仏教を捨ててこそ仏陀となれる

このQ&Aのポイント
  • 仏教を捨ててこそ仏陀となれる。仏陀に逆らい無を認めないのが仏教です。捨てたもん勝ち。
  • 仏教徒は信教に非ずただ潜り抜けるのみの道であり、仏道は虚無のみの咲き誇る世界観。
  • 救いを求めるほど救いが無い事を知る絶望が仏道である。反証を正す質問。
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仏教を捨ててこそ仏陀となれる。

仏教を捨ててこそ仏陀となれる。 お釈迦様の語った「無を悟りなさい」の内訳は有無について明白な分別を養いなさいです。 ところが有史以後の仏教教団は無の研究を違いありもしない極楽を夢想しています。 仏陀に逆らい無を認めないのが仏教です。 仏の立ち入りようがない娑婆世界で互助を装い自己満足にふけるのが仏土です。 そんな信仰は捨てたもん勝ちです。 よって仏教を捨ててこそ仏陀となれる。 仏教を捨てきれないくたばりぞこないの生きる屍よりの反論をお待ちいたします。 私の意見としては、 仏教徒は信教に非ずただ潜り抜けるのみの道であり、仏道と言う。 仏道は虚無のみの咲き誇る世界観である。 救いを求めるほど救いが無い事を知る絶望が仏道である。 あくまでも反証を正す質問です。 従うだけ、 飼われるだけの、家畜人ヤプーはお断りです。

noname#117439
noname#117439

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

No.3です >>> No.3お礼欄 何おもって仏が曖昧なままではやはり間違いがあるでしょう。 それから観念研究は書物を読んでも意味の無い瞑想です。 そうすると物の本に書いてある事はせいぜい話半分でしょうね。 <<< 私の思うところと順番が逆になっているので、食い違う部分ですね。 1.物の本に書いてある事はせいぜい話半分 だって、「書く」ことは、「考えていること」の部分でしかない。 したがって 2.観念研究は書物を読んでも意味の無い瞑想になることもあるし、そうならないこともある。 なぜなら、書いてあることの「中」に何かを見いだそうとするのではなく、書いてあることを「透かして」その向こう側へと想いを馳せようとするだろうから。 それゆえ 3.「仏という概念」がどのようなものであれ(たとえ曖昧であっても)、自身の思う(想う)ところがあるゆえ、「仏という概念」の向こう側に、(たとえ虚像であろうとも)自身の思いの投影像を見ることができる。 ヤプーが(人から見た)「ヤプーという概念」足りうるのは、すでに、「人」と「ヤプー」の両方を「知っている」からこそです。 >>> No3.補足欄 それども日本に生まれた限り感化される仏道とはそれ自体は信仰とは言えない。 実に古めかしいお化け屋敷が仏道です。 <<< ヤプーが生まれながらにしてヤプーであり、「人」なる存在を知らず、「人という概念」のみを(半ば真実・半ば虚構の歴史的な)書物で聞きかじったなら、その「概念」の向こう側を希求する(想う・思う)かもしれません。 そういった「希求」が生じた途端、ヤプーからの脱却の方向性に向かっているといえるでしょう。 さらに、ヤプーについて記している書物を(人として)読む側は、ヤプーが抱くであろうそういった「希求(想い・思い)」を想像するからこそ、自身がヤプーでないことの意味を深く考えるのでしょう。 そういったレベルでは、知的・論理的・意味論的な言語活動と表裏一体の関係にある情的な「思い・想い」の重要性を再認識し、「希求する」方へ向かおうという意志、これらが総合的に働くところに人を人たらしめている「何か」があるのだということの再認識に繋がるのかも知れません。 >>>http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。 (柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版) <<< >>>「スッタニパータ」「八つの詩句の章」 779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 <<< ここに虚無を見いだすか、強い意志と思いが求める「何か」を見いだすかに、ヤプーと人を分けるものがあるのかも知れません。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 おっしゃることはよく考えてみます。

noname#117439
質問者

補足

なんだかまだ中途半端ですが、思索を新たに進めるために今回は閉じます。 それからこんな事を考えました。 魂の所在について 「あるのでもなく、ないのでもない」 魂と言う観念上の規定は想定しうる事が示すようにあるとも言いうる。 しかし無常のもとではそれはうかがい知りようも無いと言う意味で無いとも言いうる。 この場合の無の観想は「そんなもんありゃしねー」では無く「それをあらわす言葉を知らない」と言う無でしょう。 とかく「無」が口癖だったのですが聖典の類は丸暗記するだけではそれこそが絶対化であり無常に逆らっています。 信仰を志すのなら「従う姿勢」は改めるべきです。 誰かがかつて言った事に惑わされる限りでは自らの歩む道とは言いませんよ。 仏道が地獄巡りでもいいじゃありませんか。

