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多様性の時代と言えば聞こえは良いが情報が多過になっ
多様性の時代と言えば聞こえは良いが情報が多過になってませんか?
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america2028さん、こんばんは。これには共感するところがありますね。 ★多様性★例えば、I love you. 「僕は君が好きだ」は稚拙だ。「我、汝を愛す」は陳腐だ。夏目漱石が和訳すなら「月が綺麗ですね」。二葉亭四迷なら「死んでもいいわ」。大切なものだが見えないもの、それゆえに限定されないものだから直接的に表現しない。真・善・美、この一なるものの表現に言語以外でも無限の多様性がある。人類の知的財産も、生命の多様性も長い時間を経て実現したものだ。太古の昔から多様性は潜在的にあり、これからもあり続ける。この種の多様性は創発するのがなかなか難しい。その実現し難い多様性が現実的に実現しているとしてもそれは現代の特徴ではなく、もっと普遍的な性質だ。 ★偽善★「多様性の時代」などと言うのは偽善であろう。もし現実的に真なる特徴とするならば、科学技術の利便性がもたらした多様性や、インターネットの普及や匿名性が現代のわずかな期間に顕現してきた多様性というものは、創発の困難な多様性よりむしろ比較的簡単に誘発される多様性の方だ。すなわち稚拙なものや陳腐なもの、またそれ以上に表現が憚れるものだ。それらが表出し溢れている。災害にたとえて情報洪水というのは的を射ている。これが現実的に悪であるからだ。 ★忍耐★人間理解にはそれも良いかも知れないが、何というか、慎みの文化というべきもの意義を考えるのも必要なのかなと思う。例えば、これのみ慎しむべきということではないが、 I hate you. 憎悪の気持ちは、それを向けられた相手には災禍だが、本人にとっては不幸である。だだしこれも直接的に見えないことで大切なものとなる得る。無限定なるが故に憎が愛に転ずることもある。雄弁なる沈黙という言葉もある。これは信じ難いかも知れないが、憎悪の気持ちを忍ぶとやがて福が来るというものだ。晒せば悪循環に陥ることは容易に想像できよう。活用の価値があるのはどちらの行為だろうか。 ★情報活用★「情報が過多(かた)になっている」と思うのは、活用できない、活用に値しない情報が多いからだ。活用していない情報の多さは問題にならない。というのも、活用しない情報を調べてみると「情報が多過(おおすぎ)になっている」と読むのもありだということも分かったからだ。なので、受動的に情報を受け取り活用できない・活用しない・活用に値しない場合には「過ぎたるは及ばざるがごとし」の観点を、そして能動的に情報収集して活用する場合には「大は小を兼ねる」の観点を採用することになる。
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- g27anato
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多様な選択が可能な時代です。 選択肢も多様性に富んでいますが、 その選択の為の情報が多過ぎるという事ですね。 …確かに、半端ない情報過多と言えます。 個々の情報選択能力が問われていますが、 実態は全く追いついていません。 フェイクに欺される奴は放置するしかありません。 自己判断、自己責任の時代です。 時にIT世代からネット情報前提で他力本願丸投げの助けを求められますが、大抵は冷たく突き放します。 アナログ世代にとっては、自分に必要な情報の選別に忙しい時代となりました。
- nagata2017
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ネットの時代になって 偽情報があふれかえるようになったからでしょう。 2チャンネルのひろゆき氏も「ネットの情報の真贋を見抜く目を持たない人間にとって ネットは危険なツールである」と言っています。
はぁ、いつの話でしょうか そんな事はもう二十年三十年前から起こっていますが。 それと一般教養の話ですが「多過」なんて言葉はありません
お礼
みんなありがとう