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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:確からしいことを議論する価値は?)

確からしいことを議論する価値は?

このQ&Aのポイント
  • 哲学の議論は正しいか、間違っているか白黒論が多いです。しかし世の中に正しいと言えることなんてほとんどありません。
  • こうした中で間違いなく正しいことを議論するのにどれだけ価値があるのか疑問です。正しいことを求めたところで不可能なことが多いからです。
  • だとすれば、どちらがより正しい可能性が高いか、確からしいか議論することに価値があるように思います。

専門家の回答 ( 1 )

回答No.7

こんにちは。 読ませていただきました。 その通りだと思います。 >大概のことは、明らかに間違っているか、正誤不明です。 その通りだと思います。 差し出がましいことを言えば、分析哲学や論理実証主義の着想と同じだと思いました。 ちょっと面白いのでヴィトゲンシュタインの言葉を引用してみます。 「世界は起こっている事の総体である」 " Die Welt ist alles, was der Fall ist." 「起こっている事、すなわち事象とは、諸事態の存立のことである」 " Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten." 「事象の論理像が思想(思考対象)である」 " Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke." 「思想は有意義な命題である」 " Der Gedanke ist der sinnvolle Satz." 「命題は諸要素命題の真理関数である」 " Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsätze." 「真理関数の一般形式は である」 " Die Allgemeine Form der Wahrheitsfunktion ist" 「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」 " Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen." https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 それで興味深いのは、以下の点です。 >「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」 私たちは、議論するという際、言葉のやり取りでもって何ものかについて語り合うのですが、あなたの着想としては、この「沈黙」でもって語り得ることと語り得ないこととを別けて議論しよう、または別けることを議論しようというということだと思います。 では、この「沈黙」とは何でしょうか。 マイケル・ポランニーという人は彼のこの言葉を裏返して、 「私たちは語り得る以上に知ることが出来る」 と語っています。 例えばサッカーで言えば、選手がボールをけった瞬間、どのような放物線を描いてどこに着地するかがわかっているというようなものです。 このことを数値化して計算したとしても膨大であり、ましてや他人に説明することはほぼ不可能で、自ら体得するしかないようなものです。 ヴィトゲンシュタインにしてみれば、これらの知の存在を無視しているわけではないのですが、議論可能な範囲を限定しなければ思想が成立しないと考えたわけです。 ところで、彼は「世界は起こっている事の総体である」と宣言して、「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」と語っているのですが、私たちは語り得ないけれども訓練によって蹴ったボールの着地点を予想できるわけですし、ほかには雲の様子を見て天候を予想できるというように、「起こるであろうこと」・「起こりつつあること」として時間的に予想として直観することが出来るわけです。 議論可能=説明可能=真理関数であることを彼は対象としたわけですが、科学における発見ということまでは説明できないのですし、これを科学に当てはめるとすれば、厳密性ということを説明しているにすぎず、私たちの知は世界を拡張すること、世界を変化あるものとして捉えつづける運動としての知を如何に捉えかということについては「沈黙」しているとみることが出来ます。 あなたのおっしゃっていることを拡張すると、議論の可能性として真理関数として論理計算したうえで、無意味であれば棄却し、有意味であれば「起こるであろうこと」・「起こりつつあること」を含めて議論すればよいということになるのではないでしょうか。 ただ、これとともに、ドイツのハーバーマスや最近のマイケル・サンデルが言うように、真理関数を問題とする形式合理性を基軸とした議論に対して、世界を「生きられている世界」、現象学でいう「生活世界」(Lebens Welt)と捉え、文化的地域的文脈に即したコミュニケーション的合意に即した合意合理性を基軸とする議論とがあるという言い方をしますので、この問題については、まだまだ議論の余地がありそうです。 回答になっていますでしょうか。 以上です。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ですが、言語化困難なテーマのことは想定外でした。人間の感覚にまつわることは議論しにくいですね。大人と子供では思いっきりボールを蹴っても力が違うから、同じ「おもいっきり蹴る」でも個人によってそれが何ニュートンで蹴っているか違うわけで議論が難しいです。もしこれが大砲の砲弾の飛距離なら、議論は可能ですが。 雲をみて天気を予想するのは人工知能で置き換えるのは可能かもしれません。 言語化(あるいは数値化)できないものは議論できない、というのはなるほどと思いました。 私が想定していたのは、死後人間がどうなるか?神は存在するか?という話です。こうした議論をしようとすると「本当のことを知ることはできないので議論は無駄だ」という人がいます。それは違うのではないか、と思ったので質問しました。

吉田 修(@osamucom0409) プロフィール

産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会) 吉田修(株式会社Dream・Giver) ■ご質問者・みなさまへ■ コーチング最新メソッドを使い、自分でできる、気持ちの切り替え方法をご提案しま...

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