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江戸幕府直轄領の代官所と陣屋の違い。

Wiki「代官」の項には、「代官所・陣屋一覧」として、合せて46カ所の代官所、陣屋、代官陣屋が出ています。陣屋が多いですが、代官所が15カ所、代官陣屋が3カ所あります。 代官所と陣屋の違いは何ですか。 よろしくお願いします。 「代官」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E5%AE%98

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  • fumkum
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回答No.6

最初にお詫び申し上げますが、前回の質問に対する回答で、「出張越前本保、同美濃下河辺」の「出張」を、「出張所」としましたが、「出張‐でばり‐陣屋」の略でした。この場を借りてお詫び申し上げます。 さて、「陣屋」と「代官所」についてですが、まず『古事類苑』所載の資料から。 〔政林小書〕陣屋建坪之事 一新規陣屋之建坪弐百三拾坪を限り、‐以下略  支配所へ引越候御代官、陣屋無レ之、新規ニ取立候節、‐以下略 右ハ御勘定所御張紙、安永九子年八月写来ル   申渡 御代官所御領所共、陣屋修復建直等之儀、‐以下略 文政四年卯十二月 〔徳川禁令考 三十五 代官諸入用〕享保十巳年 ‐略‐ 元文元辰年   御代官所陣屋修復等之儀書付 御代官中、支配所住宅之陣屋手代長屋共、‐以下略   辰六月 元文元辰年   御代官支配所住宅之陣屋普請入用之儀ニ付書付 ‐以下略 右御代官所陣屋之儀、‐以下略 〔嘉永三年武鑑〕諸国御関所御番 ‐以下略 諸国御代官 焼火之間百五十俵高 □印本陣屋 △印出張陣屋 近江、伊勢、美濃、大和 屋敷江州信楽△東海道四日市 *多羅尾久右衛門千五百石 以下本陣屋の記載のないもののみ 武蔵、下総 下総 *陸奥△奥州田島 武蔵、上野、下野 武蔵、上野、下野 安房、上総、下総 常陸 武蔵、上野△上州岩鼻 摂津、河内、和泉 御役宅大坂鈴木町 肥前、肥後、筑前 長崎住居△肥前富岡 山城、河内、丹波 京町御奉行支配御役宅京二条 山城 京町御奉行支配京都住居 摂津、河内、播磨 御役宅大坂谷町 *多羅尾=代々代官職世襲。代官筆頭。初代は家康より信楽の多羅尾屋敷内に、代官信楽御陣屋を設けるように命ぜられたとされる。信楽御役所・多羅尾代官所とも呼ばれる。 *陸奥△奥州田島 =南会津の天領地。会津藩の預地と、代官支配が交互に繰り返される。 多羅尾と奥州田島を除けば、本・出張陣屋の記載のない代官は、関八州、京都、大坂、長崎に限られ、名称も「屋敷」「御役宅」「住居」とされます。これを除けば、〔政林小書〕・〔徳川禁令考〕を見ると、「陣屋」「代官所」「代官所陣屋」の名称が当時の記録から見えます。 さらに、『天保集成絲論録』の「寛政四子年四月」に、「伊奈小三郎○関東郡代 馬喰町之屋敷、向後郡代屋敷と唱、久世丹後守始、支配御代官、其外住居、役所向取建之儀相調候、而可レ被2申聞1候」とあり、これが三代官併存の馬喰町御用屋敷の始まりとされ、「御用屋敷」という名称もあることになります。これに関して大石学編『江戸幕府大事典』の「馬喰町御用屋敷」の項に、「通常、代官は江戸の拝領屋敷で江戸での代官業務を行うが、馬喰町御用屋敷詰代官は、馬喰町御用屋敷の役宅に引っ越して居住し、代官役所で執務した。」と記述されています。用例を調べたわけではないので、代官業務を行う拝領屋敷(簡単に言えば自宅である屋敷)の呼称は正確にはわかりませんが、馬喰町御用屋敷の例からすると、「代官役所」であったものと考えられます。そうすると、江戸廻代官(馬喰町御用屋敷の代官ではない)も同じと考えられます。 このように考えてくると、中心となる役所が農村部にあるか、都市部にあるかで呼称に違いがあって、都市部には「陣屋」に関する史料がないことになります。 そこで、「陣屋」に関する解説を見てみると、次のようになります。 『日本史大事典‐平凡社』 陣屋 じんや 平安時代は宮中を警固する衛士の詰所を指し、鎌倉時代は合戦に際して兵士が駐屯した軍営のことをいう。 江戸時代には、(1)一、二万石の無城の小大名、交代寄合、旗本などの屋敷、役宅、(2)代官・奉行などの屋敷や役宅を指すようになる。(1)の場合、陣屋は城に準ずるもので、当主の居館のほか、家臣の居宅、諸役所、調練所などから成り、周囲には土塁や堀などがみられた。(2)の場合も、代官はじめ、元締・手付・手代などの諸役人の居宅・役宅のほか、米蔵・運上蔵・物置・白州・牢屋などの諸施設があり、周囲は長屋門・高塀・溝・空堀などで囲まれていた。(1)(2)とも総じて、従来の軍事的機能に行政(民政)的機能が加わり、これが拡大していったことが特徴として指摘できる。 これらの陣屋は、普通は支配地や知行地などのうちの適当な場所を収公し設けられたため、敷地分は通常村高から引かれ、年貢は免除された。 「国史大辞典」では、「用水方の普請役の詰所、大藩重臣の城下町外の居所、飛地を支配する役所なども陣屋と称した。」「代官陣屋は代官所の別称で、元禄年間には全国天領に分布していた。陣屋とは、郡代・代官の官舎である本陣、公用を執務する所である役所、官舎である元締・手代役宅、手代長屋および属僚の小屋、米蔵・運上蔵・土蔵・物置、白州、牢屋、さらに陣屋稲荷などを含めた総称である。普通は、長屋門、白壁の高塀、薮、溝または空堀に囲まれ境界をつくっている。郡代・代官が属吏の手付・手代とともに任地の陣屋で執務することを在陣といい、その陣屋を本庁また元(*本)陣屋、江戸の役宅を支庁と称し、属僚を陣屋詰・江戸詰に分け、さらに離れた支配地には出張陣屋が設けられた。小大名や交代寄合の陣屋は、城と同じく拝領地であったが、代官陣屋は地主所有の田畑に建てたときは相当の代価を払い、これを陣屋敷引と称し村高から高内引とした。陣屋の付属建物の修繕は元文元年までは村の負担になっていたが、以降は小破損は自分入用、大破損や新規の修復は勘定所の許可を得て郡中割によった。」としています。 さらに、大石学編の『江戸幕府大事典』を見ると、「陣屋」の項では、「江戸幕府の郡代・代官およびその下僚の執務空間。代官所ともいう。」とし、「代官所」の項では、「江戸幕府の直轄領支配のため、代官とその属僚が事務をとった役所。陣屋ともいう。」とし、堂々巡りです。ただ、『江戸幕府大事典』の「陣屋」の項には、上記の記述に続いて、「広義には、郡代・代官の官舎である役所、元〆・手付役宅、手代長屋および下僚の小屋、米蔵・白洲・牢屋などを含めた総称でもある。」としています。これは、「周囲には土塁や堀などがみられた」の記述の有無を除くと、『日本史大事典‐平凡社』の「陣屋」の記述と同様となります。陣屋は、野営の軍営、城に準じたものなので、それなりの広さと施設とが必要で、都市部では陣屋の広さと施設を設けることができないので、役所に代官居住の場合は住居などの基本施設が付いた必要最小限の施設だけなので、陣屋と呼べないということなのではないかと思います。 つまり、全体を「陣屋」、役所を中心とした部分が「役所」・「代官所」と分けられなくもないと思いますが、「陣屋」、「代官所」ともに公文書にも使用例が多く、実際は区別なく使われています。 では、農村部の役所の呼称ですが、基本は「陣屋」ではないかと思います。理由は、(1)代官が任地で執務することを、「在陣」ということ。(2)*享保以降、代官に任地へ赴任することを命じる法がたびたび出されますが、それを「在陣令」とし、法令文中に「在陣」の文字があることなどからです。 ただ、近畿地方を中心とする旗本知行所の代官所を調べた研究書籍があって、それをぱらぱらと本屋で見たときに、名称の一覧に、「陣屋→代官所→陣屋」と変化したとする旗本知行所があったこと。その資料の全体を俯瞰すると、「陣屋」が多いながら、「代官所」もあること。最初に挙げた史料にもあることから、幕府でも「代官所」も公式に使用されており、基本的な名称が「陣屋」であっても、「代官所」もそれと並ぶ名称として使用されたと思います。 では、江戸ではというと、御用屋敷は特殊で、その他は「(代官)役所」ではないかと思います。京・大坂・長崎は、都市部の赴任先なので「役宅」が基本なのではないかと思いますが、よく調べないと正確にはわかりません。 *享保以降、代官に任地へ赴任することを命じる=江戸幕府の初期の豪族型・世襲型の代官に不正が多くなり、そのために元禄期までに、多くが不正により解任等をされ、新たに官僚型の代官にとって代わります。元禄期には代官と農民の癒着を嫌い、関東を中心とする代官に、江戸在住を誘導します。しかし、享保期になると、年貢増徴、治安の維持などのために、赴任するように命じる在陣令がたびたびだされます。 ところで、次の文をどの様にお読みになりますか? 〔的例問答〕町屋舗抱屋敷之譯之事 享和元酉年六月屋敷改江問合 ‐略‐ 一町屋敷と申候は、町奉行一手之支配場所を、町屋敷と唱申候、 一町並屋敷と申候は、町奉行と御代官両支配之場所を、町並屋敷と唱申候、尤御代官支配ニも限不レ申、私領寺社領ニ而も、町奉行支配と両支配ニ御座候得ば、町並屋敷と唱申候、

