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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは。)

大正7年シベリア出兵の「非戦闘員」とは

Why-J-peopleの回答

回答No.12

今回はコーヒブレイク時につき、少しだけ・・・ >非戦闘員が死んだ場合、「戦死」になるのだろうか、 >戦死であれば靖国に合祀されるのか、 シベリア出兵時限定ではなく「大正3~9年戦役」と範囲は広いですが、 『官報(1920.4.14)』「陸軍省告示第七號」には、 下記の役職名等で非戦闘員とおぼしき方々が登載されています。 通譯、陸軍(一等・二等・三等)看護長、陸軍(一等・三等)軍醫、 陸軍(一等・上等)計手、陸軍砲兵(二等)銃工長、陸軍輜重輸卒、雇員、 陸軍(一等)蹄鐵工長、陸地測量師、陸地測量手、傭人、憲兵補助員など。 ●『官報.1920年04月14日/大蔵省印刷局[編]/日本マイクロ写真』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954420/1 [1-3/26](345-348頁) ◎陸軍省告示第七號 大正三年乃至九年戰役ニ關シ戰死竝戰傷後死歿シタル左記人名ノ者 本年四月靖國神社ヘ合祀仰出サル 大正九年四月十四日 陸軍大臣 田中義一 また下記は「戦死」ではない「死歿」のようですが、 こちらにも「特別ヲ以テ」非戦闘員とおぼしき方々が 多数登載されています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954420/3 [3-4/26](348-351頁) ◎陸軍省告示第八號 大正三年乃至九年戰役ニ關シ死歿シタル左記人名ノ者 特別ヲ以テ本年四月靖國神社ヘ合祀仰出サル 大正九年四月十四日 陸軍大臣 田中義一 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 政府が創建した神社ですから、誰を祀ろうと政府の自由ですね。 シベリア出兵で死んだ者は気の毒だ、と陸軍大臣田中義一が裁決したのでしょう。 シベリア出兵は、「出兵」であって「戦争」ではありません。 天皇の名においてロシアに対して「宣戦布告」を出してはいませんね。 しかし、現実には陸軍省がわざわざ「非戦闘員」だと分別した“兵員”が亡くなっています。 「戦争」で死んだわけではないので死者を「戦死」扱いにするのかな、という疑問でした。 因みに靖国神社のサイトには、 「幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、(以下略)」 とあります。 >陸軍省告示第八號 >大正三年乃至九年戰役ニ關シ死歿シタル左記人名ノ者特別ヲ以テ本年四月靖國神社ヘ合祀仰出サル   大正九年四月十四日 陸軍大臣 田中義一   なるほど! 第8号では「死歿シタル左記人名ノ者特別ヲ以テ」とあり、 第7号では、「戰死竝戰傷後死歿シタル左記人名ノ者」と書いてあって微妙に表現が異なりますね。 7号にも8号にも「輜重輸卒」「通譯」の名がありますから、身分の違いによるものではなく、死亡の原因が異なるのでしょうね。 第8号には凡そ670名が記載されていますが、結構多いですね。 推測できますが、書くと差し障りがありそうです。

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