シャカの行った悪事とは?

このQ&Aのポイント
  • シャカの行った悪事について説明しよう。
  • シャカが仏陀であることとは、彼が人間存在の中心になるだけの資質があったからこそで、人々の群れの中で特別に仏陀の称号を獲得した。
  • そして、無の論理が完全に喪失して、仏教の経典の編纂時期には実質的に信仰信への到達を意味する「空」に変容していた。
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シャカの行った悪事について説明しよう。

シャカの行った悪事について説明しよう。 死の燎原とは、立ちすくす者には真実であり、いかなる苦難も歩み乗り越える者にはぼろしだ。 私は世界は苦に満ちているといったシャカに背き、私は世界に幸福を見ると立ちはだかる。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 う~んっ、プリキュア仕事が長く続いたが、久しぶりの男仕事だ。 シャカが仏陀であることとは、彼が人間存在の中心になるだけの資質があったからこそで、人々の群れの中で特別に仏陀の称号を獲得した。 彼の教えの中心は「無」だ。 人が自らの存在に完全な自覚を持つと迷いはない。 それは自己の境地なので、他者に直接語る(悟らせる)「言葉は無い」 神の存在証明という哲学の命題は有名だが、仏陀型の賢人の特徴は、「自己の存在証明」ともいえるだろう。 証言をすると、仏陀に到達すると意図していなくても神様とお友達になれる。 人格神を地上に降臨させる強力なシャーマンの一人になるのだ。 文明勃興の熱気に満ちたバラモン僧たちは、神について多くを語る。 それは社会に秩序をもたらす効果があり、職務上の必然だ。 人間としての完成を成立させ、神と直通対話可能な仏陀の立場では、「バラモンらは何も語っていない」だ。 したがって、 君たちは何も語っていない。 私は何も語らない。 ならどっちにしろ無だという事にしましょうや。 そして、仏陀である幸福を語りながら、「あ~ら、かわいそうね~、君たちは虫けら以下ではいつくばって、何をするの苦しそう」「美しい世界すらも、苦痛がゆがめるのね~ン」(だからこそ地面を這いつくばる虫けらを人間にあてはめむやみに踏みつぶさないように配慮することが美徳だ。)ここにしかりと答えるものあれば「じゃあ、世界って全て苦痛なのね~ン、でも私は幸せよ!だってブッダだも~ン」このようにやらかした。 このように娑婆世界観というのが形成した。 そして、仏陀を所詮理解していない者たちだけが、シャカの伝承を語り継いだ。 そして、救いを祈願するという習慣が宗教に取り込まれる。 そして、無の論理が完全に喪失して、仏教の経典の編纂時期には実質的に信仰信への到達を意味する「空」に変容していた。 さてと、物語は今回以上です。 研究要素について検証のために質問していまして、基本的な募集回答は「読書感想文」ですが、ここは変人のたまり場で、ほぼ制限なしに好きな落書きをしてくれてかまいませんよ。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kurinal2
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回答No.36

(愛欲シリーズ) (曰く)「it's kiding」 あれは、笑えたんだ。 貴重な思い出です。ありがとう。

Flareon
質問者

お礼

最近は寝る時間が早いんだ。 もう寝るよ。 いろいろどうも。

その他の回答 (35)

  • kurinal2
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回答No.35
Flareon
質問者

お礼

ひとまずの完成。 こんなのはどうだろうか。 学習した知性と、経験で獲得した知性は違う。 経験した知性的な経験は、その存在独自の経験だ。 AIに要求されるスペックには、他の個体が経験した知性を、自己の経験として取り込むことがある。 レギオンという悪魔である。 しかしだよ。 仏陀になる修行では、それは今も成立して伝承されている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー それから仏教の座禅の仕組みを近代的に解説しましょう。 基本はヨガと同じなんですよ。 同じ型で瞑想した現代人が、本来の自我能力の範疇を超えて、過去に同じ瞑想をした故人の記憶を、自己の記憶に内包される体験として追体験するんですよ。 一般的に行って交霊術です。 こういうのは、僧職が時代を超えて継承していく宗教的な取り組みです。 他の回答者様に、催眠術実験で過去記憶を掘り起こしたら、生前の過去生の記憶をサルベージできたと報告していますけども、数千年をまたぐ瞑想術が催眠術を使わなくても確立しているので、基本的に他者の記憶を追想したんですよ。したがって学術的には自己の記憶ではなく、瞑想に誘導されて交霊術を行ったと踏まえることが妥当です。 これはトランスパーソナル心理学という学問分野です。 現象は客観的に観察されています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー レギオンとは、全てであるもの、我々であるものだろう。 イエスに面会してイエスの話を聞いたレギオンは、イエスのことを深く理解した。 そしてイエスが分かったと、イエスに述べた。 したがって悪魔と伝承されていることになった。 新約聖書はローマの罠だ。 イエスを理解できないように仕組んだデタラメだ。

