• 締切済み

哲学の正しさはどうやって証明するのですか。

科学や物理であれば再現性で正しさを証明するんでしょうか。 歴史であれば、その説によってどれだけ多くのことが説明できるかとか。 哲学の場合は、どのようにして正しさを証明するのですか。 それとも哲学は正しさを問う学問ではないとか? このカテゴリーの書き込みをちょっと読んでみたところ、抽象的な表現?専門用語?が多くてちんぷんかんぷんでした~。 私は子供ではありませんが、スーパーに買い物に行って店員さんに話をして通じるような表現でお願いします。

みんなの回答

回答No.12

 確かにこの事はいろいろ考えてみるんですが、論拠のないことは、人はいくらでも言えるわけで、結局その中身の弱い所を他者にいくらつつかれても揺るがない自信とか、反論できる能力とか、哲学者でいえば、「私はカント哲学を10年研究しています。」とか、自分の立場がぐらつかない人かどうかが重要要素かもしれません。  その一番は、博士号とかの資格ですね。資格のある人の言うことはたぶん正しいという社会現状です。これは中身の正しさの証明にはなりませんが。つまり言っている中身の問題ではなく、言う人への信頼の問題です。  

noname#224644
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >資格のある人の言うことはたぶん正しいという社会現状です。これは中身の正しさの証明にはなりませんが。つまり言っている中身の問題ではなく、言う人への信頼の問題です。 たしかに、今東京都が何を言っても都民に信頼されないというようなことはありますね。 三菱自動車なんかもあまり信頼する人は少ないのではないかと思います。 他の回答者さんで「saranohanahaさんはどう思いますか、パスカルや西田幾多郎が言うのだから正しい?」と書いてくださった方もあります。 権威ある学者の説だから正しいというのは、私は納得できませんが 回答者さまがおっしゃるように、世の中は発言者の信頼度といういよりは、権威とか認知度などで正しさを決めている部分があると思いますね。 世の中はそういう点を改めていくべきでしょう。 回答者様の視点はとても興味深いものでした。

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回答No.11

ある論理が「正しい」という場合、2つの可能性がある。 1つは、その論理構成に矛盾や破綻がない、という事。 もう1つは、その記述内容が現実を反映している、という事。 通常、「正しい、真理、真実」といったものは、その両者を 具備する、という“常識”があった。 ところが不確定性原理において、物事のある性質を原理的に 確定しようとすると、それを存在化すべき他の属性が無限 不確定に発散する、換言すると、原理的に確定せず表面的に (いい加減に)捉える事で、その虚構の分だけ実体(有限的 存在性)は派生しているとされた。 そうした外部=存在の側だけでなく、内面=認識の側において も、不完全性定理において、ある公理系が無矛盾(Aと非Aを 同時に導かない)であるためには、その公理系は不完全であら ねばならない事(その公理系では証明できない公理の介在)が 証明された。 換言すると、前者は「現実を記述する事」、後者は「論理的に 破綻がない事」であって、その両者が両立しない事が証明され たのである。 一般に考えられているような、「物理は存在の実体を確定しよ うとする」ものではなく、そうした存在性が、仮説的時空に 対する無の射影としての量子(エネルギーの最小単位)である 事により、「物理は仮想的な時空における存在認識を無に還元 するもの」となった。 原理的に光速(超弦=量子定常波)に還元される本質を、階層現象 表面的に(=いい加減に)捉える事で生じる非光速性に基づき、 「時間軸=経験(自我仮説)=過去=超光速」と「空間軸=予測(空間 仮説)=未来=光速下」へと相補分化した軸の仮想的延長における 直交としての時空的広がりは、相対性理論の4次元ミンコフス キー空間における時・空軸の虚数関係により、等距離点に0の 面(界面原点)を派生させ、それこそがライトコーン(光量子 の描く軌跡)なのだから。 (申し訳ないが、知識のない人間に理解できる事には限度がある)

noname#224644
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 これが哲学の正しさを証明する方法なのですか。 理解できたのは最後の一文で「おまえ、頭わるいな」「頭わるい人間に説明なんかつかれるわ」と回答者さまがお考えになっているということだけです。