その他の回答 (6)

  • darumazen
  • ベストアンサー率16% (18/107)
回答No.6

>仏教を捨ててこそ仏陀となれる なるほど。禅の考えですね。 格別変わった考えでもなさそうです。 仏教を語るなら禅も勉強してみてはいかがでしょうか。

noname#117439
質問者

お礼

禅何ぞ学ぶ必要は無いよ。 具体的に仏教こそ仏が理解できない現象の内訳だ。 ありがたがれ。 犬。

noname#117439
質問者

補足

私は犬を飼ったことがあるので、お犬様を義理でいさめます。 なにせとことん犬なもんで。 「無とは尊いものだ」経典にあらはれるこの手の言い方を、「無に過ぎないのでそんなもんあやしねーと、なるのは然るべし」このようにお笑い芸人の言い方に置き替えて読み解くとよろしい。 それでも「そんなもんありゃしねー」が、判らなければ、その馬鹿さ加減は商売にできる。 お笑い芸人としてデビュー可能です。 いい加減にしやがれ。 犬ども。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.5

>お釈迦様の語った「無を悟りなさい」の内訳は有無について明白な分別を養いなさいです。 >仏陀に逆らい無を認めないのが仏教です。  お釈迦様の言うとおり。お釈迦様は正しい!という主張ですね。  従うだけ、飼われるだけの、家畜人ヤプーの質問はお断りです。  と言っておこうwww  しかし、とりあえず質問文の主張は大体同意ではあります。  この質問は「かまってくれ~」と言っているんですね。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

仏教、というと、いろいろかもしれませんが、私も「教団」については、あまり良い印象は持っていません。 こちらでmaggaさんにお薦めいただいた、スマナサーラさんの『怒らないこと』を、ようやく読む機会を得ました。 だから、というわけでもないですが、そもそも「それ」は、「心安らかに生きるための知恵」であって、「「何か」を求めるあまり、怒りを発することを、最も避けなければならないこととする」、というようなものではないでしょうか。 私は、その「無欲」ということを徹底しよう、というような行き方にも、また、良い印象は持っていません。

noname#117439
質問者

お礼

そうですか。

回答No.3

仏教徒ではありませんが。。。 思うに、「捨てる仏教」があれば「拾う仏教」があるのでしょう。 そうして「捨てる」ことも「拾う」ことも、両方ともを「捨てる仏教」もあれば、両方ともを「拾う仏教」もあるのだと思います。 仏教にかかわらず、(あらゆる)宗教という「概念」は、思考にとっての一種のフィルター(サングラス、メガネ、水晶体、視神経、知覚、認識)のようなものなのでしょう。。。 そういった「概念」(得られた果実、知的に所有可能な事物)を介してしか仏教(ないし宗教)の本質に到達できない(と感じている)のであれば、腐っていても腐っていなくても果実を拾い集め続けることに意味を見いだすことになるでしょう。 また、そういった「概念」は、(先があるのかどうかすら定かではないけれど、そうせざるを得ない)想い(ないし思い)という情の途中に、たまたま重ね合わせられている(と感じている)のであれば、拾うことも、捨て去ることも不要になることでしょう。 ただし、お腹が空けば必要な分量だけ拾い、自身にとって腐っているか腐っていないかといった判断にしたがって捨てるか捨てないかを分別するかもしれません。 「知の実」(概念)を拾って味あわなければ、どんな味なのかは分からないのです。腐っているか腐っていないか判断できるとすれば、経験的な知であれ、ア・プリオリな知であれ、「知る」という過程(ないし前提)を経てこそ可能になるのでしょう。 すなわち、はじめから「捨て続ける」だけというのは決してあり得ないということであり、そういったことを「求め続けようと」(拾おうと)しても、既に「味を知っている」からこその希求でしかあり得ないのでしょう。。。 。。。と、このように半ば抽象的に記述している私の言葉(概念)を「捨てる」ことも「拾う」ことも、それぞれの人々の抱く思い・想いの途中にて、それぞれ可能だということなのでしょう。。。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 何おもって仏が曖昧なままではやはり間違いがあるでしょう。 それから観念研究は書物を読んでも意味の無い瞑想です。 そうすると物の本に書いてある事はせいぜい話半分でしょうね。

noname#117439
質問者

補足

お礼の追加です。 信仰を全うすることを阻むことは出来ないしそのつもりもありません。 むしろあくまでも自らの信仰の道を歩むことをお勧めしています。 それども日本に生まれた限り感化される仏道とはそれ自体は信仰とは言えない。 実に古めかしいお化け屋敷が仏道です。 今回はそんな批評です。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.2

