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人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。

人間と言う概念が無かった過去は自己を我と表現した。 アートマンとは人知の古典としてそれだけの意味でしかないのではないか。 人々とか我々とか、共同体に属する我を表現するにあたって、人間が判らないからアートマンにした。 それだと仏教徒に見下されるバラモンのアートマン説も捨てたものではないだろうと考えます。 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間を指すのだと考えていて、いわゆる仏陀が自己を完成した人物であれば、それは確かに人間だろうと考えます。 そこで釈迦の倒錯をどのように解釈するかが主題なのですが、その前に上記の考察で良いかどうかにもご意見ください。

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回答No.1

 こんばんは。  わたしの考えるところを記します。  1. ★ 人間と言う概念が無かった過去  ☆ 《概念》として扱われたかどうか分からないとしても 《ひと》という言葉はもともとすでにあったと考えられます。  2. 特定のひとが自称するときむろん《われ》と言ったはずです。  3. 《アートマン》は 《息》という意味だそうです。それをいわゆる《霊》という意味でも用いるようになったと考えられています。  4. 《霊》を示す言葉は しばしば《息・風・空気・いのち》を意味する語がいくつかの言語で用いられていると分かっています。      ヘブル語:ルーアハ   ギリシャ語:プシュケー /プネウマ   ラテン語:アニマ / スピリトゥス  5. ブラフマニズムにおいては この《霊》を 大宇宙と小宇宙とに分けて捉えたようです。   梵我一如:    《梵》=ブラフマンなる宇宙の主宰神    《我》=ひとなる小宇宙におけるアートマンなる霊我  6. ゴータマ・ブッダが アン‐アートマンという説を言い出したのは 《ほかのものに依らずひとりつねにどこにでも存在するもの》としてのブラフマンなる存在 つまり《霊》を否定したというところからです。  7. アン‐アートマンの《アン‐》は 否定辞で アン‐インストールとかアン‐エンプロイメント(無‐雇用⇒失業)というときのそれです。(同じ語源です)。  8. 梵我一如ですので ブラフマンを否定するのに アートマンのほうを打ち消す表現を用いました。  9. アン‐アートマンは 《非‐我》とも訳すようですが 要するに《無-我》と訳す場合には――《霊我》が無いということですから―― 霊魂などというわけの分からない存在は無いと言っています。  10. つまり 神などはいないと言っています。つまりその意味は 《無い神がいる》と言ったはずですが そういうかたちでは受け取られなかったようです。  11. この無我が 《諸法無我(何ごとにも 霊魂や神はない)》であり 《諸行無常(この世のものごとで 移ろい行かないものはない)》のことです。  12. 《無い神》は たしかに《シューナター(空)》とも呼ばれたようです。《ゼロ》という意味のようです。  13. 身も心も《空》であると言うのは 《霊魂の無ないし無神論》を言うわけですから その《色(身)即是空および心(受想行識)即是空》を言っただけでは あいまいである。《霊の次元》と《身と心の次元》とを混同していることになるゆえ。  14. ゆえに ぎゃくに《空即是色および空即是心(受想行識)》をもつづけて・合わせて言っています。  15. 《無神論》が 言わば信仰の次元で真実であると同時に その《無い神》のもとにもこの世界において《うつろい行くかたちながらその現象として 身や心もある》とつけ添えています。  16. ゴータマ・ブッダのあと大衆たちは 《シューナター(空)》という言い方は どうも分かりづらいということで――なぜなら 《ゼロがあると信じられる。ゼロがあたかも身や心と成って現象している》という捉え方がしっくり来ない―― けっきょくこの《無我= 無い霊魂= 空》のことを 《ブッダター(仏性)》と呼び変えました。  17. しかも 梵我一如にならって 次のようにも自分たちの神学の中身を衣替えしました。無神論を捨てました。    ○ 梵我一如     (ブラフマン神――――アートマン霊我)    _________________________    ・ マハーワイロ―チャナ・タターガタ――《我れにおけるブッダター》     (大日如来)           (仏性)    ・ アミターバ・タターガタ―――――《我れにおけるブッダター》     (阿弥陀如来=無量光)     (仏性)    ___________________________     シューナター(空・ゼロ)? ―――――――《ニルワーナ(寂滅)》?  18. ゴータマ氏は 輪廻転生説のもとに因果応報がはたらくと唱えるブラフマニズム――それによって 生まれがこの世における身分を否応なく決めることになるというそのような好ましからぬ定めのオシエ――を嫌って アン-アートマン説を打ち出したものと思われますが その思想ないし神学の中身に関しては きわめて無造作であったことになると考えます。  19. けっきょく六道輪廻を受け容れたかたちになっており それをはねのける説としては ゴータマ・ブッダの神格化しかないという状態なのだと考えられます。 

