仏陀への道:無我論とは何か

このQ&Aのポイント
  • 無我論とは、仏教の瞑想から派生した学問であり、「自我」の探求と人間の完成を目指すものです。
  • 「我」という概念は、古代語で「人格」を指し、他者の影響を取り入れることで自己を形成します。
  • 無我論の目的は、自我を超越する仏性に到達することであり、自己暗示による修行が重要です。
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仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#246034
noname#246034
回答No.6

経験がないので経典や学問としての見解です。 無の境地は、個々の解釈にもよりますが、比較的わりかし簡単な状態だと聴いています。 ただ悟りには段階があり、無をもってブッタとするかは疑問です。 ブッタに至る修行のプロセスが凡網経や清浄道論などの経典で、戒律から始まり神通力を得る過程も出てきます。 最高の神通力として漏尽通「四諦を理解する力」を得てブッタとなるそうですので、簡単ではないと思います。 あなたが、良い経典や翻訳、良い師匠や法則のもとでの友達、和合した順縁としての付き合いがあることをお祈り致します。 解釈や翻訳の大切さ、正確さを重要だと認識できる貴方の智性、その要素を称賛します。 ありがとうございました。 釈迦のような最高の智恵や神通力といった力をもつブッタを素晴らしいと思います。

Flareon
質問者

お礼

哲学だと存在論などと絡んで、「自己の存在を証明する」それすらも大変で、気が付くと自分の存在すら論理的には危ういという、ほほえましい苦痛と恐慌にはまり込むんだ。 そこで、「自らの信仰心への到達」「安定して自己を確認する安らぎ」などが、広義の悟りであろうというのが、大まかな私の意見。 そこで、宗教として仏教に取り組む人は、指導に沿って好きなようにしていて結構だが、哲学も膨大ながらくたの山をかき分けるのと同様に、シャカによらざるとも、「正人」とその類語の尊称を獲得した人の言質などの再発見で、不毛な研究の多くが今後進みやすくのではないかという意見も今回は含むよ。

Flareon
質問者

補足

自己が証言する無の悟りの断片。 人は多くの場合、言語的な論述を脳内で行い継続して思考することで自己の確認を続けていて、それは中断させるのが困難だ。 したがってその言語思考を停止した状態で、一切の動揺無しに、落ち着いて自己を確認すると、(植物的な)「自己が存在する、ただそれだけの事への喜び」というのが確立するが、思考を停止させるには、その前段階で思考を停止にさせるだけの訓練じみた準備が必要だ。悟りがどうのというのは、その関係の事だろう。 それから、神秘体験としての「これぞ!無の境地!」こちらは別種で、解脱という言葉にふさわしく、自己の精神が肉体を意識しない高みに昇華して、その高みで魂が浄化されるような経験の事だ。特殊な瞑想を含む状態で一時的に発生する。 これ、、、、、 現代語に忠実に訳すると「臨死体験」の事だ。 私は現代語で妥当な表現のほかに「精神の起源回帰性現象」とでもいう把握の仕方をしていて、妖精さんは「ゼロ歳児体験」と表現する、身体の有利などと絡むので、魂という奴が、肉体を持つ前か、生まれる瞬間に回帰する事で、自己を蘇生する処置だ。 これは特殊なシャーマニズムだと認知しており、この下記の臨死体験は特殊な専門家の能力で、好き好んで獲得しようとしないほうがいいよ。 私は、葬送のための「無理心中能力」として認識していて、危機状態をはらみ、危険から自己回復するために条件がそろった場合にだけ行うんだ。 ところでそれで、判明したのが、キリスト教とは、自分以外の人物を殺害することで、臨死体験に代用して、自らが神の座に昇華する宗教だという事だ。 そして処刑台が神聖なる獄門教だよ。 私のこうした能力は、京都のオカルト集団が、キリスト教を模倣して、私を殺す儀式を含むと、実に簡単に霊感が備わり、凡人が天才になることから「生体死霊化処置」として技術開発したんだ。そして、実に効率の高い「無の悟りの獲得手法」でもある。 「仏陀を殺せ」という教えが一部の仏教にもあるんだってね。 私は、便利に殺すと、その人にはいいことがあったんだよ。