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 歴史の素人である私の思いつきの質問に、こんなに懇切丁寧に専門的な立場から回答して下さって真にありがとうございます。 ネットで『古事類苑 官位部三』に記載の武鑑を見ました。 ネットのものは活字が不鮮明で読みにくいのですが、ご回答に詳しく拾い上げて下さっていたので、これを参考にして難なく読めました。 「□印本陣屋 △印出張陣屋」もよく分かりました。 さて、陣屋と代官所の違いについては、やっと分かりました。 ご回答から勝手に抜き出して恐縮ですが、私が理解して納得した箇所をまとめとしてコピーします。 1 用例を調べたわけではないので、代官業務を行う拝領屋敷(簡単に言えば自宅である屋敷)の呼称は正確にはわかりませんが、馬喰町御用屋敷の例からすると、「代官役所」であったものと考えられます。そうすると、江戸廻代官(馬喰町御用屋敷の代官ではない)も同じと考えられます。 このように考えてくると、中心となる役所が農村部にあるか、都市部にあるかで呼称に違いがあって、都市部には「陣屋」に関する史料がないことになります。 確かに武鑑を注意深く読んでみますと、「本陣屋」「陣屋」「出張陣屋」とされているのは農村部です。代官が在府の場合は、江戸の町名を載せています。また、大坂は御役屋敷、長崎・宇治・嵯峨は住居です。納得しました。 2 つまり、全体を「陣屋」、役所を中心とした部分が「役所」・「代官所」と分けられなくもないと思いますが、「陣屋」、「代官所」ともに公文書にも使用例が多く、実際は区別なく使われています。 では、農村部の役所の呼称ですが、基本は「陣屋」ではないかと思います。理由は、(1)代官が任地で執務することを、「在陣」ということ。(2)*享保以降、代官に任地へ赴任することを命じる法がたびたび出されますが、それを「在陣令」とし、法令文中に「在陣」の文字があることなどからです。 3 最初に挙げた史料にもあることから、幕府でも「代官所」も公式に使用されており、基本的な名称が「陣屋」であっても、「代官所」もそれと並ぶ名称として使用されたと思います。 では、江戸ではというと、御用屋敷は特殊で、その他は「(代官)役所」ではないかと思います。京・大坂・長崎は、都市部の赴任先なので「役宅」が基本なのではないかと思いますが、よく調べないと正確にはわかりません。 4 「国史大辞典」では、(略)「代官陣屋は代官所の別称で、元禄年間には全国天領に分布していた。陣屋とは、郡代・代官の官舎である本陣、公用を執務する所である役所、官舎である元締・手代役宅、手代長屋および属僚の小屋、米蔵・運上蔵・土蔵・物置、白州、牢屋、さらに陣屋稲荷などを含めた総称である。 私は「代官陣屋」についても知りたかったのですが、「代官陣屋は代官所の別称で、元禄年間には全国天領に分布していた。」ということで、すっきりしました。 幕府役人もいろんな用語を使っていたのですね。 現代にもそんな一面がありますから、幕府の事情も分かります。