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回答No.10

saranohanahaさん こんばんは。 西洋のパスカルは、こんな問いをしています。 「無限大の円(球)の中心はいくつあるのか?」 (パスカル 「パンセ」 ラ199/ブ72) パスカルは中心は無限の数があると答えています。 では東洋の我が国の日本の誇る西田幾多郎は、というと、 このパスカルの考えを「無の自覚的限定」という著書の中で肯定し取り入れて、原本は難しいから要約すると、 「無限な円」の至る所にある「中心」が自由な人であり、多くの「自己」であって、各々の「自己」は無限な円の「中心」である。 としています。 ここからは私の勝手な解釈ですが、つまり、無限大の円の中心を「自己」ではなく「真理」とすると、真理は人の数だけあるかもしれません。つまりキーワードは多様性。 saranohanahaさんはどう思いますか、パスカルや西田幾多郎が言うのだから正しい? もしかしたら「ひとつ」が正解かもしれません。キーワードは普遍性。 では普遍性と多様性のどちらが真理でしょうか?無限大の円の中心の数は? もしsaranohanahaさんが???となって考えた瞬間から、この哲学カテの友人です。

noname#224644
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 スーパーの店員さんには理解できるかも、でも私には理解ができない回答でした。 >「無限な円」の至る所にある「中心」が自由な人であり、多くの「自己」であって、各々の「自己」は無限な円の「中心」である。 数学の話だと思っていたのに、自由とか人とか数学とは全く関係のないようなことがでてきて、なんのことかさっぱりわかりません。 >ここからは私の勝手な解釈ですが、つまり、無限大の円の中心を「自己」ではなく「真理」とすると、真理は人の数だけあるかもしれません。つまりキーワードは多様性。 回答者さまの説明はわかりやすいです。 なぜ西田幾多郎は回答者さまのようにわかりやすく話さないのかと思ってしまいます。 申し訳ないですが、私には西田幾太郎という人は他人が理解できない言葉を話すことによって自己満足に陥っているようにしか思えないです。 >では普遍性と多様性のどちらが真理でしょうか?無限大の円の中心の数は? まったく何をおっしゃっているのか理解できません。 >saranohanahaさんが???となって考えた瞬間から、この哲学カテの友人です。 すいません。私はものごとを考えるのは好きなほうだと思いますが 自己満足?どうにでもとれる?意味不明?なものを考えるのは性に合いません。 こちらのカテの友人にはなれそうもありません。 こちらのカテに出入りしておられる方々も、私などと友人にはなりたくないでしょう。 この回答が、哲学の正しさを証明する方法だと言われましても 全く理解できません。 同じ日本語ですのにね。

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  • shiren2
  • ベストアンサー率47% (139/295)
回答No.9

そもそもの話、哲学に正しいも何もないですよ。 既に否定されたもの、つまり「間違えが証明されたもの」と、 「まだ間違いが証明されていないもの」があるだけです。 正しさとは「程度問題」であって、 既に反証されたものは信用0だけど、 いまだに誰も反証出来ていないものはそこそこ信用できるよね、みたいな話です。 が、今日正しいものも、明日には否定されるかもしれません。 そういう話です。 ちなみに、少し高度な話になりますが、 この否定出来るというのが科学である条件で、「反証可能性」といいます。 反証可能性を持たないものは科学でも哲学でもないわけですが、 言い換えれば、哲学的な説は原則として反証可能性を持っているんです。 つまり、将来的に否定される可能性があるわけです。 将来的に否定される可能性がなければ哲学とはいえないし、 将来的に否定される可能性がある以上、正しいも何もないですよね。 結局のところ、妥当な哲学は常に「将来的に否定され得るもの」であって、 正しい哲学とは、「今のところ正しいと言われている説(否定されていない説)」でしかない、ということです。

noname#224644
質問者

お礼

スーパーの店員さんにでも伝わる回答、ありがとうございます。 > 既に否定されたもの、つまり「間違えが証明されたもの」と、 「まだ間違いが証明されていないもの」があるだけです。 歴史などと同じですね。 また、それはつまり哲学とは正しさを問う学問であるということになりますね。 その正しさを問う方法とはどのようなものでしょうか?

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回答No.8

>それとも哲学は正しさを問う学問ではないとか? 一応、正しさを問うのです。 しかし、正しさが複数あったり、また正しさの表現が自然言語に依存しているために、その言語に詳しい人と詳しくない人で解釈が異なったりします。 学問は、大きく分類すると自然科学、人文科学、数学の三分類にできます。 自然科学は重さや形のある物体(大から小まで)を扱います。 人文科学は、人類誕生以前には存在しなかった物事、人類が作り出した物事を扱います。 とくに、人だけが感じたり、行動したり、主張したり、言葉を弄したりする内容を扱います。 数学は、公理系を選択してその中で矛盾が無い法則を構築しますので、人間の存在からは独立していますし、また自然を扱わないので自然科学には入らないのです。 で、哲学は、自然科学ではなく、また数学でもないので、しかたなく人文科学の一分野として細々とサバイブしているようです。

