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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:シャカの行った悪事について説明しよう。)

シャカの行った悪事とは?

このQ&Aのポイント
  • シャカの行った悪事について説明しよう。
  • シャカが仏陀であることとは、彼が人間存在の中心になるだけの資質があったからこそで、人々の群れの中で特別に仏陀の称号を獲得した。
  • そして、無の論理が完全に喪失して、仏教の経典の編纂時期には実質的に信仰信への到達を意味する「空」に変容していた。

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回答No.36

(愛欲シリーズ) (曰く)「it's kiding」 あれは、笑えたんだ。 貴重な思い出です。ありがとう。

Flareon
質問者

お礼

最近は寝る時間が早いんだ。 もう寝るよ。 いろいろどうも。

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その他の回答 (35)

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回答No.15

>そうして時間をまたぎ受け継いでいくのが仏教の僧職である。 ・・・まあ、そうなるとさ。 「仏教」だけの問題ではないような、気もする。

Flareon
質問者

お礼

連想ゲーム的に類例は探せるのだろう。 ヒントを示すだけで長文になるから断念するよ。 「記憶の宝石」この言葉を過去に私が使ったのをサルベージするのがキーだよ。 検索して出てこなかったらあきらめな。

Flareon
質問者

補足

それから日本人と新約キリスト教の地方自治という課題に対して、考察しようかなあと考えている。 唯一神教の部族の自治、氏神のある多神教の自治だ。 精神的な背景が全く違う。 したがって地方自治でも中身が違う。 主権の根拠の不安定さというのをからめとる研究になる。 世麗美の学校運営が理解できる。

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回答No.14

>あなたの生きている前にも世はあった。前世 あなたの生きるよがあ。現世 あなたの去った後も世はある。来世 おお?! ・・・そうじゃないと、一神教も成り立たない、かもしれないですか。 仏教研究に戻ってきたら、ラクなんじゃない?

