日本人が仏教で仏陀やお墓に花を供えるヘンテコな仏教

このQ&Aのポイント
  • 源信が作ったと思われるヘンテコな仏教の礼儀作法
  • 源信の妄想癖から爆発した現代の仏教の礼儀作法
  • 源信の教えを取り入れた理由は金になるから
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日本人が仏教で仏陀やお墓に花を供えるヘンテコな仏教

日本人が仏教で仏陀やお墓に花を供えるヘンテコな仏教の礼儀作法は源信が作ったと思う。 源信は物事を大袈裟に表現する癖があるので何でも八万四千の光とか千光とか十万の光とか途方のない根拠のない大きい数字を言うマイブームがあったのか多用した。 それが現代の仏教の礼儀作法として源信の妄想癖から爆発して書いた書を日本の仏教関係者はこの現代信の教えを取り入れたら儲かると思って取り入れたと推測される。 なんせ源信は高僧ではないのに不自然に何のレベルにも達してない凡人僧の源信の教えを引き継ぐ理由がどこにもないのにわざと残しているのが不自然すぎる。 源信の前の時代の高僧は供え物は意味がなく念仏だけでいい。花など要らない無意味だと説いていた。源信の教えをわざわざ取り入れたた理由が知りたい。 金になるからですよね?

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  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.3

blackkigyou2017 さん、こんばんは。 日本では永承7(1052)年に末法の世が始まるといわれ、人々は不安を阿弥陀如来に救ってもらおうとしたので、浄土教思想が上は貴族から下々まで、流行しました。源信はその教えを広めるために往生要集という極楽に行くマニュアルまで書いたのです。極楽に行きたければ念仏を毎日唱えることで行けるという専修念仏の仏教の教えのわからない庶民に対する教えだから、必ずしもそうではないんですね。ただ、道長に気に入られたのがお金が入る結果になりました。 往生要集 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6%81%E9%9B%86 浄土教 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99 源信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%A1_(%E5%83%A7%E4%BE%B6)

blackkigyou2017
質問者

お礼

ありがとうございます 詳しいですね 博学です

その他の回答 (3)

回答No.4

そもそも 墓前に花を供えるのは元々神道のやり方 それを仏教と混同しちゃったのは日本人の無宗教観のせいです

blackkigyou2017
質問者

お礼

ありがとうございます

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.2

ネパールとかの寺院で市民が持ち寄る花の束が膨大に積みあがっているのを見たことがあります。 現世の功徳を来世に積むためのようです。 お金のない人にご飯をつくって無料で食べさせたりする。これも来世への功徳です。 坊さんが托鉢といって、わずかの米やら小銭をもらいに来るのは、来世への功徳を回収にくる役割を果たしているわけです。おー、おー、と叫びながら京都市内を歩き回る彼らが金もうけでやっているとは思えない。どう考えても使うエネルギーのほうが大きい。 突然なぜ源信と言う名前がでてきて、それ以前にはそんな習慣がなかったと断定された上、日本以外にはないと断定されるのか、私には理解できません。近隣のアジア諸国の寺院を訪ねてごらんなさい。

blackkigyou2017
質問者

お礼

ありがとうございます

  • teki-10
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.1

供え物や花が、解脱や悟りへの道に繋がっているわけではないでしょう。仏道修行にはならない。であるからこれを「教え」とすること事態に疑問があります。 金儲け・・・って、誰が儲かるんでしょうね? 花屋と饅頭屋? そもそも仏教と葬式って無関係だったはずです。葬式仏教になったこと自体が、寺院の金儲けの始まりでしょう。

blackkigyou2017
質問者

お礼

ありがとうございます

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