優しい人とは一人の時に分かる

このQ&Aのポイント
  • 人間の本当の優しさとは、誰も見ていない“一人の時”に分かると思うのです。
  • その人が本当に優しいかどうかは、本人にしか分からない。
  • 人前で見せる優しさは真の優しさではない、と思ってしまいます。
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  • 締切済み

本当に優しい人

人間の本当の優しさとは、誰も見ていない“一人の時”に分かると思うのですが、どう思いますか? つまり、その人が本当に優しいかどうかは、本人にしか分からない。ひねくれた考えですが、人前で見せる優しさは真の優しさではない、と思ってしまいます。親切で人当たりの良い犯罪者だっていますし…極端でしょうか?

みんなの回答

  • sakura-333
  • ベストアンサー率10% (934/8796)
回答No.13

一人の時というか正に本人にしかわからないというか・・ ヒドい行動に対する聞こえのいい理由付けで言い逃れする人もいますしね。 優しさの基準は人それぞれなので、親切で人当たりの良い犯罪者を周囲はどこで判断していたのかって感じですよね。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。最近の事件もそうですよね。人間って怖いです。

  • e-toshi54
  • ベストアンサー率22% (728/3265)
回答No.12

晩年に相当する男です。 「優しい人」という言葉に思うところがあります。つまり、物心ついた頃から「自分は優しい人間ではないな」と思いながら現在に至っています。 祖父が亡くなった中学生の時にも格段の感慨もなく、教師からの同情もよくわかりませんでした。 直近では、若い頃恋人同士だった女性が亡くなったことを聞きましたが、若い頃の懐かしさは感じましたが、悲哀とか同情は殆ど感じませんでした。 さて、と言うことで自分が優しい人間でないのは再認識していますが、最近思うのは、他の人も自分自身に深く関与しない人間に対しては自分と同じような感慨しか抱かないのではないかと言う疑問です。 そしてこの疑問は死ぬまで、或いは死んでも判らないことだろうなと思うようになりました。 もう一つ逸話を聞いて下さい。ある日年上の方を車に乗せる機会がり、降りる時にドアを開けるのが早すぎて危険な気がしたので、敢えて理解しやすくと思い少し強めの口調で注意を促したのですが、その人は気分を害したようでした。 気分を害しても今後少しでも危険が避けられればよしとしようと思っています。 幾つになっても世間の理解、対応は難しいものです。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。気分を害された方のことを思っての注意なので、やはりそれも「優しさ」なのかなと思います。為になるお話、ありがとうございます。

  • mdr9618
  • ベストアンサー率16% (27/160)
回答No.11

はじめまして。 自分にとって、いい結果として認識できたときですかね? その時の相手の状況によって対応できる方も、優しい人だと感じる人は多いかもしれませんね。 見せるのではなく感じることが優しさなのではないかと思います。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。見せるのでなく感じる。とても納得できました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10512/33055)
回答No.10

>誰もが使うトイレを誰も見ていない時に綺麗に掃除する それって優しさなのかしら。もしかしたらただ単に綺麗好きだったり潔癖症なだけってことはないですか。「誰かが気持ちよく使ってもらうためではなく、自分が気持ちよく使いたいから掃除しているだけ」かもしれません。 となると、その「優しさ」なるものは「誰かのためにする」ということになりますね。「誰かにウケるためにする」という時点で偽善じゃないかという指摘もできるのではないかなと思います。 >その人が本当に優しいかどうかは、本人にしか分からない 「俺が本当に優しい人であることを、知っているのは俺だけ」っていうのは、ちょいと釈然とはしないところがありますね・笑。きっと質問者さんは私のことを優しくない人だと思うのではないかなと思いますが、その人が本当に優しいかどうかを分かるのが本人だけなら、質問者さんが私のことを優しい人ではないと思っていても、私が自分のことを優しい人だと思っていれば、私は優しい人になるということになってしまうんじゃないかなーと思います。 「優しいかどうかは自分で決めることなのか。誰が決めるのか」 「そもそも優しいことは、本当に価値があることなのかどうか」 ってところからになってしまうでしょうね。 人が見えないところでやる優しさは、偉大なる自己満足に過ぎないと指摘されたらどうすればいいかってのはありますね。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。ちょっと反論できなくて困っています…自己満足に過ぎない…確かにその通りかもしれません。確かに自分で自分を優しい人だと思うのもおかしいですね笑 毎回、的を射た回答をいただけるので、eroero4649様を優しくないなんて思いませんよ!

noname#235049
noname#235049
回答No.9

人間不信な方だと細かく優しさを追求したくなるみたいですよ。 貴方様の意見は一理有ります。 皆様が回答して下さっている様に、、優しさにも多通り有ります。 本当に優しいかどうかって見抜く力が必要ですよね。 悪人そうなお顔立ちでも優しいお人柄な方も沢山おります。 率直に【優しい】と決め付けてしまう事が良くないんだと思います。 けれど、本当に沢山の優しさが存在致します(良い悪いは別としてね)。 *嘘をつく優しさもありません?(悪い事であってもね) *人前であろうと無かろうと、叱る優しさもありません? *見えないところで優しく見せて実は演技をして適当な人もいます *相手に嫌われた言葉を使い、身を引く様な優しさ 本当に優しさを備えた方は、自分を厳しくも出来ます。 追い込んだり、または自分に非が無いのに相手の為に悪者になったりとかね。 それは家族の為だったり、好きな友人・恋人だったり。 ですから見抜く・見極める眼を持つと真の優しさがとてもよく 見える、分かるかもですね。 分りづらい文章で申し訳有りません。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。沢山の優しさの例を挙げて下さり、非常に分かりやすかったです。やはり家族の優しさなど無償の愛というのが本当の優しさなのかもしれませんね。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1255/3431)
回答No.8