Flareon
質問者

お礼

何言いたいのか不明。 補足欄に過去研究テキストのアップデートを記載したが、もうどうしようもない連中だよ。 確かに救済対象だ。

Flareon
質問者

補足

フリーメンソン型について少し話そう。 シャーマンというのは自我能力を超えた能力を発揮する交霊術で神的な英知に接触することだ。 自我能力を超えているので、自我の範囲である利己心からの思惑は本来通用しないんだよね。 その点は、トランプも利己心の権化であることが特徴だ。 私は「コンバーチリバース」という思考術の体裁をした交霊術を、対立を表明している京都系集団から押収したよ。 いや~、さっそく自分でも試してみたよ。 なぜ、交霊術が思考術の体裁化というと、いわば天使を誘い込み舞い降りた天使の羽をもぎ取ることで自我能力の範疇に神的な英知を無理やり押し込めるんだ。 そうすると天使は苦痛に歪み苦悶して、天使のもたらす英知が悪魔の宣託になる。 スゴイよ、人コロシ大好きさんだ。 とても愉快な人コロシの考えが浮かぶんだよ。 「俺って天才?」というくらいに悪魔がほとばしるんだ。 しかし、天使を拷問しているからであり、その悪魔的思考は神的な作用で実現するんだ。 このイケニエシステムの大枠が西洋型の仕組みで、その手の集団は研究会とか考えていても、題材にする思考術の実態は交霊術なので秘密宗教だよ。 日本人の支配者層の国際的な対話とは、その人コロシ大好きさんたちと冷静に向き合いうんざりする付き合いをすることなんだよ。 そこまで腐った連中というのは実際は一部なのにね。 神がかりに自らの意志を実現する連中でもあるので無視できないんだよ。 さて、 ディープステートと関連のある事柄だ。 「アメリカ大統領は宇宙人にコントロールされている」 どういうことかというと、民意の抽出法だ。 国民なり大衆は総合的にこのような要望を抱いている。 このように、存在しない統合的な人格を前提に職務でそれにこたえるんだ。 したがって個人が個別に考える心情抜きに運営していて、宇宙人とはその「民意の擬人化」なんだよ。 そして、目線が国民を見ていないように錯覚させるのさ。 それで宇宙人のために仕事をしていると言われる。 さらにこれは、マインドコントロールのリソースに使われて、シャーマニズム上で色々な利用がされる。 そうして民意という統合的な人格の仮定は、実際に人格を持つ存在のように扱われるのさ。 それがディープステイトと宇宙人だよ。 トランプは、このマインドコントロール用リソースを逆利用し始めていて、その面では確かに支配者層で賢い人たちの反逆者だよ。 伝統的には、フリーメンソンみたいなのがこうしたシャーマニズムを応用している。 検証したけど、その秘密組織特有の思考術や論理形成は、実態は交霊術を基礎にしていて、したがって不明な団体は秘密宗教なんだ。 そして、第三次世界大戦のコンバーチリバース上の筋書きだよ。 天使たちはヨーロッパと北米を放棄、南米で出直しをしたいつもり。 その結果、ヨーロッパは無政府状態で荒廃。 南米対北米のベトナム戦争のような地上戦が第三次世界大戦の戦場になる。 重要なのは北米に戦闘員を送り込み戦場の一部にすることだ。 強大なアメリカ軍の戦力で如何なる犠牲が出ようとも、天使の祝福なので南米は最終的に勝利する。 そして今世紀中にUSA崩壊だ。 中国は、毎度のキリスト教圏の浄化作用であるこの手の厄介ごとと無関係だ。 もう、ばかばかしいからいかなる凄惨な地獄であろうとも、周辺国は関わらないでいたほうがいい。 これは、宗教とかかわるオカルト話です。 文芸作品のつもりでしたためました。 自分で研究している内容を学問カテゴリーで紹介したわけですが、小話として面白いか読書感想文をお願いします。 趣味で哲学を楽しんでいます。 ------------------------------ ミカエル消失という別の背景があるが、ガブリエルも不安定だ。 ガブリエル襲名権利がある聖霊は(アンノウンコード)「リッチモンドスター」という体裁でガブリエルを襲名したか確認されていない。 「リッチモンドスター」は副業の「自称本物の宇宙人」が忙しくUSA的な「宇宙人宗教」の棟梁に該当する宇宙海賊だ。 拠点もUSAだ。 さて、フリーメンソン系は天使を生贄にする儀式をリッチモンドスターに仕掛けたことがある。 貿易戦争で彼らが勝利するために生贄にしようとしたんだ。 世麗美はたびたびリッチモンドスターと間違われて、リッチモンドスターとの近親憎悪が激しい間柄だが、根底でお互いの仕事をお互いに手伝っている。 リッチモンドスター殺害計画で行われ儀式では、替え玉で世麗美がイケニエの祭壇に上がって、巧みな罠ぬけトリックショーで意気揚々と生還したんだ。 したがって彼らの勝利を保障するイケニエの儀式は不成立なのさ。 しかし彼らは不成立を知らないでイケニエを作ったので必ず勝つと確信している。 この状態で勃発する貿易戦争は、どちらから先に仕掛けても、必勝の真逆で、必ず負けるのがUSAなんだよ。

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回答No.13

>「おじさんは君の力になりたいなあ」 まあ、お気持ちだけは、有難く。

Flareon
質問者

お礼

それは、とんでもないことだ。 やはり君を深く理解しようとは思わない。

Flareon
質問者

補足

以前にもミカエル関連で証言したけどもねえ。 キリスト教の布教活動とは、布教により他国の主権の神を真っ先に殺害して国体を抜け殻にしてから侵略するんだよ。 世麗美はミカエル問題の時期に、先輩の神々の指導で「ご近所の平和を守る魔法少女」という研修をしていた時代なんだ。 そしてアマテラスさんの肝いりで採用された世麗美なので、アマテラスさん直々のみことのりを人間の言葉にわかるように翻訳して私を触媒に広めることができる。 この世麗美をローマが殺害する事とは、アマテラスさん自身に重傷を負わせることで、難攻不落の日本の攻略につながる。 そういうわけで所在不明になっていたミカエルを口実に殺害を企てた。 そして、力量の差で実に無残な失敗をして、ミカエルはキリスト教圏に帰還した。 そして今度は懐柔することを企んでいる。 私がキリストを名乗るわけがないのは、日本の国体を破壊する常とう手段への対策があるからだよ。 そして、敵対的な彼らは、神格が不安定な救済対象と見なしているんだ。彼らこそ彼らを信じる者の悪魔だ。