kouki-koureisya
質問者

補足

詳しいご回答真にありがとうございます。 武鑑を調べている内に分からなくなってきました。 とりあえずこの欄を借りて中間報告します。 後日整理してお礼欄に記入します。 1〔政林小書〕陣屋建坪之事については、建物としての「陣屋」に関する規定ですね。 よく分かりました。 2〔嘉永三年武鑑〕をネットで見付けましたが、ご回答にある武鑑とは違うようで、記載内容が少し異なる部分もあります。 嘉永武鑑 国文学研究資料館 https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=idl&bib=200018981 崩し字は苦手で満足に読めませんが、代官の住所(住居)が江戸であれば町名も書いてあるのですね。 「近江、伊勢、美濃、大和 屋敷江州信楽」に対して私が見た武鑑では「近江信楽住居」となっています。(意味は同じだと思います) また、「諸国御代官 焼火之間」は、「躑躅」となっています。 本論には直接関係ないことですが、武鑑の発行時期が同年であっても、少しずれているのかも知れません。 住居に興味を持って他の武鑑を探したところ「文政武鑑」では、「近江 伊勢 美濃 陣屋近江信楽□□」とあります。 他にも陣屋の表記があり、「大和五條」「信濃中□」「出羽尾花沢」「越後水原」「但馬生野」など多数。 中には「本陣屋」と表記されている陣屋もあります。 また、「伊豆 駿河 相模 江川太郎左衛門 陣屋伊豆韮山住居」とあります。 「韮山」や「但馬生野」は、文献・資料では代官所と呼ばれる方が圧倒的に多いと思います。 とにかく、全く分からなくなりました。 3〔的例問答〕町屋舗抱屋敷之譯之事については、後半は、何を言ってるのか判然とせず、どう解釈すればよいのか分かりません。 「屋敷改役」に問い合わせたところ 「町屋敷」と言うのは、町奉行のみに支配される場所を言う。 「町並屋敷」と言うのは、町奉行と御代官により支配される場所を言うが、代官支配に限らず、私領寺社領であっても町奉行と寺社奉行の両方から支配されておれば町並屋敷と言う。 4「出張越前本保、同美濃下河辺」の「出張」について「出張‐でばり‐陣屋」の略であること、ご丁寧に訂正して下さってありがとうございます。

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その他の回答 (9)

  • fumkum
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回答No.10

NO9で回答した下記の文章について、訂正します。(  )内の文が、訂正、加筆した文となります。 「私領、寺社領の町屋地を町並地とし、町奉行の一手支配となると、年貢はとれなくなるわけで、実質的にその土地は上知された」 「私領、寺社領の町屋地を(町地)とし、町奉行の一手支配となると、(領主は)年貢はとれなくなるわけで、実質的にその土地は上知された」

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 「寺社領」とは、寺社の境内地・門前地ではなく、領主として知行を認められ、年貢を取り立てる土地を指しているのですね。 そうだった、と思い出しました。 そして、巣鴨を例にしての解説でよく理解できました。 「つまり、巣鴨町上組・中組・下組は町並地として町奉行の人別支配を受けますが、土地は増上寺領として、従来通り領主である増上寺に年貢を納めることになり、町奉行と増上寺の両(属)支配を受けることになります。」 私は、ある程度前もって勉強し、質問してからもよく調べるようにしているのですが、何しろ知識の底が浅いので、応用がききません。 そのため、“なぜ?・どうして?”と次から次へと分からない点が出てきます。 しつこい私に付き合って下さって本当にありがとうございます。 今後ともよろしくとお願いしたいところですが、海外赴任されるのですね。 ご活躍をお祈りしています。 帰国されての再会を楽しみに待っています。

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  • fumkum
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回答No.9

