喧嘩をするのは男の本能に於いては正しい?

このQ&Aのポイント
  • 喧嘩をするのは男の本能においては正しいか検討します。
  • 喧嘩をすることは人間の本能に忠実だと考えられるが、法律や憲法によって抑制されるべきだとも言える。
  • 喧嘩をすることで序列をつくり、自己主張をする人も存在するが、その行為は社会的な問題を引き起こす可能性もある。
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喧嘩をするのは男の本能に於いては正しい?

私は怒った事が無い事は無かったです。 又人をからかったり いじった事もあり、今と成っては悪かったと反省する事も あります。 さて、私の小学 中学時代(昭和末期頃)に同級生で常に喧嘩をしていないと いけないという人種の者が居りました。 彼は、クラスメートや近所の者に「俺は強い」という事を示す為に、 大した理由もなく喧嘩を売り、相手を制して、相手が諦める事で、 「俺は強くなった」という感じでした。 彼はクラスや部活動でも、「俺に従え」と威圧、恫喝 暴力を行っておりました。 が、彼は同じ様なタイプの先輩からのしごき 暴力 理不尽さに耐え、 先輩から「根性のある奴」と言われ、学校部活内では地位を確保したという事です。 だから、これらの人は 1 喧嘩して序列をつくる。 2 そこで上の人に認めてもらえる。 3 そうすると、学校(組織)内では多少横暴に振舞っても良い という感じでした。 だから、彼は(運動神経抜群だった)部活動(彼は野球部)で 「諦めずにやる(勿論ルールは守るが) 喧嘩する延長で部活に励む」という感じでした。 そして、部内やクラスで彼の横暴さが嫌という声に彼は 「俺は他校の生徒の暴力から同級生を守ってやっている」と顧問や担任にいったそうです。 私も今まで喧嘩したことは無い事は無いですが? 当時から別に自分の領分を守れたらそれはそれで良いと思っておりました。 が、彼は私に「食うか食われるかの人生でないのは甘えている」と言われました。 日本は法律や憲法があり守られておりますが、 人間の本能の所で考えると彼のような生き方が本能に忠実なのでしょうか? (その後彼は数回家庭内暴力と傷害で逮捕されたらしいですが)

noname#250543
noname#250543

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10467/32911)
回答No.1

それは本能に忠実とかどうとかより、そういう環境にあるかどうかって問題だと思いますよ。 もし質問者さんがアフガニスタンで生きなければいけない、となったとき、質問者さんはAK銃を持ちますか。持つか持たないかは個人の自由ですが、持っていないと持っている人間にいつ殺されるか分かりません。そういう社会に生きていたら、実はただ持っているだけで撃ち方を知らなかったとしても護身のために持つということはあるのではないでしょうか。そういう社会に置かれたら、そういう生き方をするしかないでしょう。 確かに日本は法治国家でその治安はかなり高いレベルにあります。しかし、日本の警察も日々の個人間のケンカにまで介入できるほど暇でもありません。暴力を振るえば必ず逮捕されるわけでもありません。実際、子供が死ぬまで追い込んでいた夫婦とかいましたよね。 彼は彼なりにそういう暴力的な環境に置かれていたということなのではないでしょうか。そういう人の多くは家庭は父親が暴力で家庭を支配するような家だったりするのですよ。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました 確かに日本は法治国家でその治安はかなり高いレベルにあります その通り、発展途上国に行けば自分の身は自分で守らなければという事に成ります、正当防衛だけではなく、食料も早い者勝ちでとらないとありつけないという環境ならそうなっていたのかもと考えます。 彼は彼なりにそういう暴力的な環境に置かれていたということなのではないでしょうか。そういう人の多くは家庭は父親が暴力で家庭を支配するような家だったりするのですよ。 一概には云えませんが、幼稚園 小学 中学と乱暴な同級生の親はこの様なタイプが多かったです。 日本では少ない人種ですが相手を恫喝しないと自己を保っておられないと いう感覚の人種なんだと思います。

その他の回答 (1)

  • Osric
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回答No.2

今の日本の社会では、必要ない考え方ですね。人間の本能と言いますが、人の上にたつのであれば、男気は必要かもしれません、暴力は不用です。家庭内暴力で逮捕というのも、彼の底が透けて見えているのではないでしょうか。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 人の上にたつのであれば、男気は必要かもしれません、 それはそうだと思います 義理や気遣い思いやり 統率力等もあると思います。 家庭内暴力で逮捕というのも、彼の底が透けて見えている 確かに暴力や罵声の恫喝はその時は支配した気に成るが、 法治国家では崩れた時に底が見えると思います。

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