄だけではなく、発達や衰退した原因、その事柄が及ぼした影響などを考察していることに注意して下さい。 物事をこのように捕らえて考える基本を学ぶことになるかと思います。 それについて行けるだけの基礎学力があるかどうかが問われるのではないかと思います。

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質問者

お礼

現在、治療中の線維筋痛症が回復しつつあり、実際に出た過去問でどう回答すべきかを参考までに質問させて頂きました。 完治し、歴史を教える塾に付く為には大学的な知識(準備)を付けたく、只今、日大通教史学科の研究中です。 ご協力感謝します。

その他の回答 (1)

回答No.1

>海上輸送においては、国内の輸送として奈良に都が作られ、 運輸のために奈良に都が定められたのでありません。 >全国から「租・庸・調」を集める為の海運が発達。内陸地からは川や海の船着き場に荷を背負った人が集められ、舟に乗せて奈良の近くに陸あげされたその荷は人や荷車に乗せ朝廷や貴族のところに運ばれました。 船による輸送は天候に左右される上に難破の危険性もあることから租税である租庸調の輸送に船を使うことは原則として禁止されていました。 租・庸・調の荷を背負った人は運脚夫と呼ばれ出発地から都まで街道を歩きました。 参考 租庸調 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/租庸調 抜粋 奈良時代は原則として車船の輸送が認められなかったので、民衆の中から運脚が指名され、都まで担いでいった。往復の運搬のたびの食料は自弁であったために餓死する者も出た。運脚たちが歩いた道は国府と都を直線で結ぶ官道(駅路)七道であった。 >平安時代になり京都に遷都すると、海運が一層盛んとなり、特に日本海側の国々から集められた税は、現在の福井県敦賀(つるが)や小浜(おばま)から陸の道を通って琵琶湖迄運ばれ、舟に乗せかえ、大津迄運ばれて陸上げされた荷物が再び荷車に積まれ、京都へと運ばれました。 平安時代に海運が発達したのは国内物流ではなく中国との交易によるものでした。 平清盛は日宋貿易で財をなして権力を手中にいれました。 参考 日宋貿易 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/日宋貿易 抜粋 平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。 平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する水銀などを輸出品に貿易を行った。 平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。 また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。 1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。 >鎌倉時代になると産業も発達し、日本のあちこちで作られたものが、京都だけでなく鎌倉を初めとする地方の都市や町にも運ばれるようになっていきました。 国内の物流はあくまでも陸上輸送が主体で海運の発達とは無関係でした。 鎌倉時代の日宋貿易の港湾は博多が主体でした。 河川と海運を組み合わせた物流が発達したのは江戸時代でした。 蛇足 奈良盆地内の河川は合流して大和川となり現在は堺市の北部で海へ流れ出していますが、これは江戸時代以降の流れです。 奈良時代、平安時代、鎌倉時代には生駒山地を抜けた後北上して天王寺付近で大阪湾へ流出していました。 参考 古代大阪の変遷|水都大阪 www.suito-osaka.jp/history/history_2.html この大和川の河口付近が難波津と呼ばれ中国や朝鮮との交易に使われる港でした。 以降も九州、四国、山陽地方と京都との物流は淀川を遡上する方法が取られていました。 琵琶湖を使っていたのは北陸地方が主体でした。 日本海の航路を開拓したのは江戸時代の川村瑞賢でした。 それまでは、小さな漁港どうしがお互いに往来する程度のものでした。

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質問者

お礼

と、なると日宋貿易を中心に書けば良い訳ですね。

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