前々回に記述した『古事類苑』所収の武鑑ですが、最初の部分が抜け落ちていました。「躑躅間」とご指摘いただいたときに気が付けばよかったのですが、失礼しました。なお、代官の江戸城中の伺候席は、基本的には「焼火間(焚火間)」ですが、治世の功績を認められ、布衣を許されると伺候席が「躑躅間」になります。『代官の日常生活』によると、代官に就任しての目標は、まず布衣になることだそうです。また、郡代については、『吏徴』によると布衣で、伺候席が「躑躅間」となっていますが、『吏徴別録』では、代官と同じく伺候席が「焼火間」となっています。 追記部分(武鑑の最初の部分) 大津御代官、河内、大和、丹波、近江、大津御役屋敷詰、同所町御奉行兼帯、 躑躅間布衣 石原清左衛門 三百俵 武蔵、相模、駿河、伊豆、幷島々、屋敷伊豆田方郡韮山、屋敷三島  躑躅間布衣 江川太郎左衛門 百五十俵 武蔵  躑躅間布衣 大熊善太郎 陸奥 陣屋奥州川俣、出張梁川、同小名浜  躑躅間布衣 (*人名なし) 武蔵、相模、江戸廻支配、御役料三百俵 布衣躑躅之間 (*人名なし) 武蔵、下総、 布衣躑躅之間 青山録平 百俵五人フチ 追加で、ご質問の件 後半の「私領・寺社領にても、町奉行支配と両支配に御座候得ば」で、両支配の“両”とは 町奉行とあと一つは何を指しているのでしょうか。 寺社領であれば寺社奉行ですか。 私領が大名領を指しているのであればと考えると、分からなくなりました。 そう考えるのではなく、「町奉行の支配場所と支配場所が重複していますれば、町並屋敷と言います」と理解すればよいのですか 江戸時代には、町並地をずばり定義した幕府の公的な文書はなく、享和元年(1801)の「屋敷改江問合」文書の、屋敷地の定義から「町並地」を考えることになります。結論から言えば、大石学編の、『江戸幕府大事典』にあるように、「町並地とは、もともと農村地帯であったが都市化した地域で、年貢は代官あるいは(*私領・寺社領の)領主に納めるものの、人別は町奉行支配となった場所のことである。」ということになります。 ここにいう「領主」とは、「屋敷改江問合」文書にある「私領寺社領」の「領主」ということです。「寺社領」とは、寺社の境内地・門前地ではなく、領主として知行を認められ、年貢を取り立てる土地を言います。「私領」は大名・旗本の知行地を言います。ですから、「両支配」とは、「町奉行と代官」、「町奉行と大名」、「町奉行と旗本」、「町奉行と寺社」の組み合わせがあったことになります。江戸でも古町は本来の江戸の「町」で、これは地子免許地ですが、以降の町は町でも町並地で、代官支配、私領・寺社領の土地の領主支配はそのままに、人的支配、警察権等の部分が町奉行に移管されます。関八州における関東取締出役と、大名領・旗本領の私領、代官支配との関係と相似します。 例えば巣鴨の地ですが、巣鴨はもともと増上寺領で、後に町屋が中山道沿いに建築を許可され、その後町屋は発展し、巣鴨町上組・中組・下組が*寺社領町屋として町奉行支配地になります。しかし、下地の支配は変わらずそのまま増上寺領で推移します。つまり、巣鴨町上組・中組・下組は町並地として町奉行の人別支配を受けますが、土地は増上寺領として、従来通り領主である増上寺に年貢を納めることになり、町奉行と増上寺の両(属)支配を受けることになります。 本来の江戸の町である古町は、幕府が造成し、*敷地割も幕府が行ったとされ、地子免除の地でした。後発地である町並地を古町のように正格な町にするならば、天領(代官支配地)ならば、地子の免除をすることが必要でしょうし、大名・旗本領に寺社領ならば、*上知して旧領主に代地を宛行い、その上で上地を地子免除にすることが必要となると思います。 私領、寺社領の町屋地を町並地とし、町奉行の一手支配となると、年貢はとれなくなるわけで、実質的にその土地は上知された=減封、取り上げられたことになります。その場合の対応策としては上記のように代地が必要になるわけですが、天保の改革の上知令にみられるように、都市部の上知には、領主の強い抵抗が見られます。ただ、古町での上知はあり、日除け地など都市計画などによる上知と代地があり、代地には旧町名を入れた「○○町代地」のような名称もありました。 しかし、町並地の指定に伴って、上知や代地の宛行が行われた記録はないようで、従来の土地支配が継続し、町奉行との両支配が成立したものと考えられます。代官支配地が多いことも関連するものと思われますが。 町並地への理解が薄いのは、記録類にも表れています。麻布地区は正徳3年に町並地に指定される地が出ます。その内、『江戸東京地名事典』の「麻布龍土町」の項には、「町奉行支配に属し、其地の貢は今に御代官指揮し合て麻布龍土町と号す」とあり、「麻布本村町」の項に、「町奉行、代官の両支配になった。」とあります。これに対して「麻布市兵衛町」「麻布今井町」「麻布御箪笥町」「麻布谷町」の項には、「町奉行の支配となった。」のような記載になっており、この四町も町並地として、町奉行だけでなく代官との両支配となったものと考えられますが、記載はありません。 江戸時代は二六〇余年続きますので、江戸御府内、奉行所支配地の範囲も変化します。幕末の切絵図ですが、ご存知かと思いますが、参考に。 国会図書館のデジタルコレクション 江戸切絵図 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286656?tocOpened=1 *寺社領町屋=門前町町屋・寺社境内借家とは区別されますが、寺社領町屋・門前町町屋・寺社境内借家ともに、町奉行支配になります。 *敷地割も幕府が行った=そのために、間口が狭く、奥行きの長い敷地となったとされます。 *上地=領地・知行地の没収、減封のこと。 平凡社の地名辞典の東京都編の上野町の項目に、「大部分は町方に属する地となっていたが、一部在方支配の地も幕末まで存在した。」とありました。 箇条書き的に書き散らして読みづらい文章になり、申し訳ありません。

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  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.8

