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返しきれない程の恩がありますが…

一生かけても返す事のできない程の恩が有り、今の自分が生存出来ている事はまさにこの人のお陰であって、とても感謝はしています。 しかし、ある出来事、事実を経て、知り得る中で最も憎い人へと変化してしまいました。 ただ、現在の生活環境ではその人の存在がなければならない状況であり感情を圧し殺しながら過ごす日々が続いております。 自身ではどのようにたち振る舞えば良いのか分からず、出来るだけ意志の疎通や接点を減らすよう工夫しながらやり過ごしています。 自分以外の人間が同様の状況ならば如何様に過ごされる、対策されるかを知りたいと思います。 宜しくお願い致します。

みんなの回答

  • YESNO555
  • ベストアンサー率20% (51/251)
回答No.4

切羽詰まりそうな状況ってのは文章からは伝わりますが 回答するほどの内容がわからない

  • HeyXey
  • ベストアンサー率27% (136/503)
回答No.3

恩があると思っているのは自分で、相手はそうは思ってないかもしれません。ひとはメリットのない事はしないものです。何らかのメリットがあるから、そうするのであって、貴方には関係ない、あるいは副次的にしか関係ないと理解する方が合っているのではないか。そういう人間観もあるのです。行動分析学、別名メリットの法則です。 世の中の出来事を「自分との関係で理解する」仕方は幼い人の傾向です。たとえば、メールに返事が返って来ない時、「自分のメールの表現に何か問題があったのではないか」と心配していると、「ゴメンゴメン、急に来客があって返答が遅れたよ」とメールが届く という風に。 他者に与える影響、他者から受ける影響、これは人によって感じ方が違います。他者の言動からものすごく影響を受ける人もいれば、蛙の面に小便という感じで、まったく影響を受けない人もいます。その違いは何でしょう?。 「人にされて嫌な事は人にもしない」のは確かにそうですが、人によってされて嫌な事は違うじゃないですか。自分の延長線上で他者を見てしまうのです。自分がそうだから、他者もそう感じるに違いない。言われた言葉に対し、自分が嫌な思いをするのが分かっていてそう発言しているに違いない、と自分の延長線上で相手を理解するのです。 実際のところは簡単にはわからないのです。「原因帰属理論」というのもあります。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11129/34638)
回答No.2

一生返しきれないほどの恩があるなら、そっち優先ですね。私もいろんな人のお世話になりましたが、一生返しきれないというほどのことはありません。 一生返しきれないほどの恩がありながらそこまで憎くなるってのは、なんでしょうね。殺された親の仇だったくらいしか思い浮かびません。マンガや映画なんかにありそうですね。自分を育ててくれた男は、実の親を殺した男だったなんてね。 そこまでの度が過ぎたことであるならば、あとは世間の常識や自分の価値観で判断すればいいと思います。親の仇なら、仇討ちってなるのがお約束ですね。「世話になっておいて、それはないだろう」とは世間の人たちはあまり思いません。 それこそ置手紙を置いていなくなって全てをリセットして人生をやり直すってことだってやろうと思えばできるはずです。できるはずというか、そういうふうに体が自然に動いてしまうと思うんです。ああ、自分はここにはいられないって。 でも接点を最小限にすればどうにかこうにか我慢できるということであるなら、そこまであり得ないほど憎くはないんじゃないかなと思うのです。いやね、私一度もうこいつとは絶対やってらんねえやで仕事辞めちゃったことがありますからね。本当に同じ空気も吸うのが嫌だになれば、いられないと思うんです。そいつがいなくなる自由と、先々の不安で先々の不安が大きいならまだそこまで憎くないのだと思いますよ。 今まで知り得た人のなかでは一番憎くても、我慢の容量を超えてまで憎いってほどではないのではないかなと思います。

noname#235426
noname#235426
回答No.1

罪を憎んで人を憎まずという言葉あります。 私自身、坊主にくけりゃ袈裟まで!とは、どうしても慣れないお人よし人間なので、今まで、よほどでない限り、友人に自分から絶交を言い渡したことがないです。 世間では子供に対して「多少は大目に見るてあげる」ようなこと多いでしょ? ニュースでもなんでもです。 「子供だからね」って。 (まあ、これも私的には、ちょっとむかつく部分もあるんだけどさ。身体能力の柔軟さの関係から、転んでもけがは軽傷で済みやすい子供より、小さな転倒でも重症になりやすい年寄のほう、そして、いつも譲りあう心を持ってる年寄のほうをもっといたわれや!ってね。) 高齢者目前になって、「多少は目をつむる」ということも必要だなあってひしひしと思い知ることが多くなりました。「多少は大目に見る」という感覚よりも、さらにもっと譲ってる感じです。 許すということ。小中学生の時は、一時期、教室で、クラスメイトのみんなが相手を思いやることをしてました。その時、不思議なほど、「ごめんね」とか、「それ、私が悪いのよ」とか、伝染したみたいに、みんなが腰を低くし、頭を下げあってたんです。 その様子を時々思い出し、反省させられてます。 ただ、どうしても許せないケースもあります。 我が子を喰い物(注:「食い物」ではないよ)にしてる親とか、我が子だけ良ければ他人はどうなってもいいと考える人間とか、身内に対してだから遠慮せずに「死ね!死ね!」と連発する人間とか。 私は、呪いたいほど大嫌いな人であっても、その人物の良い部分を発見したら、そこの部分については評価してます。 良い部分と悪い部分を、別々に分類するようにしてます。

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