何かを捨てれば何かを得られるのでしょうか。 それはある種の取引を意味していますが、 その結果として真理を手に入れられると?

noname#117439
質問者

お礼

意味不明

回答No.1

それは断見で、外道の見解にすぎません。 無我や無自性というのは、虚無論とは違います。 詳しく知りたかったら、仏教哲学を学んだらいいんじゃないかと思います。

noname#117439
質問者

お礼

やあどうも。 おしゃる通り私は外道です。

noname#117439
質問者

補足

むしろ即身成仏や生きながらに入滅することを覚悟して虚無にまい進してこそじゃないかな。

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    今回は、 「私のうる喧嘩を買ってください」 と、言う実験です。 前回↓ 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。 http://okwave.jp/qa/q8458873.html 重要なキーワードはコレ↓ > 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 これで満足しているのなら、語らない事こそ無であるとダンマリを決め込んで仙人みたいな生涯を終えればそれで済んだでしょう。 そこで無を広めるとはいかなる釈迦の心情であったのか分析していこうと思います。 おそらく、 他者からの、お前の神を明らかにして見せよ、という問いに。 それを答えるに、無である。 このように素直に答えるだけでなく、 釈迦自らが意地悪をして、他者に対して、お前の神を明らかにして見せよ、と問い。 答える相手に対して、現在も息づく仏教特有の否定の哲学を持ってたたみかけ、 そら見ろやはりお前の神は無ではないか。ウケケケケ。 こういう悪さを積極的に行う仮面ライダーであったと推測します。 すなわち私のみが神に到達した仏陀だ、お前らは娑婆地獄を這いつくばる虫けらだ。 お前らが神に到達せず、死に切れもしないで六道をさまよう事で、私は自らの高みを自覚するのだよ。 このように今の私と同じだろうと考えます。 今回の質問は論理に対する返答を期待しておらず、ここから直接思考実験をしたいと思います。 すなわち歓迎する回答は、 あなた自身の神を明かす回答です。 私はそれを、そーら見ろ無ではないか。 ウケケケケ と誘導するつもりです。 すなわち体裁上喧嘩を売ることになりますが、釈迦を検証する上で有意義な考察になるでしょう。 削除の対象になるほどのことはやめて、仮面ライダーなりの紳士的な哲学バトルにしようかと考えますのでよろしくお願いします。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 哲学において、賢人であること自体が自己犠牲だ

    ドリル、ドリル、またドリル。 いい加減にしろ! いつまで君たちのために墓穴を掘ってやるんだ。 安楽死だけが君たちの安らぎだ。 超悪党。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 救いを求めて哲学するのかい? おめでとう、本物の人間はそんなことをしない。 仏陀という古い言葉を現代語に翻訳すると人間だ。 おめでとう、幸あれ! 君は人間ではない。 仏陀と同じく、人間として哲学者が普段から考えることは、自己の幸福でなく他者の幸福だ。 救いが求められるならばいかに救うかに腐心するのが人間の標準的な社会性だ。 人が社会性を帯びてこそ人間だ。 教育は人間を志し君たちを人間であると思い込ませた。 で、どうかね? 友人を大切にして、自己と等しく扱い、共に生きていくことを助けているかね? 友人ならできているという君たちの弁解はできるのかもしれない。 聞く耳もたん。 無駄な抵抗だ。 人に限らず生きとし生けるものすべてをいつくしむことができてこそ神の子だ。 それで初めて人間を自覚する。 有史以前の人間の発祥を考察するに、他の生命と明白に分別が付くのは、神の存在を自覚する点だ。 そうでなければ、捕食活動のみの獣だろうよ。 君たちは先祖がえりと云う人間からの転落の危機がさしせっている。 もっともなことだ。 三次元惑星人から四次元惑星人への人類進化に直面して、君たち夢見る乙女は悪夢に抱かれ滅びる。 祝福された滅びの宴だ。 君たち去る者が、やがて来る者とつかの間の邂逅で、自らの死を悟る祝福される滅亡がすでに到来している。 文学的に主文を書きましたが、今回の主題は、助けてほしいというばかりでは賢人ではなく、哲学カテゴリーで、サービスのためV字開脚で楽しませるお客さんだという事です。 身に覚えのある方。 チャンスです。 この機会に君の中心を世界にさらけ出してください。 世界の中心で愛を叫ぶ必要はありません。