明治初期の地租3%は重税か?

このQ&Aのポイント
  • 明治初期における地租3%はなぜ重税とされたのか
  • 地券の地価基準による地租3%の重税化の理由について
  • 新政府が3%の地租で幕藩体制時代の年貢総量と同程度の収入を得ることができたのか
回答を見る
  • ベストアンサー

明治初期。地租3%は重税ですか。

1873(明治6)年7月、地租改正条例公布で「地租は、物納を金納に改めて税率を地価の3%とする」と決めました。 3%は納税者にとっては重税だそうです。 江戸時代の年貢は、物納が主でしたが、「4公6民」とか「5公5民」とか、この程度でした。 1.「4公6民」や「5公5民」に比べて3%はなぜ重税になるのですか。 地券記載の地価が高すぎたのですか。 地券の地価は「田畑面積・収穫高・平均米価などを総合して決めた」そうですが、この基準であれば、地価が高すぎたように思えません。 2.新政府は、3%の地租で、幕藩体制時代の年貢総量(幕府領と藩領の計)と同程度の収入を得ることができたのですか。 よろしくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.2

その辺の研究資料がPDFでネットにありましたよ。 地租改正における地価算定法の形成過程 一一地価取調規則の評価について一一 関順也 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/133169/1/eca0991_099.pdf 私もほとんど読んでいませんが一部抜粋します。 ”すなわち「上地」の「真価」は収穫代金の8倍となる勘定であり、「真価」の3%を地租とすれば、地租は収穫代の24%である。” ””「地価取調規則」の地租が地租改正法と同じように地価の3%とすれば,それは収穫代金の24%であり,地租改正法の地租は収穫代金の25.5%, それに村入費を含めると34%にもなる。 正直私は理解できていません。 ですがひとつ思うに、地租改正の農民にとっての大きな転換点は金納であることとともに、課税対象が検地帳に載っている田畑から全土地に広がったこと、村の持つ入会地が課税対象となったことでしょう。 地主がつかず税を納められない村の入会地は国に没収されます。 入会地は村によりばらばらなので、村によっては地租改正前より税が軽くなりますが、広大な入会地を持つ村は地租改正よりはるかに税が重くなるのではないでしょうか?あとは地租改正により寺社領の多くにも課税が及ぶようになります。 おそらく不満の理由を日本全国で見るとわかりにくくなり、村単位で見ると負担が大きく増したケースがありそれが不満を読んだのではと推測します。

参考URL:
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/133169/1/eca0991_099.pdf
kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私の能力不足で論文を読んでも分からない箇所が多いですが、それでも「地租改正法の地価算定」については、ある程度理解できました。 自作地の場合(検査例第一則)では、「収穫代金からその15%の種籾肥代と地価3%の地租及び1%の村入費を控除し、(以下略)」とあり、さらに「種肥代15%の定率がいかに収益計算の現実を無視しているかはいうまでもなく、ことに生産費率の高い劣等地を不利にする。また、労賃部分が考慮されていないために労賃収入をも地価に帰属させることとなり、実際の土地価格よりも遥かに高い地価となることも見逃せない」とあります。 こんな事情があるにせよ、「地租は収穫代金の25.5%, それに村入費を含めると34%にもなる。」ということですね。 数字だけではわかりませんが「4公6民」や「5公5民」よりも、納税者から見れば重税だったのでしょう。 「地租改正法の地価算定」をキーワードで検索するといろんな事例が出てきました。 お蔭様で疑問は解消しました。感謝申し上げます。

その他の回答 (2)