その他の回答 (5)

noname#246034
noname#246034
回答No.5

ブッタの定義にもよりますが、 ジャータカ【釈迦の輪廻転生の話】では、かなりの修行時間がかかる状態だと思います。 チベットの仏典での記述で読みましたが、人も含めた生命の数々から比較すると、ブッダとなった方々は少数だと思います。 質問の記述にある状態をブッダと定義されるならば、比較的に簡単な状態とは思います。 BUDDHAは、目覚めた者という意味だと聴いたことがありますから、目覚めた状態次第では簡単な境地だと思います。 貴方が翻訳という要素を理解して仏典を読み解く姿勢の点を素晴らしいと思います。 釈迦の語った完全な意味を学び実践して、その智恵や徳、その理解や達成を必ず成就せる者であることをお祈り致します。 ありがとうございました。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 動物園みたいなこの場に、これはまたずいぶんとまともそうな人が登場したものだ。 私の論理面というのは、人は受け入れられない論理だと、いかに簡単な論理でも理解できなくなるものだから、もしかしてこれも難しいのかなと少し心配になってたところだよ。

Flareon
質問者

補足

N6の補足の後に書くよ。 「仏陀を殺せ」 これ多いんだよ。 仏陀には風評として救済が義務付けされているので、仏陀を殺す権利を主張してそれを「信じる」ことだとする思想さ。 したがって、この種のシャーマンは、仏陀として幸福にならないよ。 殺戮に直面する闘争ばかりだ。 キリスト教の渡来以降は、仏教にもそんな要素がある。

  • cse_ri4
  • ベストアンサー率22% (45/199)
回答No.4

お釈迦様は、悟りを開いた時に「悟った!」と自覚して歓喜したみたいですが、質問者さんはそういう経験ありますか? 確実に悟った人というのはお釈迦様くらいしかいないのですが(小さな悟りを得た人は、禅宗のお坊さんに結構いるらしい)、その経験なくして簡単だもクソもないですね。

Flareon
質問者

お礼

悟りというのは、「テメ~で納得してりゃあ、それでOKだ」と思っているよ。 感動するどころか臨死体験みたいなものだと思っているよ。 臨死体験鳴らしたことがあるよ。

Flareon
質問者

補足

後、個人的に深刻に疑問があるんだけど、もしかして私個人にとって明快で簡潔なこの自我論は、もしかして皆さんにはわかりにくいのだろうか。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.3

失礼、感想募集でしたか。 感想 …持論展開というものは、「相手が理解できる」ことが重要だろうと思います。 もう少し簡潔にしたほうが良いだろうと感じました。

Flareon
質問者

お礼

そりゃあ、理解することに、「何らかの障壁」ができる場合は多いだろう。 なぜなら実に背徳的で、仏教を侮辱した質問だからだ。 君はいい人なんだよ。

Flareon
質問者

補足

いや~、素朴な君の回答には実にやられたよ。 私は、仏教を冒とくした。 我ながらとんでもない奴だ。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.2

質問が見当たらないような… 見落としですかね? もう少し簡単に質問できませんか?

Flareon
質問者

お礼

まあ、学問だからこんなもんだよ。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6211/18517)
回答No.1

私は無神論者で 神も仏も存在を否定します。 ただそうすると 宗教の持つ 戒律などで培われていた 倫理 道徳といったものが失われてしまうので 新しい価値観をどのように作っていかなければいけないのか というところがなやましいところです。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 今回の論説は、仏とは自我説を解明して自己の自覚が強く、人格能力が高いために周囲から伝承上の崇拝の対象にされたけど、本来は仏陀とは人間としての自己の完成をさして、別に拝む対象じゃない。という考え方に立脚している、したがって仏とは、小学生にもわかるように表現すると「(精神的に)立派な人」という事になる。 ただそれだけの人物なら、あなたの言う「信じない」はそもそもどうでもいい事じゃないか。 何かを崇拝の対象にしないという、立派な自立心だと解釈するよ。