NO6で回答した者です。追記を。 Wikiの『代官』の「代官所」の一覧ですが、一応「幕府直轄地の」となっているので、幕府代官所の一覧として記載されている形式ですが、中に大名・旗本の代官所が混じっており、正確ではありません。特に、「世田谷代官屋敷」は、彦根藩領の代官所で、村方騒動の舞台になった地で有名です。また、一覧で「代官所」とされたものについても、ネットで簡単に調べても、陣屋の名称も出てくることになります。 川俣代官所=元禄16年に「川俣陣屋」の名称あり。 http://www.town.kawamata.lg.jp/site/chosei-shisetsu/bunkazai-daikanshoato.html 世田谷代官所=上記のように大名領。 出雲崎代官所=不明 甲府代官所=wikiに、享保9年設置当初は東光寺村の帰命院を「仮陣屋」として発足とあり。 石和代官所=陣屋の名称あり。 http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_isawajinya_yamanasi.html 市川代官所=「御陣屋の門」の名称あり。 http://www.enyo.co.jp/koyukai/wadai/daikannshixyo/daikanshiyo.htm 谷村代官所=wikiに「谷村陣屋」の項目の写真に「陣屋跡の碑」あり。 韮山代官所=陣屋の名称は見つからず。ただ、Wikiの記述の中に、韮山の支配下の「三島」「谷村」「松岡」「島田」に、「陣屋」の名称の記述。 松崎代官所=所在不明。松岡陣屋の誤記か。 黒田家代官屋敷=旗本知行所 五条代官所=Wikiの記述の中に、「旧陣屋の案内板」の記載あり。       司馬遼太郎の小説に、『五条陣屋』あり。 http://yogokun.my.coocan.jp/nara/gojousi01.htm 交野代官所=旗本知行所 生野代官所=「生野陣屋跡案内板」あり。 http://www.siromegu.com/castle/hyogo/ikunojinya/ikunojinya.htm 久美浜代官所=「久美浜陣屋」の標記あり。 https://cmeg.jp/w/castles/5349 「陣屋門」「陣屋橋」「陣屋町筋」の名称あり。 http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_kumihamadaikan_kyoto.html 大森代官所=地図に、「代官所跡」の前に、「向陣屋跡」の表記あり。 http://www.sekisyu-kawara.jp/iwamiginzan/machizukuri/index.html 倉敷代官所=Wikiの『倉敷支配所』の中に、「倉敷陣屋図」の表記あり。 「倉敷陣屋」の表記あり。 http://www.geocities.jp/shanehsmt_tabi3/Travel/Japan/Jinyameguri/KurashikiJinya.html ネットで簡単に調べた結果では、「○○陣屋」と記載された場所についても、「出雲崎代官所」と「韮山代官所」以外は、「陣屋」の名称の何らかな痕跡が残っているようです。 「○○陣屋」と記載されている場所については、調べていません。まあ、やっつけ仕事なので、ほんの参考まで。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 質問で示したWiki「代官」記載の一覧表には、おかしな箇所がいくつかあることに気づいていましたが、「代官陣屋」という用語に惹かれて質問したのが始まりです。 質問したお陰で、武鑑には代官の居場所が細かに記載されていることが分かりました。 代官の居場所を「陣屋・本陣屋・出張陣屋」と分けている事実も知りました。 代官所という用語は武鑑では用いられていないようですが、「役所」「住居」「屋敷」などいろんな呼び方があったという事実も知りましたので、満足しています。 世田谷代官屋敷については、『世田谷代官が見た幕末の江戸 日記が語るもう一つの維新』(角川SSC新書新書)を読んで知っていました。 日記には、妻は夫を「旦那、夕方駕篭にて御帰り」とあり、“旦那”と呼んでいたのか、とメモしています。 また「文久2年2月23日、余市は明け八ツ半頃に桜田屋敷へ向かう。」とあり、時刻の呼び方の事例としてメモしています。 代官所・陣屋に関しての疑問は尽きませんが、質問した疑問についてはよく分かりましたので、近く締切りたいと思います。 懇切丁寧なご教示に感謝申し上げます。

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  • fumkum
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回答No.7

