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戊辰戦争時の軍装に詳しい方
箱館戦争の末期に 函館において徴募に志願した歩兵が 身につけさせられた軍装(表現が正しいのかどうか不明)は どのようなデザイン(?)だったのか ご存じの方いらっしゃいませんか? できればその外見など 具体的な挿絵などが見られるとなお助かるのですが。 加えて 志願した人たちに刀の扱いなど猛特訓をしたと聞いています。 その場所はどの辺りだったのでしょう? 榎本武揚が五稜郭を明け渡す直前くらいだと思いますが 函館軍が敗走を続けて 現在の大野辺りで挟み撃ちになったとか。 その場合、志願兵らはどこの戦場から敗走してきたのか 正確なものではなくてもいいのですが 考えられる戦場を教えて下さい。 よろしくお願いいたします。
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- jkpawapuro
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詳しくはないですがまあ一般的なことを。 基本的にもとの所属の格好です。 官軍は官軍でも薩摩藩兵は薩摩藩兵の、長州藩兵は長州藩兵の格好です。 薩摩は英式歩兵を、幕府は幕府陸軍と呼ばれる仏式歩兵を用意してますので、そのものたちは洋式の軍服を着ています。 奇兵隊も隊服は軍服とはいいがたいですが洋服ですね。薩摩長州でもこういった特殊な部隊以外の兵士、幕府でも幕府陸軍以外のものは基本的に和装です。 それ以外の諸藩にもわずかに洋式歩兵はありますが、ごく一部です。この時代はもう射撃戦で戦国時代の鎧は弾丸が貫通してしまいますので、鎧兜を着ている人はほとんどいないでしょう。 動きが鈍くなるだけです。 戊辰戦争中の薩摩藩士の写真がありましたが、このように軍服と和装が混じっています。 http://fukuroutaxi.blog.fc2.com/blog-entry-26.html
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
おそらくは野良着と呼ばれる和服の作業着姿の者が多かったのではないかなと推測します。 理由は、当時の函館には産業と呼べるようなものが存在しなかったこと(つまり服を自前で仕立てあげる生産施設そのものが存在しなかったであろうこと)、当時の人々はまだ洋装に慣れていないので洋装そのものを嫌う人も少なからずあったであろうことです。 訓練の場所なんて、もう伝わっていないでしょうね。また敗走兵も本人たちは無我夢中で逃げてきただけですから現場は混乱してなにがなんだか、ですよ。 こう考えればいいと思います。あの東日本大震災のときに避難所に避難してきた人たちはどこの地区に住所がある人たちでしたかと聞いてももう分かりようがないし、本人たちも無我夢中で逃げてきただけだから何が何だかでありましょう? 戦場というのはものすごく混乱しますから情報が錯綜するんですよ。ましてや当時はさすがにきちんと記録をつける係の人もいませんでしたからね。
お礼
eroero4649さま ご回答をお寄せ下さりありがとうございます。 おっしゃる通りだろうと推測はできます。 ただ、箱館戦争に志願した人の聞き取りに (数行のかなり短い話です) 鎧のようなものと、刀を渡され特訓を受けた。 そして 最後は大野のあたりで挟み撃ちになったというのがあり 実際はどのようなことであったのか知りたかったので ここへ質問をアップしたのです。 参考にさせていただきます。
お礼
jkpawapuroさま お寄せ下さいましたご回答で 貼って下さった写真、URLは存じておりました。 冒頭に書いて下さったのは あくまでもどこかの隊や藩に所属している兵のことのようですが 知りたかったのは、質問に書きましたように 箱館で徴募に応じた歩兵、つまり元来武士ではなかった人たちのことです。 それはさておき、回答No1の方も仰っていましたように この戦の激しさ、射撃戦だということを考え合わせれば 鎧がむしろ仇になりそうだと言うことは理解できました。 先の方へのお礼にも書きましたが 五稜郭の戦いの徴募に志願した一般人の 聞き書きにとらわれてしまっておりましたので お二方のご回答が正しいのだろうと思われます。 ありがとうございました。 とらえ方の角度を変えることができました。