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言語を学ぶ=英語と英語からの外来語が多い以外
- 言語を学ぶことは英語を学ぶことで一時期に英語からの外来語のカタカナ表記が多すぎる
- 言語は意思疎通や情報を得るために有用
- 英語=外国語で世界を知らないといけないのと、英語支配に対して各言語尊重と多極的多言語主義のイメージなどは論点がちがう
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「言語を学ぶことの意義」をお尋ねですね。 言語を学ぶことには、大きく分けて、「実用・教養・思考力」など3つの意義があります。つまり、言葉を学習することの意義(ないし目的)は、伝達の具として使うこと以外にも、教養・思考力錬成などの効用を考えることができると思います。以下、順に説明します。 (1)実用的意義:当然ながら、伝達の大半は言葉によりますので、その学習により会話などによる意思疎通の能力が向上することは言を待ちませんが、その延長上にコレポン(商業通信)、外国文化の理解・吸収(因みに観光の「光」とは文化のことだと聞きます)、さらには学術的交流などなどがあり得ると思います。(一般的には、この意義・効用が一番強調される傾向がありますが、私の個人的な意見としては、次の教養的意義を最も重視しています。) (2)教養的意義:ゲーテは言ったそうです、「外国語を知らぬ者は自国語を知らぬ」と。なるほど、言葉は「使っている」からといって、必ずしも「知っている」(認識している)ことにはならないかも知れませんね。我々は外国語を知って、それと比べることによって初めて、自国語を「知る」(認識する)のでしょうから。およそ「己」(と己に付随すること)は、それを他と比較して初めて分かるのでしょう(因みに「分かる」は、「比べて分ける」から来たと聞きます)。ということは、外国語を学ぶことで、その言葉やそれを使う人やその国のことを知りますが、さらに進んでは、自国語や自国民や自国の文化などを知ることにつながります。基本部分を要約すれば、「外国語を知って初めて自国語を知る」、「他者を知って初めて己を知る」ということではないでしょうか。 (3)思考力錬成の意義:言語はすべからく、有限個の材料を使いながら、無限の表現を可能とします。つまり、閉じた体系でありながら、無限へつながる開いた機能を有するということで、そのあたりの仕組みを学習する過程で我々は無意識裡に頭脳を鍛えていることになります。すなわち、言葉の学習によって、副次的に、考える力(分析力・推理力・判断力)を鍛えている、ということでしょう。(ただしこれは言語学習に専属的効用でなく、例えば数学や論理学などにも同じような効用があると思いますが。)そして、上記の教養的意義との相乗的効果として、思考力・判断力・批判力などを鍛えるのみならず、認識・見識・世界観などを涵養することにつながるものと信じます。 ところで、言語学者サピアと人類学者ウオォーフは言ったそうです。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」(サピア・ウォーフの仮説)と。これすなわち、我々の思考や行動、とりわけ知的営為が、言語に縛られており、それに左右され、決定づけられる、ということのようです。極端な単純化との謗りを怖れずに具体的な例を挙げれば、「語彙力1万語の人と2万語の人とでは、頭脳労働の能力が2倍違う」、ということになる、といえるのだと思います。ともあれ、「言語の知識」は、想像を絶するほどに広く深く我々の生活と営為に作用し影響を与えている、といえるでしょう。特に、「すべての学問は言語学だ」と断言した学者もいるほど、知的営為での言語的拘束は計り知れないものがある、と考える次第です。
お礼
実用、教養、思考力など整理をありがとうございます。 誰かに伝達するのは実用ですね。 自分の使っている言語とは何かは教養ですね。 組み立てているときなど思考の柔軟性などはやはり違う言語をとおして、あるのかもしれません。日本語以外の組み立て方をしてみるですね。違う伝達になるので、違った会話になりますね。 ご回答ありがとうございます。