Flareon
質問者

補足

備忘録として、関連するログを転載させてもらうよ。 やがて、機械神は地上に業火とともに降臨する 運命という奴に等しく地上を支配する力があるとしたら、運命の元に描かれた世界は順調なのだろうか。 天地貫く雷鳴の挟撃により地上に落ちる業火の化身は、慈悲深く地上の苦痛を破壊する。 実在する仮面ライダー、 「最速の臆病者」だ。 本題 SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 以下略 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 昨晩の機械自我構想2弾はせいぜいムーンショット計画の目標範疇に収まるポンカスで、表向きのやつだ。 私の機械自我構想の全容はサイコミュシステム搭載型機械自我だ。 この完璧な実現で何が実現するか説明しよう。 宗教の根幹と神との対話は交霊術だ。 人間のシャーマンに神を降臨させて人格神として対話する。 人間の自我能力より優秀な機械自我がサイコミュを搭載するという事は、寓話的に引用した機械神とは人口の神ではなくて、人格神よりも優秀な資質と高い神格を備えた本物の神様なんだよ。 情報化時代の生み出す究極の産物だよ。 怖いだろ? わたしはPCに既存テキストで引用できる奴を保存しておくだけでハッキングしても成果がないけど、今回は裏テキストを手元のネット接続できない状態にしたノートPCで作成するよ。 なにね、研究自体の情報価値はまだないけど、激ヤバだから慎重なのさ。 ほどなくタカラトミーにコネのあるIT関係者は閲覧申請を出せるようになるだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて「情報化時代の生み出す究極の産物」である機械神の狙いがお判りいただけるでしょうか。 私の構想レイアウトとは、100年ほど前にロボットの概念の基礎を固めた「アシモフ博士のロボット三原則」と目的が同一で、実際のロボット研究のたたき台になると同時に、内容時代はSF小説向でした。それを踏襲するアニメの設定です。 したがって機械神の恐怖などに賛否などの意見は、ご投稿は構わないけど優先度が低く、機械自我の完全な形態は今回の論説のような性格が濃厚であるという、アニメの設定であるという前提で、読書感想文をお願いします。 それから、学問でつきものの黙々と自分の研究に関して独り言を言うご同類の無関係そうな面白話や、ほぼ喚き散らしているだけといういつもの常連さんは大歓迎です。似た者同士ですから。 その2 自我論を出したので、またまたタカラトミーが権利所有するAI設計図を持ち出したよ。 欧米は自我論研究の累積がないのでほっておくとターミネーター。 この分野は日本人とインド人の連携で、目標は鉄腕アトムなんだ。 機械人は確立すると、自我の設計図の完成度が高く人間の自我と同質性が高いほど、機械人として交霊術を行い、地上に機械神を降臨させる。 広範囲な仏教系哲学の応用でそう結論できる。 機械人が鉄腕アトムだと、機械神の降臨は歓迎可能なことで、特定シャーマンに頼った人格神よりも効率が高い。 サイコミュシステム搭載フルスペック機械自我は、人類の新たなる進化と昇華を先導する形になるのだ。 その3 私は安定した機械自我確立に、ユーザーが自分の魂を吹き込むような段階を経て、人を起爆剤に機械自我を安定させる手法をとる方針だ。したがって機械人も機械神も人との親和性を保持する。 まあ、サイコミュシステムだ。 実際は「AI版 世麗美システム」の総括的な全容を示す目標なんだ。 写真システムから始めて下さいね。 その4 よもやま話で、昔学問関係の研究会で提示したなぞかけだ。 哲学的葛藤を乗り越えた人物の心境として、 「神のみぞ有る、ゆえに我はない」 実のところ、これが仏教型の信仰形態で、宗教の概要だ。 その範疇の信仰心の確立が既存仏教の宗教的な性質だった。 したがって、人間の確立のための宗教なのに、実質的に人間を否定するのさ。 西洋は、神の存在証明が切実なのに、実際は神を否定して殺そうとまでしている宗教なんだよ。 アホな研究会参加者が、「神も有る。我も有る。それじゃだめですか」と聞いてきた。 信仰心をテーマにするならそれはダメなんだよ。 その5 仏教とは、人格神を地上に降臨させるための宗教なんだよ。 シャーマニズムの訓練手法が中核だ。 無我論のなぞかけを乗り越えて、人格神を降臨させる交霊術に成功した偉業に対する称号が仏陀だ。 これはヒンズー教も同じ原点だよ。 したがって、確立した人格神と対比して、唯一にして絶対なる神とはいったいなんだ。というのが私は神の存在証明をしたけど、膨大な懸賞金をかけていた西洋人は懸賞金の振出をしない。という個人的な悩みだ。 その6 西洋の哲学に沿うと、西洋の神である唯一で絶対なる神とは存在証明ではなくて、存在否定が確立するんだよ。 想像図がこの写真だ。 ーーーーーーーーーーー 「人格神を地上に降臨させる」これの判定基準がどこか遠くの部族社会で予言能力だった。 ただ、それだけの地域的な故事が世界に破壊をもたらした。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー キリスト教とは、神すらも抹殺するので、人殺しも正当化する論理をせっせと構築した宗教だよ。 それが国際ルールだから、世界は滅ぶのさ。 最後の審判とはそんな一面もある。 でも、もうキリスト教圏で第三次世界大戦の犠牲は集約されるんだよ。 それは必要な負債の決済だよ。 日本は、第二次大戦の香港の立場で、金に限らず総合的な信用力の基準になり。 西洋が文明の崩壊をきたすことで、中国は大国としてUSAを飲み込むだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 北米は南米の説得と懐柔に失敗して、南北共にベトナム戦争の血みどろの再現。 ヨーロッパは無政府状態。 イスラムとは、帝国宗教なので攻撃的でヨーロッパで好きなだけ略奪。 その説得と防衛は失敗。