  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.3

江戸時代は、経済はふたつの単位で動いていました。 金(かね)と銭(ぜに)です。 今は金銭といってその差自体もないですが、カネというのは小判大判のことです。これは大きな取引の時だけ使用する特別な貨幣であり、普通庶民は持ちません。これ自体の材料が金銀です。つぶしてもなんらかの価値があります。 ゼニは、一分金とか一文銭というような、小さいかたまった貨幣であり、これが市中に普通に通用する通貨でした。材料はもっと安い金属で、もし溶かしてつぶしたら単なるがらくたくずです。兌換できない貨幣です。 もちろん、四分で一両というような振替できる単位体系ではあります。 一分金を8枚持っていけば、帳簿では二両預かりということにしてくれます。 だから、たくさんのゼニの借金がまとまった状態をカネで払うことはありえましたが、これも単純ではない。 金本位制というもので、一両の小判はそれに匹敵する金の重さと等価なんです。 ということは、経済学の原理が働き、世の中の金の方が大判小判全量より多いのであれば一両分の小判は金一両分よりも高いけど、もし貨幣のほうが多いなら金より安いという計算になってしまうのです。 ゼニはそんなことはありません。その価値があると共有して皆で使っているものですから、価値体系は破綻いたしません。 このへん、最近の映画ですが、「殿、利息でござる!」というのにきっちり出ています。藩が資金不足のために大量に貨幣を発行した結果、その金融価値がさがってしまったのです。 そこに町人たちがいくらいくら上納します、お貸しします、といって申し出てきた。 これを借りると利息がでて損だから退けたい。ただカネは欲しい。そこで重役が「その金額をカネでもってこい」というのですね。 それを聞いた役人は安心して町人によかったよかったと報告した途端、全員が凍った。ゼニであれば額面の金額はすでに用意してある。しかしカネだというなら、と変換してみると、何千両かの不足になるという仕掛けを見抜いたわけです。藩がむやみに貨幣をつくってきた破綻財政のおかげです。 このとき、悪徳商人と呼ばれてきた男、実はほとんど盲目である人間が、それを全部だそうといって、自分は倒産を覚悟するのです。そして主人公の息子が年季奉公に自分の10年を売りその前金をかせごうとするわけです。そういう皆が死ぬような覚悟をしてなんとか作り上げたお金を藩に貸し付けることに成功した。重役の松田龍平が唖然としてしまうという光景がみどころです。 これと同じことが、物納から金納といわれた瞬間に起きたと考えてください。 額じゃないです。計算するのは自由ですが、時代を動かしたのは金額じゃない。 百姓は米を何俵ぶん名主を通じて納めれば納税が済んでいたものです。そこには金銭が一切かかわっていません。資金繰りなんかを考えなくていいわけです。 今年はよくとれたな、よかったよかった。 今年は不作だな、嘆願して別の作物なんかでなんとか許してもらおう。ダメだといわれたら最悪一揆だ、で済んだわけです。 ところがカネで納めろといわれたので、カネを集め溜めて上納しなければいけないことになった。そりゃ途方にくれます。普段の生活で作っているものは稲や野菜だけです。カネなんか作っていないからです。 高い安いというと説明がしやすいから歴史書はそう書くのです。 大久保が0.5%減らして収まったというのは、単純なことです。 そもそも百姓というのは商人ではありませんからきっちり計算して損得を言っているわけじゃないのです。数字で言い合いをしたりすることは不得意なんです。 そこに、いきなり、物納から金納にせよととんでもないことをいったときに3%だった。 不平不満を言います。それは本来は金納に対する不満だったのです。 しかしそこで、3%を2.5%にすると言われた。一分の半分減らすといってくれた。 ああ何というおもいやりだろう、と一瞬感じてしまったわけです。錯覚です。 われわれの負担を軽くしてくれた。それがどの程度の軽さか、経済の場に居ない とよくわからないのです。 そういう心理を大久保利通というのはよく読めていたのです。 われわれは、純粋に経済的な計算をして、当時の政策を判断しようとしますが、当時はそうではないのです。 政府側の話をしますと、年貢で農産物で収納している場合は、その資産と本来なら収納できる金額とをバランスして経済計画を立てていたので、そのバランス方法は担当閣僚の判断に属していたのにたいし、もし金納になったら、納税金と収納金が額面でバランスしますから、経済計画は立てやすく、判断者により内容が変わるということもなくなったのです。 要するに、初めて簿記が成立するようになったわけです。 こういうのを近代化というわけです。 損した得したという話ではありません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そもそも百姓というのは商人ではありませんからきっちり計算して損得を言っているわけじゃないのです。数字で言い合いをしたりすることは不得意なんです。 >われわれは、純粋に経済的な計算をして、当時の政策を判断しようとしますが、当時はそうではないのです。 なるほど! 面白い話です。参考になりました。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

