哲学を退化させたものとは

このQ&Aのポイント
  • 哲学の進歩発展を阻害し、退化させるものは存在するのか。
  • 認識論と呼ばれる問いかけは、何の価値も生み出さない不毛なものである。
  • これらの問いかけが長年にわたり哲学の進歩発展を阻害し、哲学の退化を引き起こした。
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哲学を退化させたものとは

  問う人: 哲学の進歩発展を阻害するものはあるのか。 「人の道」: 哲学の進歩発展を阻害し、退化させるものは昔からある。 それは次のよーな問いの中に潜んでおる。  自己は存在するか、  心は存在するか、  霊魂は存在するか、  世界は存在するか、     ・     ・     ・ これらは認識論とゆーて、如何なる価値も生み出さない不毛の問いであることが昔から知れ渡っておる。 しかし哲学と称してこれらの問いかけを続ける輩が今だに大勢おるが、全くの役立たずである。 また漬かると必ずこの認識論に拘ることも判っておる。 これらが長年にわたり哲学の進歩発展を阻害し、哲学を退化させた。 哲学における病巣とゆーてえー。 問う人: 認識論が何の価値も生まない不毛の問いであり、哲学を退化させた張本人ゆーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。  

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

認識論とは、「認識とは何か」をベースにした思索であり、 存在や自己、霊魂を主たる対象とした思索のことではありません。 それらの存在の本質を掘り下げる努力は、広く哲学や科学で 行なわれてきましたが、それらをひとくくりに「認識論」にして、 「何も生み出さない」というのは、何を指しているのか分かりません。 (個人的に理解できないのと無意味というのを混同していませんか?) もちろん、昔は主役となって、存在や生命、心を扱っていた哲学の 役割が、科学に移行して、哲学の重要性が減ったというのであれば、 分かりますが、そうした志向を否定し、日常的な曖昧な概念を弄ぶ 文学的創作に逃避するのは、自己の惰性を押し通す思考停止と 言わざるを得ません。 (物理学や論理学は難しいが、それは単なる日常の延長ではなく そこから全く新しい捉え方が生まれ、世界が再構築され得る)

g3452sgp
質問者

お礼

  認識の問題はもー既に片付いています。 デカルトは「我思う、故に我あり」とゆー名言を残し、認識の問題に終止符を打ったのです。 認識の問題は、それ以上考えたところでデカルトが到達した悟りを超えることはない。 デカルトは認識の問題に拘ったところで、そこからは価値は生まれないとゆーことを証明したのです。  

その他の回答 (6)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.7

「哲学に真理を探求する精神が備わっていれば  他のものに浸食されたりはしないのではないかと思うが」   ↑ 哲学は真理を探究するのでしょうが、科学も 真理を探究します。 そして、科学は哲学と異なり、何と言っても 実証して来ました。 言葉遊びのような哲学が科学に浸食されるのは 当然だと思います。

回答No.6

引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98%E8%AB%96 ************************************************************************ 認識論で扱われる問いには次のようなものがある。 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。 人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。 ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。 人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。 ************************************************************************ 「人の道」のいう認識論とは異なる。したがって,如何なる価値も生み出さない不毛の問いであり、哲学を退化させた張本人ゆーのは,「人の道」の認識論である。認識論ではない。

回答No.5

 哲学の課題を忘却し、欧米的知的物象・物証科学で事が足りたと思うことになったからですね。  或いはなんとか宗教とかで、間に合わせるようになったのでしょう。  認識の問題としていくつか掲げられた事項を、本当の哲学知性で求めに求めることをやめていませんか。  西欧に育った哲学の歩みでは結論と成果だけしか伝わってきませんが、それは単なる知性に始まりそして歩んできたのでしょうか?  それでしたら、欧米の哲学は死にました。

g3452sgp
質問者

お礼

  認識の問題はもー既に片付いています。 デカルトは「我思う、故に我あり」とゆー名言を残し、認識の問題に終止符を打ったのです。 認識の問題は、それ以上考えたところでデカルトが到達した悟りを超えることはない。 デカルトは認識の問題に拘ったところで、そこからは価値は生まれないとゆーことを証明したのです。 わしはデカルトの言葉をそのよーに捉えています。 例えば、今わしが食っているこのおにぎりは果たして存在するのであろーかとか考えたところでそれが何になろー。 あるいは、今おにぎりを食っているこのわしは果たして存在するのであろーかとか考えたとしてそれから何が生まれる。 そのよーな考えからは価値あるものは何も生まれないと断言できるし、そんなことは既に歴史によって証明済みであります。      

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.3

一つは主張のみの哲学が蔓延っているということでしょう。人の道さんもその一人のようにみられます。

g3452sgp
質問者

お礼

  あ~、   

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

哲学の対象は、神と自然と人間でしょう。 神については宗教に、自然と人間については 科学によって、哲学の分野は浸食されてきました。 そして、宗教も科学に浸食されつつあります。 従って、哲学を退化させたのは科学では 無いでしょうか。

g3452sgp
質問者

お礼

  何事につけ、他のもののせいにしたり、他人のせいにしたりするのは簡単なことではあるまいか。 哲学に真理を探求する精神が備わっていれば他のものに浸食されたりはしないのではないかと思うが。  

noname#176957
noname#176957
回答No.1

御釈迦様は「十難無記」といって、それらを論ずることを退けていらっしゃいます。 人の道様は、ひょっとして御釈迦様の生まれ変わりでございますね?

g3452sgp
質問者

お礼

  わしは御釈迦様の生まれ変わりではない。 しかしわしは世の人々に「人の道」を歩んでもらいたいと願っておる。 言わばソクラテスの生まれ変わりとゆーか、・・・・・  

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