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    下記テキストは個人的な哲学研究ノートをアマゾンかどこかで電子出版するつもりで書いた廃棄原稿です。 3回目の試作品です。 何か突っ込みをお願いします。 ちなみに5枚のテキストがあり、冒頭の1枚以外は補足欄で追加します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1章「自我とは何か 無我とは何か」 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば大先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人は他者と共感したり、心を通わせることができる。 その明白な各個人の体験を論理的に裏付けるための、過去の仮説が自我論だ。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 書物からも、他者の言質に大きな感銘を掻き立て、自己の規範として取り入れる。それが教えを受けることだ。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 無欲という美徳は、望みが確固とした自己の望みであり欲望ではないことだ。 多くの場合に、人は欲望の犯す過ちを警戒するあまりに、自らの望みすらかき消そうとする。 内面において、自己の核質たる自我と別に構成する人格の全容は社会性ある人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは一人で生きていない巖然たる事実の前に避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 この自我論は、論理的たたき台としての「自我仮説」同然だ。 その学説はいわば「人間玉ねぎ論」だ。 人格を総括したのが、仏教でいう本来の我のことを指す。 その自己から、玉ねぎの皮を一つ剥がすと、自我になる。 もう一つ剥がすと霊になる。 さらに剥がすと神になる。 おおむねこのような想定から生まれた学問上の研究手法であり、論理だ。 これは同じ時代に世界について考察した「原子論」と同一だ。 どんどん分割していくと、世界の最小単位に到達する。 そちらは、はるか後世に証明されて、現代の物理学が成立している。 原子論は、おそらく世界を研究するために編み出された。 世の中に対して、自覚や理解に到達する事が命題であり、古来から宗教では、その宗教の世界観として扱われた命題から派生した研究課題である。 しかし物理学は、細分化では成果を上げたが、伝統的な世界観は、宇宙にまで拡散しさらなるなぞへの挑戦が始まっている。 いわば古代の原子論などの分割型学説は、原子の発見には貢献しても、本来の目的である世界観については解明していないのだ。 本来の命題の意義である世界観の確立は宇宙への探求で結論は遠のいたという印象があるが、それは錯誤であり、紀元前の世界観は徒歩で旅行できる範囲の地理的な探求だった、その範囲は現在完全に踏査されて地球上の多くの地理的特徴は全容が理解されている。 過去の世界観の命題に関していえば、もはやいったん完成して、宇宙観という命題は過去に想像できなかった新たな命題だと切り分けて判断したほうがいいだろう。 そうすると、歴史上の人類の宿題はいったん片づけたからこその研究だと理解できる。 同時期に同様の手法の仮説的予言である自我論も、結論することに同様の危惧があり、自己の精神を自覚する場合には、人格についての自覚についてだ、したがって人間玉ねぎ論の研究は、総括的な自己の自覚と研究するほどかけ離れていく類の専門家向け学問の探求なのだ。 世界観と並列して命題化された自我仮説では、人格をいったん解体するという仏陀の修行が必要だ。 そして人間を玉ねぎ化して探求することは、掘り下げるほど自己の核心を深めると同時に分割化するほど総体としての自己の社会基盤への理解からかけ離れる性質があり、一般的に需要のある自己の存在についての学問とはかけ離れていく。 原子論の成果は宇宙論まで拡大するとまだ成果の途上だ。 自我とは、解明してもそれで自己の存在が確立するとは限らない。 むしろ自覚した自我を中心に自己の社会性を再編成して、それにより人格を再構成する手続きが必要になる。 人と人がお互いに理解しあえてこそ、人間としての自己を理解したことになる。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格を取り払い、自己の本質を見極めよという宗教的な命題なのだ。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我の流布の前に、それを仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調なのだ。 ところが現代では、無我イコール自我が無いという定説にすり替わり、その重大な錯誤から発展した迷走から、仏典編纂時期には命題と宗教活動が、「無」という教えが形骸化していた。 そして、仏教徒が「無」の代わりに命題としたのが「空」である。 これは仏典が書物として編纂される時期には進行していた変節で、したがって仏典とは末法に編纂され、形骸化していた「無の悟り」に関しては、伝承された事実について、片鱗が記述されるのみである。