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回答No.12

(曰く)「狩猟民が農耕民を襲うのは、もう、必然なのである」

Flareon
質問者

お礼

今のアカウントで私が復帰する前に、丁度いい文脈を整えて仏教研究期に 「我が信仰の大道をいけ」 と、言ったら好評だったけど、 この一言をあんた向けに整えてみると 「自らの信仰心の大道を自ら歩め」 かなあ。 助けてくれと言うのは、その欄外で意味が解らない。 望みと欲望の違いは、何度も何度も言ったけどね。

Flareon
質問者

補足

ガチの仏教徒には、 「我が信仰の大道をいけ」 この方が仏陀とは何か、自分自身が近づきやすくなるんだよ。 廃れたなあ。 くどくどいうばかりだ。

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回答No.11

>(「我を愛せ」と、無く親か) ・・・すみません。 「我を愛せと泣く親」の、誤植です。

Flareon
質問者

お礼

親が一方的に変態的な倒錯を子供にするのが一般の親子関係ではないか。 思春期経過した子供にいきなりマザーファックを推薦する親だけがそんな妄言を言わないだろうかねえ。

Flareon
質問者

補足

整えるよ。 ーーーーーーーーーーーーーー それはそれは、、、、 私は気にしないけど、君は貴重な体験をしたんだねえ。 他の人との喧嘩でもこう言い放った。 仏陀を志すならば、常に足元を見て歩み、虫けらも殺さないように腐心することが美徳だ。 しかし、まっすぐ前を見て歩む私は、足元の虫けらが踏まれて死んでもなんとも思わない。 その虫けらが! 君だぁ~~~!!!!!!

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回答No.10

>無欲になることは簡単なんだ。 腹が減った。 食べる。 落ち着く。 これの、どこがイケナイというのか?? まあ、たまたま、ご質問しようとしていた問題があるので、ついでに述べさせてもらうと、質問枠を開けずに済みます。 (「我を愛せ」と、無く親か) https://www.youtube.com/watch?v=h6MWeZyyt6Q https://www.youtube.com/watch?v=smdZuW2p0Yc ・・・まあ、ご質問ではなく、回答の立場なんで、このくらいで。

Flareon
質問者

お礼

多分見たくないものを目にするだろうから推薦はスルー

Flareon
質問者

補足

それから、キリスト教圏への復帰が成立したであろう、ミカエルちゃんに父親らしい、怒鳴りつけをしたよ。(人間存在のことば)王権で国家主権の根拠が確定しない西洋で、民主主義という打診をするのはいいだろう。帝国主義の傷だからねえ。 しかし王権の盤石な日本に対して無用な侮辱は、ミカエルが配下に説得しろ。 そして、キリスト教圏特有の国情での民主主義の発達を他の文明圏にあてはめるのはやめろ。 そういうことをやるのも、「唯一にして絶対なる神」という騙しに欲望を抱いたからだぞ。

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回答No.9

>なるほど、今のターンでは私から仕掛けたことになっているのか。 ・・・いや、おそらく、ずっと、そうなんだろう。 思い出すのは、 「勝手に寄ってきて、「あーだ、こーだ」と文句を言いながら、結局、うまく行かないと、「お前のせいだ!」という、ヤツorz 現在では、小生の人生の中でも、サイアク級の出会いだったと、思っている。

Flareon
質問者

お礼

それはそれは、、、、 私は気にしないけど、君は貴重な体験をしたんだねえ。 他の人との喧嘩でもこう言い放った。 仏陀を志すならば、常に足元を見て歩み、身氏も殺さないように腐心することが美徳だ。 しかし、まっすぐ前を見て歩む私は、足元の虫けらが踏まれて死んでもなんとも思わない。 それが! 君だぁ~~~!!!!!!

