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幕末期の裏工作

 下記は、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」の一節です。  大久保にはそれをやる能力がなかったわけでなく、かれが幕末において担当した革命政略というのは、ほとんどがそれであったといっていい。西郷が立業をやり、大久保が寝業を担当した。物事の変革をきらう保守家の島津久光をなだめたりすかしたりして藩の方向を倒幕へもってゆき、さらに幕末のぎりぎりの段階で上洛し、岩倉具視と組んで親王や公卿に裏工作をほどこしたときは、ずいぶん藩の金をばらまいた形跡がある。岩倉が、明治後、ふと雑談の席で洩らして、  「当時、自分と大久保がやったことは、双方、死んでも口外できぬことが多い」 といったことがあるのは、その裏工作の苛烈さをにおわすものといっていい。  質問は、幕末期に大久保利通と岩倉具視によって行われた「裏工作」にはどんなものがあったのでしょうか???ということです。  私の承知しているところでは、「孝明天皇の毒殺説」というのも、それに該当するのではないかと思いますが、「双方、死んでも口外できぬことが多い」と言っているのですから、想像するか、学説によるしかないと思いますが、もっとあると思います。それを教えて欲しいのです。

noname#238475

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  • 回答No.3

倒幕の密勅の捏造なんかもそうなんじゃないでしょうかね。まあ状況から考えて、倒幕の密勅は岩倉具視による捏造であることはほぼ間違いないと思います。問題は、大久保利通がどの程度関与していたかということになりますが、これまた状況証拠から考えると、岩倉具視と西郷隆盛と大久保利通は共謀していて何の不思議もないとは思います。 ただし、このテの陰謀は当然のことながら決定的な証拠は絶対に出てきませんから、推測するしかないですけどね。 もしかしたら、坂本龍馬暗殺だって何らかの共謀があったかもしれません。坂本龍馬の暗殺実行犯は京都見廻組でほぼ確定していますが、龍馬の潜伏先を知ったのが京都見廻組独自によるものなのか、それともどこからかリークがあったのかはもう分かりません。暗殺事件直前の龍馬は、薩摩藩にとってはちょいと面倒な存在になりかかっていたので、いなければ倒幕に向けて楽になるんだけどなーっていうのはゴリゴリの討幕派であった岩倉具視と西郷隆盛と大久保利通にとっては多少なりともあったとは思いますよ。

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質問者からのお礼

ありがとうございました。 ご回答はすべて納得です。 ご回答を読ませていただいているうちに、ふと、何で読んだのか思い出せませんでしたが、鳥羽伏見の戦いの時の「錦旗」のことを思い出してしまいました。あれなんかも、「死んでも口外できぬこと」には該当しないかも知れませんが、きわどい裏工作のひとつだったのではないかと想像してしまいました。記憶がきわめて曖昧で、的はずれかも知れませんが。 いなければ倒幕に向けて楽になるんだけどなーっ……(*^_^*)分かります。「竜馬がゆく」は読みましたが、大作の割には、坂本龍馬という人物が良く分かりませんでした。(T_T)新時代を導いたひとりであることには間違いないと思いますが。所詮は先発隊にすぎなかったのか???しかし、やがて迎える日清・日露の戦争や、特に激動の「昭和」という時代から観れば、幕末・維新に登場する人物は、皆先発隊だったのかもという気もしてきました。

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その他の回答 (3)

  • 回答No.4

すいません。廷臣八十八卿列参事件は時代が早すぎました、つい岩倉具視の陰に大久保ありと思いこんでまして。私の勘違いです。

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質問者からのお礼

ありがとうございました。

  • 回答No.2

要は公家間の多数派工作です。 条約問題、第二次長州戦争、諸藩召集その他もろもろ朝廷と幕府は意見が対立します。 この意見対立を起こし幕府を困らせるべく朝廷をコントロールする、そのために公家に金をばら撒く、脅迫する、場合によっては暗殺する、そういったことをして朝廷内の意見をコントロールしていくんです。 おそらくもっともでかいのは廷臣八十八卿列参事件でしょう。 公家に対し多数派工作をして88人もの公家を動かした、これは大変な政治力です。 文章が残ってないものは学説とはなりえませんが、こういった政治工作には当然汚い手も使ったことでしょう。

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質問者からのお礼

ありがとうございました。 廷臣八十八卿列参事件というのは、全く知りませんでした。調べてみて、「なるほど」という印象なのですが、歴史については素人ですので、この事件に大久保利通が、関わっていたのか???その辺が良く分かりません。 それよりも、ご回答を読ませていただいているうちに、「日本史における公家の果たしてきた役割」というような漠然とした疑問が湧いてきました。「公家とは何だったんだろうか???」といったような。 文章が残ってないものは学説とはなりえません……(*^_^*)私も、質問文を書きながら、ちょっと首をかしげたのですが、やはりそうですか。単純に「小説」としておけば良かった。(*^_^*) これも又、ふと、疑問に思ったのですが、「邪馬台国論争」なんていうのは、あれは「学説」ですかねぇ???。それとも「ロマン」???それとも……。どう思われますか???

  • 回答No.1

大久保利通のwikiを見ると「倒幕・王政復古」と「明治維新後」のところにいろいろ書いてあります。 ---今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる---- などの部分はあちこちに働きかけて 味方にしたり裏切らせたりと裏工作をした痕跡のように見える。あちこちの多数の人にあっているし謀議も数たくさん重ねている様子が読み取れます。 名前の出ている人のwikiも合わせて読めば 彼と会ってからどうなったのか 少しずつ全体像が見えてくると思います。

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質問者からのお礼

方法論を教えていただき、ありがとうございました。 少しやってみたのですが、「当時、自分と大久保がやったことは、双方、死んでも口外できぬことが多い」というものにたどりつけませんでした。具体例に教えていただけるとありがたいのですが???

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