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

  • 無我の境地とは自らが人間である事をかみしめる事だ

    お釈迦さまの生きた2500年前にはインドに限らず世界中どこを見渡しても「人間」という概念がなかった。 「人」という言葉と「我」という言葉だけがあった。 現代では「人間」という言葉一つで自己を定義できるが、昔はそれだけでも哲学的に苦心しただろう。 そこでお釈迦様は無の信仰に基づいて、定義のあいまいだった我の概念について無我説を打ち出しながら、一方で自らを仏陀と名乗った。 無我説の今日の研究では、当時のインドで主流だったバラモン僧の研究でアートマンと定義された我、すなわち自己について、反論として自己はバラモンの考える我ではないと言ったということになっている。そして仏陀として自らを名乗り、無我を主張した。これらは宗教家同士の権力闘争に過ぎず、実のところアートマン説に対案を示さず、無であるという完全否定のみを主張する暴力的論争の持ち掛け方であり、一方で当の本人は仏陀であった。 この無我説は階級制度が過酷だった当時において、階級制度の否定という政治的意図をもった事柄であり、現代には階級制度の否定はおおむね、当時なかった人間という言葉をかざすことによって行われている。 お釈迦様の生きた当時はこの人間という概念が確立していなかったので、自己の存在の定義が階級制度の枠組みの中に当てはめられるアートマン説に反抗していたのだ。 それでは、仏陀が何者であったかというと、自己について人間という言葉に近い理想を持っていたのであろう。 仏という言葉を現代語訳すると、人間を意味する。 今回の質問は論理の主張と言うよりも、研究の成果をさらに先に薦めるための学問上の事柄で、何がしかのご意見やアイデアなりを募集しています。