質問者さんの考える優しさって、どんなものでしょうか。 親切にした「つもり」が「大きなお世話」にもなるように、やさしさっていうのは自分ではなく、相手がどう感じるかってことが大切だと思います。 以前、電車で席を譲るのは偽善者という言葉を見かけたて驚いたことがあります。 私は電車で席を譲りますが、そんな風に考えたことは一度もなかったですから。 (席を譲ったからといってこれといった得もしないのに、なんのためにわざわざ偽善をする必要があるのかがわかりません) 誰かが見ていたら優しくできないというのなら、それも本当のやさしさとは違うのではありませんか。 誰が見ていようが見ていまいが、いつも同じ。 それこそが大切なんじゃないでしょうか。 そして、それを第三者が「優しい」と思うかどうかって話じゃないかと思いますよ。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。第三者がどう思うかどうか…優しさは時に余計なお世話になる…とても納得できました。

回答No.6

まず、「優しさ」という能力の土台には、「嘘をつく」という能力が必要になります。 人間の子供は、罪のない小さな嘘をつきますよね。嘘は子供達に楽しみを与え、想像をかき立て、脳を育てます。そして、脳が成熟するにつれ、他人が何を考えているかを予測したり、思いやったりする能力を構築する助けになるのです。 人間は嘘をついたり、壮大な夢を見たりしないと、他人に共感する心は育たないのです。人間の脳が大きくなった理由がここにあります。 どのような行為が「優しい」行為になるのか、他人の考えを想像しなければならない。この「想像」という部分が「作為的な嘘」になります。まだ起こっていない出来事ですからね。 他人と接する時、殆どの人間は嘘を前提に接しています。自分の思った本当のことだけを言う人間は、人間関係があっという間に壊れてしまう。また、社会システムも嘘を前提に作られています。一万円札の原価は数十円です。一万円の価値は無いのです。皆が信じられる合理的な嘘を前提に社会システムは作られているのです。 現代の人間が、社会に出て他人と関係を結ぶとき、むしろ嘘をつかなければならないのです。よって、貴方が考えるように、人前で見せる優しさは全て嘘が前提になるんです。人間はひとりの時間になってようやく嘘をつかなくて済むんですね。 貴方が産まれる前から、この社会はずっとそうだった。内側に居たんではそれに中々気が付かないものですね。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。なるほど、優しさは全て嘘なのですね。なんだか人間の真理を垣間見た気がします。ありがとうございました。

  • pipipi911
  • ベストアンサー率22% (1029/4602)
回答No.5

公立図書館等で 夏目漱石さんの書簡集を読んでみれば 人間の優しさが解かる筈です。 Ciao.

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。読んでみますね!

  • marisuka
  • ベストアンサー率38% (638/1650)
回答No.4

 では、質問者様の言う「真の優しさ」とは、誰に向かってのものなのですか?  誰も見ていない一人の時って、誰に対して優しくしているんですか?  その優しさを受け取った人にとっては、それはまぎれもなく「やさしさ」に他ならないのではないですか。それが永続的かどうかはわかりませんよ。特定の個人に向かうものかどうかもわかりませんし、万人に対してかどうかも。  しかし、とりあえずなんらかの優しさを与えることができていれば、それは優しさだ、ということでいいのでは? その人が永続的に万人に優しさを与え続けられる人であるかどうかは、いつまでたっても不明ですから。  こういう議論をするには、まず「優しさ」「真の優しさ」を定義してからですね。でないと、私も含めてみんなが勝手な思いを言うだけです。

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。例えば、誰もが使うトイレを誰も見ていない時に綺麗に掃除する、とか。「真の優しさ」は周りによく思われようとしない、心のままの優しさだと、私は思います。私はその点、まだまだです。いいことをしたら「私っていい人」と驕った考えを持ってしまいますので…

  • ppu8989
  • ベストアンサー率26% (105/390)
回答No.3

例えば震災などで公言せず多額の寄付をしたり、母親が子に与える無償の愛情などは本当の優しさに近いのかなと思います でも深層で自分は本当に優しい人なんだと思いたい、自己欲のために優しくするのかもしれないと思ったりもします また、行う側が真の優しさでなかったとしても、受けた側が救われたりすることもある 受け取る側が優しさだと感じたらそれも真の優しさになるのかなとも思います

sikatani777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。確かにそうですよね。親の愛は誰も見ていない時にも存在します。ただそこに「ママ友にいい親だと思われたい」という思いが少しでもあれば真の優しさではないですね。難しい。

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