お礼をありがとうございます。NO6で回答した者です。 私の例にあげた武鑑ですが、『古事類苑 官位部三』収録のものです。 韮山、生野については、代官所の名称の方が一般的だと思いますが、両所共に戦国時代からの城跡を用いた地ですので、構造的には陣屋ということになると思います。 『代官の日常生活』を読んでいたら、馬喰町の御用屋敷について、史料的には「三分役所」との記述がありました。 代官所について個人的な意見ですが、代官所というくくりがあって、農村部にあるものは「陣屋」、都市部にあるものは「役所」・「役宅」が基本で、「代官所」と「陣屋」に違いはないと思います。「陣屋」、「役所」・「役宅」ともに「代官所」であるということだと思います。違いがあるとすれば、「陣屋」と「役所」・「役宅」の違いで、これも「陣屋」の中に「役所」・「役宅」があるので、農村部で敷地が広くとれ、諸施設がある陣屋と、都市部で敷地が取れず、基本施設である政庁と住居(全てではない)などだけの「役所」・「役宅」の違いではないかと思います。 ただ、「陣屋」は無城大名から旗本、大藩の家老などの知行所、「役所」・「役宅」は町奉行所・遠国奉行所をはじめ多種あるわけで、区別をする意味では「代官所」も使われるのではないでしょうか。ですから、当時の公文書にも、「代官所陣屋」・「代官役所」など、「代官(所)」のついた名称があるのだと思います。 ところで、前回の回答の時に、失礼な質問をしましたが、これは「町並地」「年貢町屋」に関することです。解決のついた項目ではあるのですが、気になったので。 〔的例問答〕町屋舗抱屋敷之譯之事 享和元酉年六月屋敷改江問合 ‐略‐ 一町屋敷と申候は、町奉行一手之支配場所を、町屋敷と唱申候、 一町並屋敷と申候は、町奉行と御代官両支配之場所を、町並屋敷と唱申候、尤御代官支配ニも限不レ申、私領寺社領ニ而も、町奉行支配と両支配ニ御座候得ば、町並屋敷と唱申候、 ・書き下し文 町屋敷、抱屋敷の訳の事 享和元酉年六月、屋敷改え(へ)問い合わせ ‐略‐ 一町屋敷と申し候は、町奉行(の)一手の支配の場所を、町屋敷と唱(とな)え申し候 一町並屋敷と申し候は、町奉行と御代官(の)両支配の場所を、町並屋敷と唱え申し候、 尤(もっと)も御代官支配にも限り申さず、私領・寺社領にても、町奉行支配と両支配に御座候得ば、町並屋敷と唱え申し候、 ・訳文 町屋敷、抱屋敷と区別する訳(理由)の事 享保元年酉の年六月 (担当の)屋敷改に問い合わせ 一町屋敷と申しますのは、町奉行の一手の支配の場所を、町屋敷と言います(規定しています)。 一町並屋敷と申しますのは、町奉行と御代官の両方の支配を受ける場所を、町並屋敷言います。もっとも、それは御代官支配の場所だけではなく、私領(大名・旗本領)や寺社領であっても、町奉行の支配場所と支配場所が重複していますれば、町並屋敷と言います(規定しています)。 解説 大石学編の『江戸幕府大事典』の「武家屋敷」の項に、次のようにあります。 「(*大名・旗本などの武家)買得屋敷には、町人地の町屋敷、町並地の町並屋敷、郊外の抱屋敷があった。町並地とは、もともと農村地帯であったが都市化した地域で、年貢は代官あるいは(*私領・寺社領の)領主に納めるものの、人別は町奉行支配となった場所のことである。抱屋敷は、代官支配地のほか、寺社領や旗本領に取得されたものである。これらの屋敷は購入した大名なり旗本が領主に年貢を納める必要があった。」 以上のような説明がされています。町並地の「並」は、「同じように」の意味で、「町並地」とは「町」と同様に扱うが、年貢はとる土地という意味です。この前提には、「町」は「地子(銀)」という年貢を免除されていることがあります。 「町並地」は、江戸では人別支配が町奉行所、都市の支配は、代官・領主の両(属)支配を受ける土地ということになります。 長くなりますが、 前段 村の村高・*高請地についてですが、検地の時に農地だけでなく屋敷地も石盛し、検地帳に記載します。農地と屋敷地の石高合計で、村全体で村高を定めます。ですから、屋敷地にも年貢はかかります。 *高請地=検地帳に登録され、年貢を課される田畑・屋敷地をいう。本田畑ともいう。「全国歴史教育研究協議会 編 日本史B用語集」 町屋 町屋は、町にある建物という意味ではありません。商人・職人が住む地域を言う場合と、町屋造と言った方がわかりやすいと思いますが、建物の形式を言う場合があります。町屋造の場合、一般的には道に面した表長屋で、間口が2間で奥行が4間半や、間口が3間で奥行きが4間半の貸家が3~5軒が連なり、1階が店舗、2階もしくは中2階が住戸である建物を町屋(造)と言います。中世の京に始まったとも言われ、表長屋とも言われます。なお、店舗のみの長屋形式の建物も、商家などが建てられている建物・場所も町屋と言います。 町屋は商人・職人が住む地域という意味でも、町屋造という意味でも、町にも村にもあるということです。現在でも使いますが、在郷町という言葉があり、町でなく農村部にある商業地区を表します。 (裏)長屋の起源は中世にあるとされます。中世の豪族屋敷(城砦)のふもとにある下人や隷属民の集落を根小屋(堀之内・館・土居・山下・麓等の呼称あり)と言いますが、根小屋の下人や隷属民のための住居が、9尺2間の長屋の形式であり、近世の裏長屋の基準になったとの説があります。また、根小屋の長屋は、近世の武家屋敷内部の武家長屋(特に屋敷を囲む表長屋)の基準にもなったとされます。 このように、近世の長屋にも裏長屋だけでなく、店舗付きの表長屋、武家屋敷内の武家長屋などの種類があったことになります。 http://www.viva-edo.com/nagaya.html https://blog.goo.ne.jp/attaboy1019/e/4b76b810285cb2427eb1ac5d68f41ede http://www.tcp-ip.or.jp/~ask/history/history14/nagaya/index.html 町並地 別名は「地子町」です。名前でお分かりになると思いますが、*地子という税がかかる土地です。城下町や宿場町にある「町」も本来地子を納める課税地でした。しかし、戦国期に城下に商人・職人を集めるために、地子を免除(当時は免許)します。この始まりは、岐阜城攻略後の信長が、城下の加納の市に、地子免許をしたこととされます。その後、豊臣、徳川と引き継がれ、各大名も追随します。そのため、各地の城下町、主要都市、宿場町に地子免許の町が増えていきます。ただ、全ての町が地子免許ではないようで、大坂も三郷だけが地子免許だったとされます。加賀の金沢には、そのものずばり地子町というくくりがあります。 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/22050/kyuchomei/ichiran/yogo.html *地子=銭または銀で納める(金納)ことが多かったので、地子銭とも呼ばれます。また、地子を年貢と呼ぶ場合があります。 村から町並地 以前巣鴨について調べたことがあり、その時の結論では次のようでした。巣鴨は江戸時代になると中山道が通ります。そうすると中山道の道沿いにある農地で、町屋の建設許可を求める願いが上がります。何度かの不許可の後、町屋建設が許可されます。すると4丁にわたり、両側2丁、片側2丁の町屋に発展します。このようになると、町並地として江戸御府内、町奉行所支配地に組み込まれます。しかし、道中奉行所の街道絵図にも見えますが、町屋は中山道に沿って1重で、町屋の背後には農地・野が広がっています。 「年貢町屋」=年貢を納める町屋のある土地ということです。ただ、幕府の米蔵に直接納めるというのは絵空事で、その土地の領主である代官、*大名、旗本、寺社に納めます。巣鴨は増上寺領だったようですので、増上寺に納めることになります。 なお、上野の場合、周りが無税地の拝領地だったので、区別のために年貢町屋としたのではないかと思います。 *大名=一橋家の所領が町並地にありました。 拝領屋敷=屋敷(地)を将軍から拝領した土地で、町屋を建てることは原則的にはできません。当然年貢はありませんが、拝領地の所有者は将軍・幕府で、返却や場所の移動を命じられることがあります。 拝領町屋=町屋のある、もしくは町屋を建てることが許された土地。大奥の高級女中などが退職金代わりに拝領することも多く、町屋もしくは町屋の土地の店賃・地代が、収入となりました。 なお、拝領地は江戸御府内にだけあるのではなく、その外縁にも存在します。巣鴨の例では、加賀藩の中屋敷が染井に、下屋敷が板橋にありました。 いらざる回答ではあるのですが、気になる問題であったので。 またしばらく数年の海外赴任となりそうなので、OKWAVEには回答できなくなりそうですが、海外から貴兄の質問を見ることを楽しみにしています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 質問文のwiki「代官」に記載の代官所、陣屋、代官陣屋の違いについては、前回のご回答でよく分かりました。 私自身のまとめとして今回のご回答も要点を抜き書きします。 >代官所について個人的な意見ですが、代官所というくくりがあって、農村部にあるものは「陣屋」、都市部にあるものは「役所」・「役宅」が基本で、「代官所」と「陣屋」に違いはないと思います。 >「陣屋」、「役所」・「役宅」ともに「代官所」であるということだと思います。違いがあるとすれば、「陣屋」と「役所」・「役宅」の違いで、これも「陣屋」の中に「役所」・「役宅」があるので、農村部で敷地が広くとれ、諸施設がある陣屋と、都市部で敷地が取れず、基本施設である政庁と住居(全てではない)などだけの「役所」・「役宅」の違いではないかと思います。 「町並地」「年貢町屋」に関しては、2年前に質問した件ですね。 お気に留めて下さって、詳細な解説をありがとうございます。 内容が濃いのでじっくりと読んでみます。 町並屋敷についてですが、お手数をおかけしますが教えてくださいませんか。 <原文> 一町並屋敷と申候は、町奉行と御代官両支配之場所を、町並屋敷と唱申候、尤御代官支配ニも限不レ申、私領寺社領ニ而も、町奉行支配と両支配ニ御座候得ば、町並屋敷と唱申候、 <書き下し文> 一町並屋敷と申し候は、町奉行と御代官(の)両支配の場所を、町並屋敷と唱え申し候、 尤(もっと)も御代官支配にも限り申さず、私領・寺社領にても、町奉行支配と両支配に御座候得ば、町並屋敷と唱え申し候、 後半の「私領・寺社領にても、町奉行支配と両支配に御座候得ば」で、両支配の“両”とは 町奉行とあと一つは何を指しているのでしょうか。 寺社領であれば寺社奉行ですか。 私領が大名領を指しているのであればと考えると、分からなくなりました。 そう考えるのではなく、「町奉行の支配場所と支配場所が重複していますれば、町並屋敷と言います」と理解すればよいのですか。 よろしくお願いします。