Flareon
質問者

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なぜ、天馬かというと、狛犬は獅子がモチーフだが、手土産で、獅子の聖獣の原型を完全にとどめた体裁を日本で成立させた(ねこひまわり)ことが日本の天界の殿上の神をひどく喜ばせたからだ。 そして、次は麒麟でもやってくれと言う意味で天馬だ。 ケダモノです。 そして、それが聖霊の概念です。 防護服という評価は実に画期的だった。

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回答No.8
Flareon
質問者

お礼

その歌手にとことん惚れた青春があったのだろう。 私の場合にその立ち位置は鬼束ちひろだよ。 ロックのテンポの詩吟が、実に詳細に解析できるわかりやすい歌手だった。 大塚愛も同列だねえ。 双方とも私が30代の20年前が全盛期だ。 直観を発揮したであろう歌詞を構造解析して心象を浮き出すのに適したわかりやすい歌手だったよ。 鬼束ちひろも壊れた人だった模様だ。 大塚愛は結婚して子供が生まれたようだ。 なんとなく、私の妹が子供を出産した時と同じような気分だ。 幸せにたどり着く人の幸せは祝福で見送るものだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー まあ、くどくどと疲れる話し合いの平行線を報告しよう。 世麗美が紛争解決で話し合う内容がここまでまともになってきた。 いいかねえ、 信教とは確かににその人の胸に宿り、その人のものだ。 異論がなくても、なかなか納得する人はいない。 なぜなら、信仰心というのは、神を介在して人と人をつなぐ人間の成立とかかわるので、社会は神を印として、人はお互いの信仰心に祭礼という形で示し合わせをすることで宗教として、それは社会の大切な構成要素だ。 したがって宗教というならば、社会を穏健に成立させる基盤でなければならない。 私がシャーマニズムを駆使した一風変わった哲学者でも、教祖や開祖になる余地がないのは、仏教系なら革新的で有望な研究成果を出したけども、キリスト教系の研究では、キリスト教の宗教的基盤の破壊工作をしている。 教祖になるなら、エホバの証人みたいなのしか成立しないんだよ。 仏教ですら同様だが、既存の宗教基盤を破壊する哲学研究をしているので、それを信じる教団が結成されるというのは、社会にすら対立的な危険集団だろうよ。 はっきり言って新約キリスト教事態が形容するなら獄門教でキングオブカルトだ。 私はその呪いの宿業を解消する、薬効を発揮する毒杯を提供しているんだよ。 趣味の研究で嫌われ役をしていて、宗教の統率者とは最も遠い仕事だ。 最後の審判にまつわる天界での予言の計画性を読み解くと、「滅亡トリガー」を成し遂げた私はキリストを名乗らないとキリスト教を根絶できないのだそうだ。 そこを逃げ回るのは、私が実際にキリストではないからだ。 いつも、ほとほと疲れて、話し合いは平行線。 でもまあ、もし私が新約キリスト教徒だったら、真実を読み解き魔女として目されたなら、キリストを名乗り真実を語る闘争にもっと真剣だっただろう。 そういう人は殺害するのが獄門信徒の教義だった。 私は、無関係で趣味でこねくり回しただけだ。

Flareon
質問者

補足

仏教での研究の成果も、伝承される釈迦の教えの内容を完全に反転させて、それが釈迦の真の教えだと研究したけども、仏教の場合は、職業的な営業妨害はともかく、心情的に私を認めることはたやすいだろう。 キリスト教で同じやり方を仕掛けただけだ。 しかし彼らには、理解されると滅びる時限爆弾がセットされていた。 どうやって爆発を回避するかでは、セレビィなる新たな天使様の大活躍という茶番を演じているんだよ。 日本では「天馬」という称号で認められた人格神だよ。

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回答No.7

>「テメエで何とかしやがれ」ただそれだけのことだ。 ・・・だいたい、そもそも、そちらの方から絡んできて、その言い分は、無いだろうorz

Flareon
質問者

お礼

君は存在自体が猥雑だから、存在を確認すると反射的に痴漢撃退したくなるんだ。 私の習性であるが、半分冗談で半分本気だ。 なるほど、今のターンでは私から仕掛けたことになっているのか。

