• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは。)

大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは

Why-J-peopleの回答

回答No.11

引き続き第七師団(関東都督)?関連。 下記<24><25><26>は所属?ですが、便宜算入。 <24>○標題:輸送に関する指示の件 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03010094900 [5/13]※[10/13]?重複、別個?便宜上重複扱い。 臨時鐵道聯隊 乘船(※宇品10.13)上陸日次豫定表  上陸地 釜山(※10.15) <部隊號>/人員(將校-下士卒)/ 臨時鐵道聯隊(浦潮行ノ分ヲ除ク)/ 45 - 1008 / ○ 計            / 45 - 1008 / ------------------------ ※合計            / 45 - 1008 → 1053 ------------------------ <25>○標題:輸送に関する指示の件 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03010082200 [9/12]※[11/12]?重複、別個?、便宜上重複扱い。 第二臨時測圖部 乘船(※宇品10.2)上陸日次豫定表  上陸地 釜山(※10.4) <部隊號>/人員(將校-下士卒)/ 第二臨時測圖部        / 16 - 31 / ○ 計            / 16 - 31 / [10/12]※[12/12]?重複、別個?便宜上重複扱い。 野戰交通部及第一線區司令部要員 乘船(※宇品10.2)上陸日次豫定表  上陸地 釜山(※10.4) 野戰交通部及第一線區司令部要員/ 0 - 9 / ○ 計            / 0 - 9 / ------------------------ ※合計            / 16 - 40 → 56 ------------------------ <26>●標題:輸送に関する指示の件 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03010094800 [5/5] 第二自動車隊 乘船(※宇品11.9)上陸日次豫定表 上陸地 釜山(※11.11) ※「11.4」以後の「宇品11.9→釜山11.11」ですが、 参謀次長の通牒日付が[1/5]「大正7.10.15」により算入。 第二自動車隊         / 6 - 96 / ○ 計            / 6 - 96 / ------------------------ ※合計            / 6 - 96 → 102 ------------------------ ※合算<24><25><26> 1053+56+102=1211 ------------------------ 前回分<21><22><23>      4322+2856+146= 7324 今回分<24><25><26> 1053+56+102= 1211 併せても                   8535 やはり「3.北満洲方面、関東都督の隷下、第七師団(満洲駐剳)ほか 戦闘員7,100非戦闘員5,300計12,400」にも足りません。 第十二師団関連「28,587」名 第三師団関連 「27,703」名 第七師団関連?「 8,535」名 合算しても  「64,825」名(戦闘員・非戦闘員未区分)、 「戦闘員42,200名、非戦闘員16,400名合計58,600名」は超えるものの、 「戦闘員44,700名、非戦闘員27,700名合計72,400名」には及びません。 下記など「大正7.11.9」参謀次長通牒につき泣く泣く除外しました。 ×標題:輸送に関する指示の件通牒 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C03010104100 [5/6] 下記など関東都督隷下部隊号等はありますが、人数に繋がりません。 ×標題:附録第12号 出動ニ関スル関東都督命令 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C13110250300 また、下記など「大正七年十二月調」を別にしても人数はあれど、 これだけでは参考になりかねます。 ×標題:戦時旬報 自大正8年1月21日至同年1月31日 第7師団司令部(1) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C14030415600 [26/47] などとボヤキを書き込むほどですので、私の力量では既に限界かも・・・ 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 非戦闘員の部隊を部隊号で正確に判断することは難しいということがよく分かりました。 關東野戰建築部、第二自動車隊他、判断できない部隊は数多くありました。 電信や電話を業務とする部隊は、非戦闘員の部隊かと思っていましたが、電信・電話は師団の運命を左右する業務で、前線で活動するわけですから、はたして非戦闘員としてよいのか疑問です。 >×標題:戦時旬報 自大正8年1月21日至同年1月31日 第7師団司令部(1) 「航空廠」の記述があります。 シベリア出兵時、所沢の航空大隊(1個)が出動しています。 たいへん参考になりました。

関連するQ&A

  • 第一次大戦時の日本とヨーロッパ諸国の陸軍師団数

    第一次大戦当初、ヨーロッパ諸国に比べて陸軍師団数がかなり少なかったのではないでしょうか。またそうだとしたらなぜなんでしょうか。師団というよりも、兵員数といったほうがいいかもしれません。それが第2次大戦時には、日本は100を超える師団を作れたのはなぜなんでしょうか?

  • 太平洋戦争末期の師団長について

     太平洋戦争末期、日本は根こそぎ動員によって200近い師団を編成しました。ただ、兵器が圧倒的に不足していたため、ほとんどが戦闘能力を有していなかったことが知られています。  しかし、いかに兵器が無くても兵員は徴兵で引っ張ってこられるため、丸腰でも人数はそろえられるかもしれません。しかし、師団長はどうなのでしょう。師団長は普通中将であり、親補職です。戦争末期の日本には200人を超える現役中将がいたということなのでしょうか。また、いちいち親補式を行っていたのでしょうか。  200人も中将が必要となれば、陸大出身者以外の登用、少将クラスの特別昇進、さらに予備役編入されて長いロートルも引っ張ってこないと間に合わない気がしますが、そのあたりの実態について教えてください。なるべく具体例を教えていただけるとうれしいです。

  • 本土における陸軍軍人軍属の死没者数

    厚生省援護局が、昭和39年に作成した「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」によれば、 陸軍軍人軍属の死没者数は、日本本土(含周辺)で58,100人、沖縄諸島では67,900人となっています。 本土では地上戦は無かったはずですが、なぜ激戦地の沖縄に匹敵する死者が出たのか、分かりません。 軍需工場や師団の兵舎が空襲されたのですか。 一度に大量の犠牲者が出た例があれば教えて下さい。 よろしくお願いします。 大東亜戦争に於ける地域別兵員数及び戦没者概数 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo16.html