「4公6民」「5公5民」はあくまで米の取れ高に関する物です。ほとんどの農民はコメ以外の物も作っていましたからそれは取り立てられたりしませんでした。しかも出来の割合ですから、天候不順などで出来が悪ければそれなりの量になります。 明治政府はそれまでの藩の事業とは比較にならないくらい多くの公共事業を行いましたから、どう考えても減税になるようなことをするはずはありません。凶作だろうが決められた金額から計算した税金を情け容赦なく取ったので、秩父事件のようなことが起きたのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 Wiki「地租改正」の「地租改正の影響 安定した税収の確保と生産性の向上」の項目の説明では、 「このため、士族反乱と農民一揆の結合を恐れた大久保利通の意見で、前述の通り、1877年(明治10年)に税率が2.5%に引き下げられた。これにより、江戸時代に比べ平均2割程度の減税となった。」とあります。 Wikiを全て信用しているわけではないですが、わずか0.5%引き下げただけで収束しています。(しかし、この説明は間違っているような気がします。) 重税という感覚的な表現では埒が明かないので、ある地券を例に、従来の年貢がいくらで、これが地租いくらになった、というような例を探しています。 収穫高の「4公6民」「5公5民」から、固定資産税のような地租3%になったわけですね。 減税するはずはないですから、幕藩時代と同様またはやや重税になるような施策であったと思います。 そこで、政府側から見て、収入が増えたのかの確認で質問“2”をしました。

関連するQ&A

  • 明治時代の地租改正について教えてください。本当にわかりません

    地租改正について質問です 明治時代、地租改正が行われてから 小作人は益々困窮して小作人を統括する 地主だけは儲かってウハウハになったそうですが 何故そうなるんですか?原因が分かりません 例えばある集落に毎年米を10トン消費する小作人 一家がいるとします。その年は大豊作で米が 100トンとれました。10トン食べて90トンを地主に 渡します。早速地主は市場で1トン100円で売ります そして3%を国に渡して8730円儲かります。 翌年は大凶作で米が19トンしかとれませんでした 小作人は10トン食べて9トンを地主に渡します。 市場では全国的な凶作のせいで米価が高騰中。 去年とは違い1トン1000円で売れました。 そして9000円儲かって例の様に3%を国に納めます そしたら小作人は毎年安定して10トンの米を食えるし 地主は毎年8730円もうかる。 国は地主から毎年270円もらえるじゃありませんか どこで歯車が狂って地主だけが儲かって 小作人が貧窮して「地租改正反対一揆」まで おこす必要があるんですか?

  • 明治時代の税率について

     中学時代からの疑問なのですが、明治の税率の3%はなぜ厳しかったのでしょうか?  中学の授業で江戸時代まで四公六民やら、五公五民と言う税率を聞いていて、明治に入りいきなり地租改正で3分になり「半分取られてたのが、いきなり消費税程度(当時)!?」と、本気で驚いた覚えがあります。さらに、一揆が起こって2分5厘になり「そこまで0,5%を払いたくないのかなぁ」と思っていました。  当時もそのときの社会の先生に聞いたのですが、答えは 「全体収入の3%は結構痛いよ…」 と言うものでしたが、いまだにわかりません。年貢で40%払っていた当時の民衆が、税金の3%が痛かったとは意味がわかりません。きっと何かのわけがあるのでしょうが、結局中学校時代からどうしてもわかりませんでした。  どなたか教えてください。そしてもし中学時代の私にもわかるレベルで教えていただけたら、非常に幸いです。よろしくお願いします。

