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仏教では、どの宗派でも「怒り」を捨てれば幸せになれると教えているのですか。
上座仏教についての本を読んでいます。 仏陀の教えを、そのままに伝えているそうです。 原始仏教とも言われています。 そこでは、幸せになる道は一つだ。 「怒り」を捨てなさい。 どんな悪人に対しても、慈しみの心を持って接しなさい。 全ての人の幸せを願いなさい。 そう書いてあります。 それが、仏陀の教えだと。 頭では理解出来るものの、実際これを実践するのはかなり難しいのではないかというのが、正直なところです。 誰にでも「怒り」の感情はあります。 私にもあります。 身内に二人ほど、「怒り」の対象となる人間がいます。 冷たい態度、キツイ言い方、思いやりのない態度、礼儀知らず、素直でない、心から感謝しない、などなど。 こういう人間に対しても、「怒り」を捨てなさいというのですか。 怒らずに、慈しみの心を持って接しなさいと。 そして、その人間の幸せを願いなさいと。 たしかに、いつまでも怒ってばかりいると、こちらの精神がダメージを受けることもあり、精神衛生上良くないのは理解出来ます。 だから、今後は出来るだけ怒らないように心がけるつもりです。 それで、こちらの心の平安が保てるのなら、そうした方が得だと思います。 怒らないのは、まあいいとしても、慈しみの心を持ってその人間の幸せを願うというのは、そうとう修行を積んだ人でないと出来ないのではないですか。 すでに書いた身内の人間に対して、そうしなさいということは、要するに「許しなさい」ということですからね。 たとえ許したとしても、そういう人間はそのことに感謝するどころか、自らの態度を改める気など全然ないし、平気な顔をしてますますええ気になるだけですよ。 少なくとも私にはそう思えます。 それでも、そうしなさいというのが仏陀の教えなんですか。 上座仏教では、そう書いてあります。 では、他の宗派の教えはどうなんでしょうか。 やはり同じ教えなんですか。 それとも異なる教えなんでしょうか。 元は仏教という点では同じですから、「怒るな」「許しなさい」「慈しみの心を持って接しなさい」という教えは同じですか。 浄土宗、浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗などではどうなんでしょうか。 そこのところが知りたくて質問しました。 よろしくお願いします。
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ご参考になれば思い、筆をとらせていただきました。 >「怒り」を捨てなさい。 「怒り」とは、「三毒」の1つかと思われます。従いまして、これを捨て去るのみで、幸福は得られないと考えています。 三毒: 最古の経典と推定される南伝パーリ語のスッタニパータに、貪欲(とんよく)・瞋恚(怒り)・愚癡(ぐち)が述べられています。 ご質問者様のお話では、苦しみ(四苦八苦)の中でも 「怨憎会苦(おんぞうえく)」、を指しているものと察せられます。 怨憎会苦(おんぞうえく): 憎んでいる対象に出会う苦しみ」 >たとえ許したとしても、そういう人間はそのことに感謝するどころか、自らの態度を改める気など全然ないし、平気な顔をしてますますええ気になるだけですよ。 少なくとも私にはそう思えます。 それでも、そうしなさいというのが仏陀の教えなんですか。 以下のサイトをご参照くださいませ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/八正道 その文章には、これら”苦しみ”から解脱するために、「八正道」を説いております。なお、残念ながら、愚生はその境地には至ってはおりませんので、詳細なる説明はできかねます(泣)。 「八正道の中の1つである「正思惟」:具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚(怒り)の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。」 からなる記述がございます。 従いまして、これらの教えはNo.1の回答者様の後半部分とほぼ同じかと考えられます。 さらにまた、 「釈尊の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。」 ともございます。こちらは、No.3の回答者様の後半部分とほぼ合致するかと考えらます(全般部分はどちらかと申しますと、大乗仏教の「空」の概念に近いかと思われます)。 >では、他の宗派の教えはどうなんでしょうか。やはり同じ教えなんですか。 おそらく、そう考えてくださっても結構かと存じます。 ご参考まで。
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No.5のHidocchiでございます。 前回は、単なる用語の羅列に終止してしまい、申し訳ございませんでした。 今回は、少し具体的にお話したいと考え、勝手ながら筆をとらせていただいた次第です。 >そういう人間はそのことに感謝するどころか、自らの態度を改める気など全然ないし、平気な顔をしてますますええ気になるだけですよ。 愚生の見る限り、そうした方達の共通点としまして、 ・往々にして、妬み、ひがみ等のような”ル・サンチマン”を持っているし、癇癪持ち。 ・以外と”欲深”く、見栄を張りがち。 ・ですが、自分(その当人達)は上記2点についての自覚がない。 等が挙げられるともいます。 ですが、、hikiyose77様の仰る「冷たい態度、キツイ言い方、思いやりのない態度」などがある方達が、ひがみ根性もなく、欲も深くないとお思いでしたら、以降の文章はお役には立たないかと思いますので、適当にスルーしてくださいませ。 まずは、上記3つの共通点を簡略化しますと、以下のような図式なろうかと考えられます。 「見栄(欲) → 他人と比較し、妬む → 怒る → 強欲も手伝ってしまって、再度見え(欲)が生じる。」 