  • 近衛兵とフィリッピンでの戦闘について教えてください。 妻の父は近衛兵で

    近衛兵とフィリッピンでの戦闘について教えてください。 妻の父は近衛兵でフィリッピンに出征して名誉の戦死をしたと聞いています。妻は65歳昭和20年1月生まれです。19年の3月に休暇で帰宅してすぐ出征しました。戦死の連絡はありましたが詳細は判りません。母も亡くなり当時のことを知っている人はおりません。せめて我々が元気なうちに現地を訪れ、花など手向けたいのですが何も分かりません。ネットで調べてみましたら近衛兵は外地に出兵していますが19年にフィリッピンに出兵したとの記述はありません。第一師団はフィリッピンで戦っていたのでそれに合流したのか、戦死した場所はどこなのか、またこれらのことを調べるのにはどこの役所に行けばいいのか。どうぞよろしくお教え下さい。 五十嵐拝

  • 帝国海軍の軍縮。

    ネットの情報によれば、陸軍は、「三次にわたる軍備整理の結果、将兵約10万人(平時兵力の約3分の1)を削減した」また、「山梨・宇垣軍縮による陸軍省予算の削減の効果は、軍縮実施前と比較して1割減程度にとどまった」そうです。 海軍軍縮に関しては、艦艇の数やトン数を英米に比べて何割にするとかの話はよく聞きましたが、大正から昭和初期にかけて、海軍も兵員数や予算を削減したのでしょうか。 教えてください。 よろしくお願いいたします。

  • シベリア出兵について

    1918年から24年にかけての日本軍のシベリア出兵についての質問です。 日本はシベリアという広大な大地に7年もの間(第二次大戦より長いです)大軍を送り込み、東シベリアの広大な地域を占領していますが、なぜ 1 その戦いを記した資料が少ないのでしょうか。あったとしても世間に知られていないのでしょうか。 2 意味のない出兵だったとされているとはいえ、大規模かつ長期に渡るものだったと思います。それなのになぜ世界史における扱いが極端に小さいのでしょうか。 3 日露戦争や第二次世界大戦の戦史マニアは多いですが、戦史マニアにとってシベリア出兵は魅力がないのでしょうか。 4 日本軍は占領に際し、どういう兵器を使用したのでしょうか。また占領政策はどのようなものだったのでしょうか。 5 ロシアとの戦争において気をつけるべきことは冬対策だと思いますが、ナポレオンやヒトラーと違って日本軍は冬将軍にどう耐えていたのでしょうか。 わかるところだけで結構です。個人的には第二次日露戦争、もしくは第一次日ソ戦に位置付けられるべき大事件だと思うのですが。

  • アメリカの赤字削減について

    アメリカでは赤字を減らすために様々な政策が模索されたり採用されていますが、その中の一つで ・国防総省の人件費の削減 ・海軍の艦船の数を減らす という案があるそうです。 具体的には、「陸軍の兵員数を5万人ほど減らし、戦闘には関わらない支援要員を一般市民から構成する。」と、「艦船を40隻ほど減らす」 ということです。 これをしてしまうと、国の防御力や戦闘力が怠ってしまうと思うのですが、長期スパンで見たとき(約10年後)、$130Billionも削減できるそうです。 国民を守るために、防衛対策は必要だと思います。しかし赤字は大きな問題となっています。 赤字を減らすために何かを犠牲にしなければならないと考えた時、この政策に賛成でしょうか? ご意見を聞かせて欲しいです。 よろしくお願いします。

  • 艦隊が壊滅したのに海軍兵の数が増えてる件

    http://d.hatena.ne.jp/nyankosensee/20070708/1183879352  上のサイトに第二次大戦中の日本海軍兵員数が載っています。  それによると開戦時の昭和16年に31万人だったものが、終戦の昭和20年には169万人と5倍以上にまで激増しています。昭和20年なら連合艦隊は殆ど壊滅しているはずなのに・・・  本土決戦に向けての陸上兵力を増やしたいのなら、海軍陸戦隊でなく本職の陸軍の方を増やせば良いと思うのですが、なぜ乗る船もないのに海軍はこんなに兵員数を増やしたのでしょう?

  • 本野一郎の経歴

    「本野一郎」という人物の経歴について調べております が、以下のことしかわかりません。彼の経歴について詳細 をご教示くださいませ。 (これまで自分で調べることができたこと) *生没年月日不明(是非ご教示ください) *第18代寺内内閣において大正5年11月21日より大正7年4月23日 まで外相を務める。 *1918年3月にアメリカのシベリア出兵反対についての対日 覚え書きが通告されたとき、アメリカの反対を押して出兵決行を主張。 *1901(明治34)年から1906(明治39)年の時期に駐仏大使 *少なくとも1907年から1916年まで駐露大使で、日露協約結ぶ当事者 *子爵の爵位をもっている。 ************************* 彼のことについて詳細が載っている参考文献をご紹介いただければ助かります。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 支那事変中の装備増強

    日本陸軍が、大陸で常設師団、特設師団が多く戦場にいた時に、30代師団と第一次独立混成旅団が内地で編成されました。 この時に装備は、完璧にそろえられたのでしょうか? それだけの、生産能力があったのでしょうか? どんな兵器が、装備されたのでしょうか? 同時期に、関東軍の国境守備隊も配置されたのにです。 国境守備隊の装備兵器も、教えて下さい。 2年前の特設師団出征時には、一昔前の旧式兵器を倉庫から引っ張り出して、頭数だけ揃えた様な状態だったのに・・・。日露戦争時代兵器まで動員しているのにです。 戦史叢書シリーズは読みました。 防衛研究所行きは、お断り。 詳しい方、お願い致します。