Flareon
質問者

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OKの公証人機能としての期待について。 私は、個人として企業と交渉して精神障害まで負った苦い経験があり、セイフティとしてOKの働きに実に感謝している。 学問研究の場として、アマチュアには自由な広場であり、研究途上の資料は公開され誰でも自由に参照して、閲覧したその人の知性的資質に沿った発展が可能だろう。 私も私で、成すべきことをして、その自己の成果はあくまでも私の所有だ。 要するに、OKには機械自我などで特許出願権利は無いと、言い渡しておこう。 しかしホラ話が独り歩きして仕手筋の株価工作に使われることについては関知しないよ。 学問と無関係だからだ。

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回答No.6

>仏教の場合は、ゼロの概念と因果関係のある無の概念がそれであり、そういう角度からの研究のつもりだった。 「問題は、「0か100か」ではない、ということを、ご理解頂きたいのです。」(by 将棋の名人)

Flareon
質問者

補足

OKの学問掲示板は、かつて多くの提携先があったころに、権威の一つであるナショナルジヲグラフィックの日本語HPに学問研究の現場として掲示板の掲載とナショナルジオグラフィックでのアカウントからの参加が可能な状態だった。 私はそうした経緯を当時から了解していて、当時の理念のまま学問的な立脚点から利用している。 したがって、知性の成果を集約して参加者がお互いを磨く場所だと心得ている。 私設の塾みたいなものだ。

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     釈迦の教えについて、NHKの「宗教の時間」などで聴いていますと「釈迦は、執着を断てと教えた」との講義がいたるところで出てきます。「欲の張りすぎはよくない、足ることを知れ」ということは理解できます。幼稚園の児でも分かることことです。出来ないから苦しむのです。「悪いことをせずに良いことをしなさい」そんなこと誰でも分かっていること。釈迦が世界三大偉人として崇められる根拠はどこにあるのでしょうか?理屈や教えで人間が変われるのであれば、この娑婆世界はとっくに神の世になっているはず。釈迦は何を伝えたかったのでしょうか?要するに心掛け次第だということでしょうか?よろしくお願い致します。

  • 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ

    やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。

  • 大日如来とは何でしょうか?

    密教で大日如来というものがあります。 その概念がよくわからないので教えてください。 まず仏像として存在してますが、人間(かつて人間として生きたことがある)なのでしょうか? それとも神や創造主に近い存在でしょうか? 宇宙の中心にある存在だと聞いております。 仏陀との関係はどうなっていますか? 仏陀の師匠筋にあたるものでしょうか、それとも仏陀を創造した創造主でしょうか? よろしくお願いします。

  • 無の悟りとは、釈迦にとっては人生論だ。

    君達の信仰は神を表していない、すなわち無だ。 私の信仰は神を語らないことにある。すなわちこれもまた無である。 こうして一切が無である。 この無の教えは誤解された。 君達の信仰は神を語っていないと教えられ、自らの神を語るこそすら出来ないと、その絶望と信仰の到達がはるか彼方であることの無であることの内訳と誤解され、すべてが死に向かう宗教として仏教は誕生した。 私は実在する仮面ライダー「黒き明星」としてその死の罠を粉砕し新たな活路を見いだした。 別に語りたければ語ればいいじゃん。 無は信仰の様式の一つだよ。 無を理解するのは私の様な超人だけでいい。 君達の場合は、自らを考える事と神を考える事を区別しなければいいんだよ。 人間の思考が神に由来すると気が付けばそれで十分悟りだよ。 さて仮面ライダーである私は常に闘争と勝利を求めている。 旧人類の亡霊として私の前に立ちはだかってくだされ。