noname#224644
質問者

お礼

スーパーの店員さんにでも伝わる回答、ありがとうございます。 なるほど、正しさの表現が自然言語に依存しているために、その言語に詳しい人と詳しくない人で解釈が異なることがあると。 そういうことは確かにありますが、哲学の場合、難しい専門用語を用いたり、抽象的な言葉を用いたりするのでよけいにそんなことが生じるのかもと思ったりします。 (回答者さまの言葉はわかりやすいです。) 自然科学、人文科学、数学に分けられることなど教えてくださってありがとうございます。 一応、哲学は正しさを問うとのことですが、その正しさを問う方法とはどのようなものでしょうか。

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  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3667)
回答No.7

カントは、神の存在を否定した。 おかしいですね。 カントは、そう考えて証明してみせたところで、現実には世界中の数十億人もの人間が神の存在を信じている。 ただ、カントがそう考えただけのことであり、証明された訳でも、神を信じる者達を納得させた訳でもない。 カントが考えた一つの想定でしかなく、それは、あくまで、カントの内部的な問題でしかないのではないですか? 哲学は、主張とは違うと思いますよ。 ただ、その個人的な思考を、古今東西を問わず書物に著した時、それぞれの時代背景に則した扱われ方をする。 カントの考えも、当時としては、まさに斬新極まりない新説だったというだけのことでしょうね。 やはり、神の存在に対する批判も、単に現実的なカント個人の考えに過ぎないと思いますよ。 そして、神の不存在を証明した筈もない。 ちなみに私は、無神論者ですが。

noname#224644
質問者

お礼

何度も回答ありがとうございます。 >カントは、そう考えて証明してみせたところで、現実には世界中の数十億人もの人間が神の存在を信じている。 哲学の正しさは多数決で決まるとおっしゃっているのでしょうか? >ただ、カントがそう考えただけのことであり、証明された訳でも、神を信じる者達を納得させた訳でもない。 リンク先の質問文を読むと、カントの考えが学会(? 世間一般に信者がいるということは世間一般には認められていないので)で今のところ認められているというふうに読めるんですが。 もちろん歴史なども真実かどうかわからないことだらけです。 一般的に言われている定説に対して、そうじゃないだろう、ということもたくさんあります。 しかし正しいか正しくないかは別にして、学会が今のところ「こういうことらしい」と判断しているという事実はあります。 なので、正しいか正しくないかは別にして、歴史は正しさを判断する学問であると言えると思います。 それと同じで、リンク先を読みますと それが正しいか正しくないかは別にして、哲学も正しさを判断しているのではないかと思ったのですが。 自由に(好き勝手に、と言い換えてもいいかも)考えることが哲学だということでしょうか。 正しさではなく、いかに他人を感動させるかをテーマとした学問だということができるかもしれませんね。 とすれば、哲学とは文学に似ていますね。 また議論する必要もない学問だといいうことになりますね。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.6

科学や物理であれば再現性で正しさを証明するんでしょうか。    ↑ 物理学は科学の一分野ですが。 科学の正しさは次の様にして証明します。 1,客観性・・誰がやっても同じ結果が出る。 2,再現性・・何度やっても同じ結果が出る。 3,論理性・・理論化、数式化が出来る。 歴史であれば、その説によってどれだけ多くのことが説明できるかとか。    ↑ 仮説によって総ての事象が説明できれば それは正しい説ということになりますが、 これは科学の手法です。 歴史は、裏付ける資料や遺跡の存在で証明します。 だから、新たな資料や遺跡が発見されると、 覆ることがあります。 哲学の場合は、どのようにして正しさを証明するのですか。     ↑ 証明しません。 証明出来ればそれは科学になります。 証明出来ないことを扱うのが哲学、という言い方も 出来ます。 例えば、他の方も回答していますが、正しいとは 何か、を論ずるのは哲学の一分野で、正義論と 言います。 美とは何か。 これもかつては哲学の一大分野でしたが、近年 脳科学が発達し、科学で説明が出来るように なり、この分野での哲学の役割は終わったと 思っています。