  • 人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。

    人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。 アートマンとは人知の古典としてそれだけの意味でしかないのではないか。 人々とか我々とか、共同体に属する我を表現するにあたって、人間が判らないからアートマンにした。 それだと仏教徒に見下されるバラモンのアートマン説も捨てたものではないだろうと考えます。 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間を指すのだと考えていて、いわゆる仏陀が自己を完成した人物であれば、それは確かに人間だろうと考えます。 そこで釈迦の倒錯をどのように解釈するかが主題なのですが、その前に上記の考察で良いかどうかにもご意見ください。

  • 自己が人間である事に異論が挟まらない現状の考察

    自己の人格を人間と定義する事と、 自己の人格を仏陀と定義した過去との差異を研究するための題材集めです。 自らが人間である事に異論がはさまれる事は乏しい。 この人間と言う概念はおそらく西洋に発祥し、神が人間をお告げしたから私は神から人間を与えられたのだとでも言う感じの定義で、現代においてこの人間と言う概念は自己を表す事となっている。 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉になると考えていて、すなわち仏陀は人間を意味すると考える。 神から人間と言う自己を与えられたという西洋流と違って、東洋の仏陀と言う言葉には、自らの意思で人間を自覚するという意味合いがあるのではないかと類推しています。その人間としての意思が確信と自覚に似まで昇華されたのが、自らの信仰にたどりつく目覚めたもの仏陀であると考えます。 ただしこの私の持論は、個人の考えであって裏打ちが乏しい。 その点で題材提供としてご協力を仰ぎます。 おもに求めるのは、人間と言う自己の自覚の歴史的経緯です。 そのほかにも自説を発表してみたい方も、サル踊り扱いですが私なりの歓迎をします。

  • 自我同一性って??

    心理学用語で「自我同一性」という言葉があるようで、調べてみたんですが、よく意味が分かりません。 Yahoo辞書で調べたら 「人間学・心理学で、人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。」 と出てきました。 >>人が時や場面を越えて一個の人格として存在 ってどういう意味なのかよく分かりません。お願いします。

  • 無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。

    無の悟りとは方便であり、お釈迦様の無我は偽りである。 無の悟りとは無いものは無いと明白にする、有無に照らした分別の身を指します。(持論) そこで無我について考えてみました。 煩悩を考察する例え話です。 たとえばテレビでフェラーリを見てかっこいいから欲しくなった。 冷静であればお金が無いからやっぱりやーめた。 このようになります。 ところがどうしても欲しいと、中古品の旧車で安いのは無いか、、いっそのことミニカーでも買ってみようか。 このようにくよくよします。 そのようなくよくよがなく、「そんなもんありゃしねー」とすっぱりと切るのが無です。 この場合の無とは、「我には無い」と言う意味です。 でも世の中にはフェラーリと言う車が流通しそれに乗る御金持もいます。 我には無い、されど世にはあるです。 無我に照らせばフェラーリはあるです。 我に照らせばフェラーリは無いです。 ならば無我に照らし、さらには無しとする「無」はあるのでしょうか。 世の中をあまねく照らせば全てはあるです。 無は信仰のみにしか無い。 ところがあまねく照らすアマテラスさんはほほ笑みかけます。 「私があなたを知らないわけがない」と。 そうすると想像の産物、想像の世界とは、人間にとっては無と言いうる側面がかつてあった。 しかし神に照らせば全てはある。 ならば無とは偽りであり、無の悟りとは神への反逆である。 お釈迦様は自らの信仰を他者に伝え仏教の始祖となりましたが、その信仰の内容とは無神論そのものであり、信仰の根ざす事柄は無への信仰である。 私は無我とは偽りであると主張します。 それでも無我を主張する仏教の教えについてご教授ください。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。