Flareon
質問者

お礼

ありがとうございます。 判りやすいです。 考えを先に薦めるにあたって土台にさせていただきます。

その他の回答 (5)

noname#182794
noname#182794
回答No.6

私は、仲良し仏教教室、などには興味がありません。 私が信仰するのは、至上神バガヴァ―ン、ただそれだけです。 私のお釈迦様の立ち位置は、ヒーロー戦隊でいうと、 いつも冴えない、黄色レンジャーです。 得意技は、仲間の足を引っ張る事。 しかもお金持ってないじじいなので、特に興味はありません。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 ふざけた回答で笑えたよ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

人間、「そんなものありゃしねー」と達観すれば、ラクはラクだが

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 ところで君は信じる神の姿を語れるかい。 その点で「語る言葉はない」これが無の悟りだよ。 そして語るとしたら即座にそんなのありゃしねーだ。 多くの人に信仰の在り方として理解できるはずだ。

noname#182794
noname#182794
回答No.4

>人間が判らないからアートマンにした。 これはこれで良い解釈だと思います。 ウパニシャッドにまとめられたものを 読まれたのでしょうね。中村元ですか。 >そこで釈迦の倒錯をどのように解釈するか その倒錯とは、 「空であるがゆえに実態など無い」 という、空と無のワンセットのことですか?

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 空の話はまた別だが、仏教と言うお友達サークルに入会したいのなら空を重視するのも良いだろう。 釈迦の無の悟りを求めるのなら、空はそもそも誤りだ。

  • kurinal
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回答No.3

「釈迦の倒錯「自己を完成した」」・・・そんなものありゃしねー(笑)

Flareon
質問者

お礼

ありがとうサン。

回答No.2

質問とずれていたらすいません。 今も自分とは何かはわかっていませんが、アートマンが指していたものはそれぞれの人間のそれ以上還元出来ないような「個」を指していたのではないのでしょうか?その個を魂と呼んでいたのではないでしょうか。 それに今でも厳密に人間は定義出来ません。漠然とした定義しか出来ないと思います。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そうだね、人間と言う言葉を使わないで自己を表現した、釈迦に批判された方のバラモンたちには、実は良い考え方もあったのではないかと考え始めていて。 あなたの意見もありうるだろう。 参考になったよ。

Flareon
質問者

補足

お礼の追加だよ。 > それに今でも厳密に人間は定義出来ません。漠然とした定義しか出来ないと思います。 コレは哲学を宗教的言い回しに直すと、自らの信仰を知らないからだといえる。 それはつまり、自らが人間だと実感をかみしめていないのだよ。 古い言い回しで、この実感は悟りを開き仏陀になる事と言い、要するに「ああ、俺は人間なんだな。」単にこれだけの事が2500年前には困難な独自の哲学を必要とした。 このように自己について考える。 人間について考える。 すなわち哲学において西洋では神の介在を意識して、これを発達させている。 私は東洋で、仏を目指さないで、神の介在する哲学の路線に乗ろうかと考えているから、お釈迦様を酒のつまみにしているのだよ。 哲学は晩酌をしながら進めている。

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  • シャカの行った悪事について説明しよう。

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