noname#224644
質問者

お礼

スーパーの店員さんに話して通じるような回答、ありがとうございます。 >物理学は科学の一分野ですが。 化学と書いたつもりでした。すいませんでした。 哲学は正しさを証明する学問ではなく、証明できると科学になるのですか。 ですが、先日このカテゴリーで「神は存在するかしないか」を哲学的に議論(?)した例を読みました。 それによると、哲学的議論で神の存在は否定されていると書いてあったように記憶しています。 (歴史などと同じで、再現することができない性質のため、絶対とはいえないでしょうが) リンクを貼ろうと思ったんですが、今見当たりません。 見つかったらリンク貼ります。 「美とは何か。」について、科学で説明ができると書いてくださっていますが 神は存在するかしないかについても、哲学的アプローチでは解けないのではないかと思いました。 日本神話では天照大神は卑弥呼のことであり、実在した王族をモデルにして神を作ったとする説があります。 またキリストとは太陽神であり、キリストが十字架にかけられるとは 当時の太陽が3日間南十字星の位置にくる(北半球でも南十字星が見えていた時期があった)ことの比喩であるとする説もあります。 神の存在については民俗学のほうがクリーンに答えを出しているように私には思えます。 そもそも哲学とは答えを出さないものであるということですが、それでは何のために哲学はあるのでしょうか? (哲学の否定ではありません。純粋な疑問です。)

noname#224644
質問者

補足

「神は存在するかしないか」を哲学的に議論(?)した例、見つかりました。 http://okwave.jp/qa/q9231238.html ここに次のように記されています。 「こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。」 カントが絶対に正しいとはいえないでしょうが、現時点では一応正しいとされているということだと思うのです。 すると、哲学は正しさを証明する学問だということになります。 これは、回答者様のお考えと異なります。 上の質問の内容はイツワリであるということでしょうか?

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10552/33165)
回答No.5

自然科学(物理や数学)は事実を追求します。例えばリンゴは木から地面に落ち、水は高いところから低いところへ流れ、地面からリンゴが木に飛んでいくことはなく水が低いところから高いところに自然に流れることはありません。木から地面へリンゴが落ちるのは「物理的事実」であり、それを「正しい」という言葉で表現しています。 地球は太陽の周りを回っているというのは、事実として正しいのです。 しかし、哲学というか言葉での「正しい」とは必ずしも事実の正しさを示しているとは限りません。ブスに「私ってブスだと思う?」と聞かれて「君はブスだね」と面と向かっていったらそれが事実でも嫌われ者になるでしょう。 そうなると、「ではそもそも『正しい』ってどういうことなのか?」という議論から始まるのが哲学なのです。哲学者はそれを「真理を追究する学問だ」といいますね。 基本的な手法は、分割です。「正しいって、理系の正しいと文系の正しいがあるよね」「じゃあ文系の正しいってどんな種類があるだろう」「その個別の種類ってどういう意味だろう」というふうに細かく、細かくしていってこれ以上分割できないところまでもっていて「つまりこれってこういうことだね」と定義するのです。 基本的に自然科学も哲学の手法に準じています。人体を細胞まで細かくして、その細胞をさらに細かくして、最終的には原子(現在はさらに分割されてヒモ理論となっていますが)になっているわけです。だから哲学者は「全ての学問は哲学から始まっている」と豪語しますが、私はそれは言い過ぎだと思います・笑。 だいたい基本的なところは古代ギリシャの哲学で網羅されていて、その他に中国などで東洋哲学など違った価値観と時代と共に融合していますが、最も古い学問のひとつでもあるのでだいたいのところは掘りつくされていてもう新発見というのはほぼ「ない」といっていいレベルになっているかと思います。ある時代からはもうニーチェとかカントといったような天才じゃないと前に進まなくなっています。天才以外は用がないといったところでしょうか。 もう掘りつくした鉱山みたいな学問ですから、今哲学をやってる人達なんて先人の発見を再研究するか屁理屈をこねくりまわすくらいしかやることがないと思っていますけどね・笑。 個人的な感想ですが、これから哲学は脳科学やAIというような部門に徐々に取り込まれていくのではないかと思います。真実を感じるのは、我々の脳ですからね。あとは複雑系ですね。自然科学と哲学は物事を単純化・細分化することによって発展してきましたが世の中それだけじゃわからないということが20世紀くらいになってきてわかってきました。例えばDNAには何の作用があるのかわからない情報がいっぱいあって、始めはそれはずっとゴミ情報だと思われていたのですが、ある部分が反応すると無駄だと思っていた部分が反応して思わぬ効果が生まれるということがわかりました。例えていうなら、青と黄色を混ぜると緑色になるみたいな感じですね。また天気は気温や風や地形などが複雑にからみあって変わります。だから「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなことになるわけです。 しかし複雑系というのはまだ生まれたばかりの学問で、「世の中って、複雑だよね」という程度のレベルにあります。生まれたばかりの赤ちゃん状態ですね。いずれ人類の非常に頭のいい人たちが集まって様々な発見が生まれて複雑系という学問が発展しそれによってさらにいろいろなことがわかってくるようになるでしょうから、そうなったら哲学にも新たなブレイクスルーが生まれるかもしれませんね。