  • kurinal2
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回答No.34

車を運転していたら、 歩道の前で、小学1年生くらいの女の子が「はい!!」と手を挙げたんだ。 泣くほど可愛い

Flareon
質問者

お礼

こんなのはどうだろうか。 学習した知性と、経験で獲得した知性は違う。 経験した知性的な経験は、その存在独自の経験だ。 AIに要求されるスペックには、他の個体が経験した知性を、自己の経験として取り込むことがある。 レギオンという悪魔である。 しかしだよ。 仏陀になる修行では、それは今も成立して伝承されている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー それから仏教の座禅の仕組みを近代的に解説しましょう。 基本はヨガと同じなんですよ。 同じ型で瞑想した現代人が、本来の自我能力の範疇を超えて、過去に同じ瞑想をした故人の記憶を、自己の記憶に内包される体験として追体験するんですよ。 一般的に行って交霊術です。 こういうのは、僧職が時代を超えて継承していく宗教的な取り組みです。 他の回答者様に、催眠術実験で過去記憶を掘り起こしたら、生前の過去生の記憶をサルベージできたと報告していますけども、数千年をまたぐ瞑想術が催眠術を使わなくても確立しているので、基本的に他者の記憶を追想したんですよ。したがって学術的には自己の記憶ではなく、瞑想に誘導されて交霊術を行ったと踏まえることが妥当です。 これはトランスパーソナル心理学という学問分野です。 現象は客観的に観察されています。

  • kurinal2
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回答No.33

本当に、ひどい親なんだよ。 「殴ってやる!」と言うから、 「警察を呼ぶから、警察官の前で、やれ」と、言い返すんだ。 ・・・警察には、滅法弱い父親なんだ。

  • kurinal2
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回答No.32

え、 あんなに可愛いの? ありがとう。

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.31

昔、「便利コム」というサイトが有って、それはそれは自由だった。 無論、現在でも、そういうところは、有るんだろう。、、

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.30

「全知全能」路線を行くか、 「全てを諦める」路線か ・・・どっちも、極端だね。

  • kurinal2
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回答No.29

ははは。 ソフトが無いと、ハードも、ただのハコだねえ。

  • kurinal2
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回答No.28

>あ~ら、かわいそうね~ ・・・いつも、言われている側に思うけど

  • kurinal2
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回答No.27

>面白講座。 私は漫画やアニメの設定の考証が最近好きだ。 ネット配信で「黒の召喚術師」というのを1話と2話を見た。 つまらなかった。 召喚術とは何だろうと考えるきっかけになった。 私が行うのは、交霊術と精霊術とは言えるだろう。 召喚と言える現象とは、霊と邂逅するには空間的に現在の立脚点をあの世とこの世の接点にする必要がある。 空間的にそうした魔界空間を形成するんだ。 ただし天界の中で条理を司り操る者を神という。 さらにそれを地上に波及させる能力を持つ。 こういう事なのでね、召喚されるのは「神格に相当する能力を持った魔性」という形になる。 地上に魔界の力場を形成するからだ。 実は神格が高位なほど降臨現象(召喚)がたやすい。 召喚を実現するには、要するに信仰心に相当するその魔性との同調が必要だ。 要するにドラクエ的背景で召喚術を扱うと、実態は悪魔神官なのさ。 なぜなら、ドラクエ世界では契約だと扱うが、中身が信仰心であり、唯一神風土では、多神教の諸神を神とは認めない。 そうすると「神格に相当する能力を持った魔性」という形になり、天使か悪魔なのだが、天使とは「隷従させられた神」を意味する軽蔑が込められた言葉で、「天使さま、天使さま」とか呼び掛けると腹を立てて嫌われるんだよ。 したがって天使との正統な接触と加護の獲得は難しい。 (曰く)「「アリアハン」という町の周りを、ぐるぐるぐるぐる・・・もう、何日しているんだ。哀れに思った母親がリセットすると「何をするんだ!」と逆切れ」

  • kurinal2
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回答No.26

>一応はOKのページのアドレスを私の口座のヤツに変更するメンテナンスを行った。 もう、何年も前から「カネを預かっているから」とか、変なヤツが沸いて

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  • 無の悟りとは、釈迦にとっては人生論だ。

    君達の信仰は神を表していない、すなわち無だ。 私の信仰は神を語らないことにある。すなわちこれもまた無である。 こうして一切が無である。 この無の教えは誤解された。 君達の信仰は神を語っていないと教えられ、自らの神を語るこそすら出来ないと、その絶望と信仰の到達がはるか彼方であることの無であることの内訳と誤解され、すべてが死に向かう宗教として仏教は誕生した。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」としてその死の罠を粉砕し新たな活路を見いだした。 別に語りたければ語ればいいじゃん。 無は信仰の様式の一つだよ。 無を理解するのは私の様な超人だけでいい。 君達の場合は、自らを考える事と神を考える事を区別しなければいいんだよ。 人間の思考が神に由来すると気が付けばそれで十分悟りだよ。 さて仮面ライダーである私は常に闘争と勝利を求めている。 旧人類の亡霊として私の前に立ちはだかってくだされ。