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  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (963/1537)
回答No.5

日本国語大辞典(小学館)の「代官所」の項は、第1に「代官の支配する領地」という意味を紹介するとともに、2番目に「代官がその事務をとる役所。代官役所。陣屋」という意味を紹介し、下記のような江戸時代の用例を載せており、役所をさすことばとしても実際に使われていたことがわかります。 *浅野家文書‐(元和元年)〔1615〕閏六月二日・浅野忠吉熊野一揆成敗申付覚書(大日本古文書・一二一)「散散慮外を申し、其上代官所へ罷り越し、代官を突き申し候所を」 *御当家令条‐一七・同人馬可指出国々御触覚・天和二年〔1682〕六月一日「其場所之御代官所より可相触候間」 *浮世草子・新色五巻書〔1698〕三・五「柴大こにてたたきふせなはをかけ、大(ダイ)くはんじょへうったへ、此川ばたによしなきすがた」 *浄瑠璃・冥途の飛脚〔1711頃〕下「代官所(ダイクンショ)の捕手の衆」 さて、代官の役所をさすことばとして使われる場合の代官所と陣屋の違いについてですが、同じ場所が代官所とも陣屋ともいわれている例もあり、主にどう呼ばれたかでそれぞれ名称の違いがあっても、意味の違いがあって使い分けられていたわけではなかったのではないかと思います。 たとえば、ウィキペディアに出ている韮山代官所ですが、『甲子夜話』続篇巻之六十四に「或人の示せる書面」として引用されている文書には「太郎左衛門儀は豆州韮山陣屋に罷在候に付…」とあり、陣屋と呼ばれている一方、同じ『甲子夜話』三篇巻之二十一「韮山の御代官所は、古昔のまゝの造りにて……或とき御代官所の廻りの長舎失火す」と代官所とも呼ばれています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 代官所とは、「代官がその事務をとる役所。代官役所。陣屋」という意味でもある、ということについては、事例を示して下さったので、よく分かりました。 「御当家令条」をヒントに探してみますと、代官所が役所である例は多数見つかりました。 代官所と陣屋の違いについては、 「同じ場所が代官所とも陣屋ともいわれている例もあり、主にどう呼ばれたかでそれぞれ名称の違いがあっても、意味の違いがあって使い分けられていたわけではなかったのではないか」と言うことですね。 私もそんな気がしてきました。 しかし、何かにつけて形式主義の幕府のことですから、何か線引きがあったのではと、もう少し調べてみます。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3033)
回答No.4

代官所というのは代官のつかう役所という意味です。 韮山代官所の場合、言ってみれば韮山、出先機関の三島、谷村、松岡、荒川、当主の江川江戸屋敷全てが代官所です。 地名をつけて韮山陣屋と呼べば、韮山の役所、三島陣屋と呼べば三島の韮山代官出張所になります。 おそらくwikipediaの分類は実際にどう呼ばれてたかにすぎないでしょう。 代官陣屋という表現は初めて知りましたが、おそらく寒河江が最上領鳥居預かりだったときの(名主の?)陣屋と寒河江代官が置いた陣屋の場所が違うため、新しく出来た陣屋を代官陣屋と呼んだのではと想像します。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >おそらくwikipediaの分類は実際にどう呼ばれてたかにすぎないでしょう。 そういうことなのね! なるほど、なるほど、合点、合点! 明確な基準があって、これは陣屋、こちらは代官所としたのではなく、昔からの言い慣わしで、自然発生的に「陣屋」と呼ばれたり「代官役所」と呼ばれたりしていたのが、徐々に呼び名が固まってきた結果にすぎない。 ネットで調べてみますと「代官陣屋」もあちこちにあります。 大名の陣屋や旗本の陣屋に対して幕府代官が執務する陣屋を「代官陣屋」と呼んでいるようです。 明治以降の用語かも知れません。