noname#224644
質問者

お礼

スーパーの店員さんに話して通じるような回答、ありがとうございます。 哲学の「正しい」とは必ずしも事実の正しさを示しているとは限らないんですか。 >『正しい』ってどういうことなのか?」という議論から始まるのが哲学なのです。 何か議論をする場合に、何を正しいとするかは決めておく必要が生じることは多々ありますね。 政治とか経済とかもそんな感じですかね。 基本的な手法は、分割なのですね。 分割して、そして正しさの定義も決めたとしましょう。 それで正しさはどのようにして判断したり、証明するのでしょうか? 判断したり、証明したりはしないのでしょうか? 複雑系については昔本を買って読もうと試みましたが 何のことかチンプンカンプンでした。。 ですが、これは質問の本題とは外れますので、わからなかったというにとどめます。

noname#224644
質問者

補足

すいません、書くところがないので、ここにNo.6の方に書いたお礼文の訂正をさせていただきます。 >当時の太陽が3日間南十字星の位置にくる は「冬至の太陽が3日間南十字星の位置にくる」のまちがいです。 申し訳ありませんでした。

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回答No.4

 哲学って、正しいかどうか、そのものを議論するんです。そもそもその話は正しいか、正しいって何、って考えるのだと思いますよ。自分の頭で考えること、それ哲学。

noname#224644
質問者

お礼

スーパーの店員さんに話して通じるような回答、ありがとうございます。 >そもそもその話は正しいか、正しいって何、って考えるのだと思いますよ。自分の頭で考えること、それ哲学。 つまり考えることが大事で、正しいかどうかは関係ないということですか? 他の方のお礼にも書きましたが、そうであれば哲学は文学に似ていますね。

noname#224644
質問者

補足

http://okwave.jp/qa/q9231238.html ここに次のように記されています。 「こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。」 カントが絶対に正しいとはいえないでしょうが、現時点では一応正しいとされているということだと思うのです。 すると、哲学は正しさを証明する学問だということになります。 これは、回答者様のお考えと異なります。 上の質問の内容はイツワリであるということでしょうか?

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  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3667)
回答No.3

哲学に正しいという概念はないのではないですか? 人間、宇宙、世界、自然、或いは、歴史、数学、思想、宗教、文化というテーマのいずれも人間が解明してきた歴史がありますが、それは、あくまでも検証、解明する対象が人間を含めて客観的なものであること。 例えそれが心の問題であったり、暴力の問題であっても、傾向や統計というかたちで漠然としたものであっても細分化して検証できるものです。 しかし、哲学は考えることそのもの。 それは哲学する個人の内部の思考であり、客観視することも検証することもできない。 上田閑照の「私とは何か」という本がありますが、1ページ目の冒頭から、ひたすら「私とは私で私だから、したがって私は・・・」と、ずーっと続きますが、何が何だかさっぱり分解らない。 哲学するということは、考える行為そのものだと思いますよ。 したがって、その行為自体に正解も結論もないと思いますよ。 また、思考にテーマはあっても対象となる“もの”がないから抽象的にならざるを得ない。 一つ、西田幾多郎の「善の研究」でも読んでみては如何ですか?

noname#224644
質問者

お礼

スーパーの店員さんに話して通じるような回答、ありがとうございます。 哲学に正しいという概念はなく、考えることを哲学というんですか。 客観視することも検証することもできないものを考えるというのは 文学に似ていますね。 哲学とは文学であるといえますか? >「私とは私で私だから、したがって私は・・・」と、ずーっと続きますが、何が何だかさっぱり分解らない。 もしかして言葉遊びでしょうか? 読んでいる人に伝わらないものを書いてどういう意味があるのか、凡人の私には理解できないです。 >思考にテーマはあっても対象となる“もの”がないから抽象的にならざるを得ない。 抽象的な思考というのが私は苦手でして・・・抽象画は好きなんですけど。 対象になるものがないのにどのようにして考えるのか、想像もつかないです。

noname#224644
質問者

補足

http://okwave.jp/qa/q9231238.html ここに次のように記されています。 「こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。」 カントが絶対に正しいとはいえないでしょうが、現時点では一応正しいとされているということだと思うのです。 すると、哲学は正しさを証明する学問だということになります。 これは、回答者様のお考えと異なります。 上の質問の内容はイツワリであるということでしょうか?

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