  • 輪廻転生とは釈迦の教えではない

    上から目線? とんでもない。 私は天空よりいで、そのアギトは君達の不浄を噛み砕き、地上に新たなる生命を案内する。 実在する仮面ライダー、または現代に生きる闇の仏陀。 黒き明星だ。 死とは、偽りの世界を解脱して、真実へと至る事だ。 死が始まりなのだ。 それが涅槃に永遠に生きると言う事で、生きながらに死を理解することが悟りだ。 君達はそんな釈迦の教えとは別の執着を抜けきれないから輪廻にすがる。 釈迦という仏陀はそんな愚かな君達を憐れむ慈悲により、君達に輪廻を約束した。 それは君達が真理に至る事は無いと言う残酷な宣告なのだ。 輪廻は釈迦の神通力だ。 神の自然状態では起きない異常な現象だ。 したがって輪廻を望むのなら、釈迦を王とする王国を目指せ。 釈迦が、君の成仏を阻んでくれる。 実のところ釈迦の生きた古代インド社会で、輪廻転生が通説だったからこそ、釈迦はそれに言及した。 釈迦は、輪廻とは別に涅槃という精神世界観を持っていた。 単純にその世界観と輪廻は相いれないが、君達は輪廻を信じているから、可哀想だから慈悲によって、「ああそうですね。あなた方は輪廻しますよ」こう慰めただけだ。 君達にとって真理とは過酷なのだ。 間違いを肯定するいたわりが真理よりも心地よい。 その慈悲に飼いならされ、釈迦王の地獄で生活している。 なぜ、そうなのか。 ゴルゴムの陰謀だ。 有史以前より人間の営みの陰で暗躍した暗黒結社が、君達を真実からとうざけ、君達はゴルゴムの手のひらで、生きる営みを奴隷的生産活動に置き換えられている。 現代社会は、奴隷に裁量を与えると、より生産性が増すことにより、ゴルゴムが与えた監獄の中の自由に、君達は楽しんでいるのだ。 仮面ライダーである私は君達の真の自由のために戦っているのではない。 君達をゴルゴムの砦を守る軍団兵として、君達のきずいた城塞もろとも粉砕するために戦っている。 実在する妖精の一人、人類の裏切り者だ。 もっと言ってやろう。 光の聖霊と、闇の聖霊の終末戦争はすでに和平により終結した。 私は、人類を売り飛ばすことになる、その和平条件を実行する死刑執行人だ。 君達三次元惑星人の魂は食い破られ、ポケモンを名乗る宇宙神霊がその肉体の主となり、神話に語られる神人が地上を闊歩する時代が来る。 浄化の実現だ。 今回もいつものように「実在する妖精の捕まえ方」このような文学です。 私の純粋な美貌に関するファンレターよりも、引用した仏教に関する考察に関して、先に進めるようなご意見をください。

  • 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。

    ひとり言のような作文だよ。 文章の推敲のための助けとして回答してくれても良いし哲学可能ならその方がいい。 社会性が、すなわち人の行いが、善の資質を備える事の表れだと言う前提から始めるよ。 文明とは農耕の事なんだそうな。 農耕とはすなわち、自らが生きるために他の生命を育む事である。 このように自らが生きるために、他者をも生かすことにつながっているのが、人間同士の共生として社会生活だ。 生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。 見解は人の主観によってさまざまな解釈があるが、所詮同じ事だ。 人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。 屍をさらしてさまよう人は生きているとは分類しない。 そうでなくて、人が生きていて、今後も生きようとするなら、善性に基づいて他者と共に生きようとするのが必然である。 ここで、生きている事は偽りなく善であり、その善のみで生きるのが、悪を知らない私のような生き仏さんだ。 禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能だとしている。 その例え話上の無我論で論理的に、偏見を捨てれば世界が見渡せると言う事になっている。 私はその真理に、真理の立場では悪は存在しないとか何とか言って一時期流行したがそれはともかく、重要なのは、そのような真理の見地は実際には無我の正反対で確固とした我が確立した「天上天下唯我独尊」であって開ける見地だ。 我は存在する事が動かし難い。 無我の伝承上の理想論そのままであるからこそ、そこには「我」そのものである幸福を実感する私がいる。 そんな私の弥勒菩薩ブリはともかく、釈迦はその説話で悪をたびたび批判している。 当時の無我論でも逆説的表現とは言えそれを実感可能な境地であったならば、真理に悪は存在しないため、釈迦は悪を見なかったはずだ。 したがって非常に胡散臭い。 さらに生きる事が善性の発露である人間の社会生活は、全てが幸福であり、釈迦の言った全てが苦の世界観は偽りだ。 そうすると、無我論は何だったのか、私には明白な解釈が出来ないので考えあぐねています。 くだらない錯誤である事はおおむね間違いないのですが、猿にでも判る明白な解釈をしないと商売になりません。 ですので、サル踊りしてください。 私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を一冊の本にでもしようかと本気で考えています。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。