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.3

 先日回答した方ではないみたい(同じ?)なのでもう一度同じ事を書くのですが、  手元の、時代考証事典(新人物往来社刊 稲垣史生著 3,800円)130ページ「間違いやすい代官所と陣屋」によると、 > 小説や映画では、ふつう代官のいる建物を代官所としている。 > が、『県地要略』によれば、代官の支配地、すなわち支配領域のことを >「代官所」というとある。 > 建物の方は「陣屋」、または「人屋敷」「役宅」とも言った。 > いかめしく「陣屋というのは、戦国時代からの遺称である。 > 陣屋は代官の住居とオフィスから成り、オフィスのみことをふつう「役所」 > といった。  <以下略>  とあります。  つまり、代官所とは「代官の支配する土地(領域)」、陣屋とは「代官所の住居兼オフィス」のことです。  代官所という場合の「所」は、当時の「役所」やこん日「市役所」とかいう場合の「所」とは意味が違うのです。  ま、誰が書いたかわからないウィキの稿を信じるか、稲垣さんの事典を信じるかは、質問した人の自由ですが、質問した人はみんなウィキのほうを信じるみたいで、紹介する私にははなはだ遺憾です。稲垣さんは、よほど信用がないらしい(T_T)。  ちなみに「続・時代考証事典」は6,796円(税別)です。本人と新人物往来社は内容・製本に自信を持ってのこの価格、、、なんでしょうに。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 Wikiは、質問のネタに使っているだけです。 「小説や映画では、ふつう代官のいる建物を代官所としている。 が、『県地要略』によれば、代官の支配地、すなわち支配領域のことを「代官所」というとある。」 正にこのとおりです。 古文書を見ていますと例えば、「○○(代官の名前)代官所 上州吾妻郡△△村」のように書いてあります。 ところが、幕末史には「○○(地名)代官所襲撃」という事件がしょっちゅう出てきます。 生野、五条、倉敷、大森代官所などです。 これらは、代官所という役所を襲撃していますね。 襲撃当時「代官所」という名の役所があったと推定できます。 そこで、役所を「代官所」とした史料を探しています。 今までのところ、「代官所」は、論文にはいっぱい出てきますが、私が見た古文書では「御役所」または「○○(代官の名前)役所」が多いです。 「陣屋は代官の住居とオフィスから成り、オフィスのみことをふつう「役所」といった。」 これは、旗本や小禄大名の「陣屋」「役所」については当てはまると思います。 しかし、幕府代官の支配所の石高は、小禄大名以上で5万石を越す場合もあります。 そして、質問は、 幕府は、天領統治のために代官または郡代を天領に派遣していますが、任地の仕事場が代官所と呼ばれている場合と陣屋と呼ばれている場合があります。 この場合の「陣屋」と「代官所」にはどんな違いがあるのか、お聞きしています。

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  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2197/4866)
回答No.2

>代官所と陣屋の違いは何ですか。 色んな立場(主眼)で考えると、色々な考え方があります。 が、単純に言うと次の通り。 代官所は、領主(幕府・藩主・旗本)が領地管理の為に派遣した役人が勤める役宅。 領主は現地に赴任しないで、任命した代官に支配を委任します。 陣屋は、領主(藩主・旗本)が直接領地管理・支配をしている役宅。 江戸時代の藩主(1万石以上)は、地位によって城を持つことが出来ませんでした。 ※例外的に、喜連川藩は5000石で藩主扱い。^^; 城を持つ事が許されなかった藩は、陣屋を構えます。 旗本の場合は、そもそも城とは無関係。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 質問がピンボケのせいかも知れませんが、旗本や大名領ではなく、幕府直轄地(天領)についての質問です。 幕府は、天領統治のために代官または郡代を天領に派遣していますが、任地の仕事場が代官所と呼ばれている場合と陣屋と呼ばれている場合があります。 何が違うのでしょうか。 代官の任務は同じようなものだと思いますが、例えば飛騨国:高山陣屋、三河国:赤坂陣屋に対して、大和国:五條代官所 但馬国:生野代官所です。

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  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2762)
回答No.1

陣屋多いのは、道路一つ一つに”見えない関所風を、行きかう人に分からせないように、しただけでしょう。 それは、他国(当時では、藩)関連者?かどうか、言葉・そぶり・行商人・・・ 数の多い、少ないが変とかでなくて、実は常時他国(藩)の、見張りの目があると 言う事でしょう。 代官 領主(大名)が定期的な参勤交代で、不在な場合に臨時代理的な武士代表。    戦闘要員の常駐屋敷(プロフェショナル) 陣屋 現代で、言えば”非戦闘要員が事務専門の総合庁舎みたいなもの。    戦闘要員の、いてもいないような屋敷(アマチュア) つまり、テレビドラマ等では、丁寧に”何々、◇◇◇大々的な看板を出す必要 等は、ないでしょうからアルとしても、普通の武家屋敷程度でしょう。 つまり、地元の方々が、住んでいれば暗黙了解的なものでしょう。・・・

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 質問がピンボケのせいかも知れませんが、旗本や大名領ではなく、幕府直轄地(天領)についての質問です。

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  • 「衣の袖(裾?)は、ほころびにけり」の歌の上の句は?

    源義家(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6 が、前九年の役(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9 で、安倍氏(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%B0%8F_%28%E5%A5%A5%E5%B7%9E%29 と衣川の戦いで対峙した際、安倍頼時の次男・安倍貞任(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB と和歌の問答歌をしたとされる逸話があるそうです(他には三男・安倍宗任(↓) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AE%97%E4%BB%BB や五男・安倍正任との説もあり)。 その時、義家はまず下の句として、「衣の袖(裾?)は、ほころびにけり」と詠んだそうです。つまりもはや敗色濃厚の安倍氏の「滅び」と「衣の袖(裾?)のほころび」を掛けているわけです。これに答える形で安倍貞任(?)が上の句を詠んだそうでなのですが、それが何かご存知の方、ぜひ教えて下さい。 また、貞任は斬首されますが、この句のおかげか、宗任は最初伊予に、後に筑前に流され、また、正任も肥後に流され、命は助けられます。 なお、この度官房長官に就任された安倍晋三氏は、安倍宗任の末裔だそうです(↓)。 http://kajika.net/furusawa/010818_1.htm