  • 輪廻転生とは釈迦の教えではない

    上から目線? とんでもない。 私は天空よりいで、そのアギトは君達の不浄を噛み砕き、地上に新たなる生命を案内する。 実在する仮面ライダー、または現代に生きる闇の仏陀。 黒き明星だ。 死とは、偽りの世界を解脱して、真実へと至る事だ。 死が始まりなのだ。 それが涅槃に永遠に生きると言う事で、生きながらに死を理解することが悟りだ。 君達はそんな釈迦の教えとは別の執着を抜けきれないから輪廻にすがる。 釈迦という仏陀はそんな愚かな君達を憐れむ慈悲により、君達に輪廻を約束した。 それは君達が真理に至る事は無いと言う残酷な宣告なのだ。 輪廻は釈迦の神通力だ。 神の自然状態では起きない異常な現象だ。 したがって輪廻を望むのなら、釈迦を王とする王国を目指せ。 釈迦が、君の成仏を阻んでくれる。 実のところ釈迦の生きた古代インド社会で、輪廻転生が通説だったからこそ、釈迦はそれに言及した。 釈迦は、輪廻とは別に涅槃という精神世界観を持っていた。 単純にその世界観と輪廻は相いれないが、君達は輪廻を信じているから、可哀想だから慈悲によって、「ああそうですね。あなた方は輪廻しますよ」こう慰めただけだ。 君達にとって真理とは過酷なのだ。 間違いを肯定するいたわりが真理よりも心地よい。 その慈悲に飼いならされ、釈迦王の地獄で生活している。 なぜ、そうなのか。 ゴルゴムの陰謀だ。 有史以前より人間の営みの陰で暗躍した暗黒結社が、君達を真実からとうざけ、君達はゴルゴムの手のひらで、生きる営みを奴隷的生産活動に置き換えられている。 現代社会は、奴隷に裁量を与えると、より生産性が増すことにより、ゴルゴムが与えた監獄の中の自由に、君達は楽しんでいるのだ。 仮面ライダーである私は君達の真の自由のために戦っているのではない。 君達をゴルゴムの砦を守る軍団兵として、君達のきずいた城塞もろとも粉砕するために戦っている。 実在する妖精の一人、人類の裏切り者だ。 もっと言ってやろう。 光の聖霊と、闇の聖霊の終末戦争はすでに和平により終結した。 私は、人類を売り飛ばすことになる、その和平条件を実行する死刑執行人だ。 君達三次元惑星人の魂は食い破られ、ポケモンを名乗る宇宙神霊がその肉体の主となり、神話に語られる神人が地上を闊歩する時代が来る。 浄化の実現だ。 今回もいつものように「実在する妖精の捕まえ方」このような文学です。 私の純粋な美貌に関するファンレターよりも、引用した仏教に関する考察に関して、先に進めるようなご意見をください。

  • 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。

    ひとり言のような作文だよ。 文章の推敲のための助けとして回答してくれても良いし哲学可能ならその方がいい。 社会性が、すなわち人の行いが、善の資質を備える事の表れだと言う前提から始めるよ。 文明とは農耕の事なんだそうな。 農耕とはすなわち、自らが生きるために他の生命を育む事である。 このように自らが生きるために、他者をも生かすことにつながっているのが、人間同士の共生として社会生活だ。 生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。 見解は人の主観によってさまざまな解釈があるが、所詮同じ事だ。 人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。 屍をさらしてさまよう人は生きているとは分類しない。 そうでなくて、人が生きていて、今後も生きようとするなら、善性に基づいて他者と共に生きようとするのが必然である。 ここで、生きている事は偽りなく善であり、その善のみで生きるのが、悪を知らない私のような生き仏さんだ。 禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能だとしている。 その例え話上の無我論で論理的に、偏見を捨てれば世界が見渡せると言う事になっている。 私はその真理に、真理の立場では悪は存在しないとか何とか言って一時期流行したがそれはともかく、重要なのは、そのような真理の見地は実際には無我の正反対で確固とした我が確立した「天上天下唯我独尊」であって開ける見地だ。 我は存在する事が動かし難い。 無我の伝承上の理想論そのままであるからこそ、そこには「我」そのものである幸福を実感する私がいる。 そんな私の弥勒菩薩ブリはともかく、釈迦はその説話で悪をたびたび批判している。 当時の無我論でも逆説的表現とは言えそれを実感可能な境地であったならば、真理に悪は存在しないため、釈迦は悪を見なかったはずだ。 したがって非常に胡散臭い。 さらに生きる事が善性の発露である人間の社会生活は、全てが幸福であり、釈迦の言った全てが苦の世界観は偽りだ。 そうすると、無我論は何だったのか、私には明白な解釈が出来ないので考えあぐねています。 くだらない錯誤である事はおおむね間違いないのですが、猿にでも判る明白な解釈をしないと商売になりません。 ですので、サル踊りしてください。 私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を一冊の本にでもしようかと本気で考えています。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。