  • 江戸時代の百姓地とは。

    江戸府内(朱引内)及び隣接する府外の地域の地図には、所々「百姓地」と記載されている土地があります。 地図では、田畑や宅地とは明らかに区別されています。 百姓地とはいったい、どのような土地ですか。 1.所有者はだれですか。村または町の共有地ですか。 2.年貢は、田畑と同様に納めるのですか。 3.土地の状況。荒れ地とか休耕田とか宅地とか。 日本国語大辞典(小学館)には「江戸時代、都市の市街地に隣接した農地をいう。」と説明されているそうです。 4.なぜ百姓地ができたのですか。所有者が死亡とか逃亡したとか。湿地帯のように田畑に向いていないとか。それにしても、活用しなかったのはなぜですか。売却できなかったのですか、例えば抱屋敷として。 よろしくお願いします。

  • 明治6年地租改正。

    年貢はなくなり金納になりました。 これまでは、庄屋・名主の指示どおりに米を庄屋・名主宅に運び込めばよかったのですが、金納になったので、農民は戸惑ったと思います。 1 村方3役のような自治組織は存続していたのですか。   納税の指示は役場から直接、農民に来たのですか。 2 農民は米を、どこで売ったのですか。   近くに市場や取引所があればよいのですが。    米を扱う業者が回ってきたのですか。 3 当たり前かもしれませんが、役場まで納税に足を運んだのですか。    よろしくお願いします。

  • 地租はいつまであったのか?

    地租改正により地価の3%を地租として納めるようになり,その後も%は下がっていきますが,この制度はいつまで存続したのでしょうか?現在は固定資産税になるのでしょうか?

  • 明治初期について

    今、明治初期について調べています。 この頃の商人や生活、罪人について(法律みたいなもの)何か知っていること、参考になるような書籍がありましたら、教えてください。おねがいします。

  • ‘地主‘に重税をかけないのはなぜ??

    こんにちは。‘地主‘という存在が日本で一番の悪人だと思っている者です。 世間の皆様はホリエモンや政治家を叩きますが彼らより悪人なのは‘地主‘ではないでしょうか? 堀江社長は自分の頭脳と才能でお金を稼ぎ出したわけで別に犯罪行為で儲けたわけではありません。 政治家だって民主主義により選ばれたわけです。 しかし‘地主‘(特に東京の)はたまたま農家で土地があり戦後の高度成長で土地の価格が上がっただけで大金持ちです。都内でしたらまったく働かなくても億万長者です。 自分の知り合いで少々知的障害を持っている方がいますが、親が地主の為働かなくても年収ウン千万円です。 ‘自称‘写真家、‘自称‘アーティスト(又は芸術家)、‘自称‘何とかの活動家‘などなど‘どうやって収入を得ているのだろう?食べていけるのだろうか?‘と疑問に感じる‘職業‘の方々はよくよく話を聞くと大抵実家が地主で本職は‘不動産管理‘で生活は‘家賃収入‘というパターンが多いです。(要するに実家が地主ではなかったらニートもしくは無職) 別にお金持ちを妬んでいるわけではございません。 イチローや自分で事業を起こし成功した方々は立派だと思いますし、才能があり努力した人間にはそれなりの報酬があって当然だと思います。 しかし、‘地主‘というのは努力、才能にまったく関わらず大金をいとも簡単に稼いでいます。多くの方が毎日一生懸命働いて稼いだ月収の中から家賃を支払っていると思います。その家賃を受け取るのはろくに働きもしない‘自称‘芸術家の地主の息子だったりするわけですがどう考えておかしくないでしょうか?資本主義はそういうものだ。と言ってしまえばそれまでですがなぜ国は地主に重税をかけないのでしょうか? 時代劇でも‘地主‘は悪役です。

  • 明治初期の金額「匹」

    古文書をみていると、天皇陛下から褒美として金500匹を賜ったとあるのですが、その「金500匹」とは現在の貨幣価値にしたらどれくらいの金額なのでしょうか。また、当時何を買えたのでしょうか。

  • 明治初期の日本について

    明治初期で、日本社会・経済が独立した近代工業国家になれた原因ってなんだったのでしょうか? 本とかで読んでも、わかりずらくて理解できませんでした。 誰か詳しく教えてください!

  • 明治~昭和初期について

    明治~昭和初期の日本は、女性•障害者•高齢者•外国人 で、人からの扱われ方が酷かった順番は何ですか?