上記サイクル(輪廻)をただ繰り返しているように見えてしまう(想)かと思われます。 そして、それらの方達に対して、ご自分はどのようにそれらの(輪廻の)光景を受け止める(行)かでございます。大体は以下のようになろうかと存じます。 1. どうにもならない。 2. せっかく、頭もいいのだから、それらサイクル(輪廻)から解放(解脱)したら、もっと立派な人物になれるのに。惜しい! 3. 上記のような方達を受け入れられないという思い(正命)に反省する。 因に、愚生ことHidocchiは、恥ずかしながら、上記「3」の方が多いようでございます。 自分の家の仏壇に手を合わせる折も、 「早く、この愚かな自分を、お迎えに来てくださいませ」 などと、願ってしまう時もございます。 これは、おそらく受け止める方達によって、異なる部分もあろうかと存じます。 恐縮の極みでございますが、この機会にでも、思索を巡らしてみてはいかがでしょうか。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
有難うございます。
- h1r0s13
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見返りを求めない心を持つと、怒りは霧散してしまいます。 何宗、何教と言っても、真理に到達するためのとっかかりです。 例えば、イエス・キリストと言われた方が、東洋では阿弥陀如来として現れています。またマホメットも、元はと言えば日本神道の神々のお一人でした。 肉体の表面意識(主に恐怖心)を取り去ったとき、真理が見えてきます。そして何のために生まれ変わって来たかが判ります。
お礼
有難うございます。 「見返りを求めない」ことは、簡単に出来ることではないですね。 やはり損得を考えてしまいますからね。
- darumazen
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密教の系列では怒りの感情があっても良いことになっています。だから密教系の仏像は怒りの表情の仏像があります。 密教では人間の感情全てをひっくるめて、そのままで悟りの境地に行くことが出来るとしています。だからセックスもOK、物欲もOKですただしそれらの感情の処理の仕方を知らなければなりません。それが修行です。 浄土宗系は「信心」が重要であり、禅宗系は「智慧」が重要視され、怒りの感情が悟りに影響するという記述は有りません。しかし日本の宗派は大乗仏教であり、上座仏教の考えが下地にあるので心安らかな悟りの境地に行くのに「怒り」の感情をコントロールできないようでは悟りは無理である、という考えが共通に有るようです。
お礼
有難うございます。 「怒り」を捨てるのでなく、「怒り」をコントロールするのであれば、出来るかも。
仏教では、この世界を仮の世界、諸行無常、虚像のシュミレーションの世界といいます。なぜかというと、不調和世界の脳と、調和世界の自然の心が、出会うために作られた、仮の世界だからです。だから不調和の脳の世界と、調和の自然の神の世界の、異なる世界が同時に存在します。人の心も、不調和の脳の自我と、調和の自然の心の無我が、合体して出来ています。ブツダは、チャンネルを自然の心である仏の無我に、切り替えたら幸せになれると言ってます。人は勘違いして、脳の思考により、悟ろうと思うからだめなんです。脳の思考の自我は、不調和世界の存在だからです。脳の思考を休めると、人の心と自然の情緒が、交流します。すると気づき、ヒラメキにより、怒りがなにか、慈しみが分かる様になります。幸い日本には、脳を休める方法がたくさんあります。仏教では、座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。雅楽、能、文楽、演歌、民謡、詩吟、茶道、華道、日本画、浮世絵、和歌、俳句、日舞、落語、歌舞伎など
お礼
ありがとうございます。
神も仏も怒るようです。 なので怒るなとは言えないと思います。
お礼
有難うございます。
- QES
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そもそも「怒りを捨てれば」とは言っていないでしょう。 身体に危害を加えられたら防御するのは当然であり、それを受け入れ我慢するほうが間違っています。 しかし目の前で何かが起こったり、人から何か言われて怒るのは、怒る人の心の中に原因(種)があるためであり、他人の発言は引き金にすぎないことに「気付きなさい」と言っています。 例えば「チビ」、「デブ」、「ハゲ」、「バカ」、「田舎モン」等と言われ怒る人が多くいます。 彼らはそれを恥じ、シークレットシューズを履いて身長を高く見せようとしたり、無駄なダイエットに励んだり、アートネーチャーを愛用したり、知らないくせに知ったかぶったり、変に都会派ぶったりして努力し、それがばれないようにびくびくしています。 一方でチビを売り物にしたり(池乃めだか他)、デブを売り物にしたり(森公美子他)、ハゲを売り物にしたり(所ジョージ他)、おバカを売り物にしたり(里田まい他)、地方出身を売り物にしている人(田中義剛他)も多くいますが、彼らはそれらの言葉に怒りの種を持っていません。 (私は、芸能人なら前者より後者が好きです。) 怒りを捨てるのではなく、怒りの原因(種)となるものが自分の心の中にあることに「気付きなさい」ということです。 そうすれば、怒る必要の無いことに気付くはずだと。 あなたの身内がおバカなことを言っても、私を含め多くの人にとっては他人事であり腹を立てることもありません。 しかし身内のあなたは腹を立てるというのは、発言に問題があるのでなく、あなたの心の中に怒りの種があるということです。
お礼
有難うございます。 どうも難しくてよく理解出来ません。 客観的に考えても、その言動に問題があることは事実だと思いますが。 それに対して怒るのは、こちらに原因があって怒るほうが間違っているとは。
お礼
有難うございます。 他の宗派も同じ教えなら、納得できます。 まだまだ勉強が足りないので、年数をかけて学び思索を深めたいと思います。