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現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない
悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.10お礼欄) 神が全知全能ならば、「約束を守るかどうか」もあらかじめ知っているのではないでしょうか。 ☆ 《知らなかった》という問題ではなく 人間が《約束を破った》という事態にして そこに自分たちの責任を負うという教訓を得るようにした。と。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~ 「食べるなと言い渡されていたのに食べる」であろうことも、「悪をおこなうようになる」であろうことも、「神」は知っていなければならない、なぜなら全知全能だから。 だから責任は「神」にしかあり得ないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういう中途半端な倫理観を持つ存在として人間をつくったし 初めからそうなることをも知っていた。ので 神に責任がある。――というご主張でしょうか? でも 《約束》を守るかどうかの問題をそこに含ませています。 人間に自分たちにも責任があるということをおしえています。 そういうことではないのですか?
お礼
神が全知全能ならば、「約束を守るかどうか」もあらかじめ知っているのではないでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 ☆ ふつうは 《悪》を為すのは 人間がその自由意志によってであると説明されます。 神は 自由意志を人間にあたえた。 その意志の自由度は 人間がおのれの心に逆らって――つまりは どうもこれこれはヤバイと知っているのにその心に逆らって――考え行為をおこなったりすることにも及びます。 つまり どうなるか? 一方で 苦しみをもたらすような悪を行なったその責任は 本人たる人間にある。 他方で そのような自由意志をあたえたのは 神であるから それとしての責任が神にある。 だいたい こうなります。 たださらに考えられることは 全知全能の神であるならば 人間が自由意志によって心にふさわしいことも・そして心に逆らったかんばしくないことをも 《自由に》やらかすであろうとは知っていたわけです。 つまりは だからエデンの園からは追放したけれど 人間としての社会を形成して生きて行くようにというその後の歴史は 前もって計らってあったということになります。 だけども 人間は 善と悪とを知る木から採って食べたわけです。食べるなと神から言い渡されていたのにです。 責任は どこに・誰にありますか? 悪をおこなうようになったけれども それでも庇ってあげようと神はしているのでは?
お礼
それはキリスト教寄り(庇護?)の見解だと思います。 もし「神」とする存在が全知全能絶対善であるならば、 「食べるなと言い渡されていたのに食べる」であろうことも、「悪をおこなうようになる」であろうことも、「神」は知っていなければならない、なぜなら全知全能だから。 だから責任は「神」にしかあり得ないのではないでしょうか。
- amenhotep2000
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Psychic_studentさん こんばんは 少々哲学カテから脱線しますが、連休中に上野の東京都美術館の「伊藤若冲展」に行ったら、入場までに160分待ち、あきらめて国立西洋美術館の「カラバッジョ展」を観てきました。 最近、カラバッジョの真筆と判定され、初公開となるカラバッジョの「法悦のマグダラのマリア」というのを観ました。 聖書には娼婦とはいっさい書かれていませんが、娼婦だったマグダラのマリアが回心する場面を描いた絵です。 一見、恍惚の不気味な女性の絵に感じましたが、良く観ると、左上の光のすぐ下の闇の部分に「十字架」が描かれていました。 カラバッジョはルーベンスやベラスケスに影響を与えた天才画家ですが、天才ゆえの欠点として暴力好きで、殺人を犯し、ローマから逃亡を続けながら絵を描きました。 私はこれまでカラバッジョの光と闇の、闇の暗さは、殺人を犯したカラバッジョの心の闇と思ってましたが、「法悦のマグダラのマリア」を観て考え直させられたのは、カラバッジョは「現実の世界こそ闇である。」と言いたかったのではと思いました。 哲学的命題に戻りますが、Psychic_studentさんは「光と闇」のどちらが真実と思いますか? 多くの人は、光と答える傾向があるように思われます。 しかし、カラバッジョが生きた1600年前後は、疫病や飢えや教皇に逆らうならば処刑され、人々は毎日のように死と隣り合わせの現世のなかで必死に生きていた時代背景は見逃せません。この時代の人々は現実の闇の世界に一縷の光を捜し求めていたのではないでしょうか。 その後、人間は「科学」という火を得ました。疫病や飢えというものから解放するための知恵をつけました。そして、科学という太陽の光の下、物事を思考しています。 しかし、紀元前後のユダヤ教のフィロンは下記のようなことを言っています。 「人間の感覚は太陽に似たところがある。太陽は、地球全体を明るみに出して、その姿をはっきりさせるが、同時に星と天球をおぼろげにし、隠してしまう。それと同じように、感覚は自然物を明るみに出すが、しかし神的なものをはっきりと見えないようにしてしまう。」 私達は、科学の光の下で、本当の真実に到達できるのでしょうか? 科学の根源となった、実証主義の経験論者のフランシス・ベーコンは下記のようなことを言っています。 「(創世記で)ヘビの誘惑となったのは、人間自身が自分の法をつくって、もはや神の掟にはたよるまいとする、思い上がった善悪の知識であった。」 T・H・ハックスリは下記のようなことを言ってます。 「宇宙過程がこの動物としての人間の上に必然ともたらす苦しみと悲しみの上に、更に数知れない測りしれない苦悩と悲嘆とを付け加えるのである。事実、文明化した人間は、獣性的な衝動に罪というレッテルを貼る。そしてそこから生まれてくる多くのものを犯罪として罰する。」 「苦悩はすべての動物につきものであり、しかもそれは仮の道連れなのでなく、宇宙過程の本質的要素である。」 人間というものは、スターウォーズのジェダイがそうだったように、善悪の二つのフォースを誰もがもつのではないでしょうか? そして、その力をどのように使うかは、キリスト教でも自由意志というのを認めています。 Psychic_studentさんは「光と闇」のどちらに真実があると思いますか? お礼にて見解をいただけると幸いです。
お礼
実は、私は心霊学徒としてそういったことを考えています。最近の記述ではこんなのがあります。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14158977794 質問者に敵対的なのでBAを逃してしまいましたが。 善悪二元論なのか、善とその欠如なのかは分かりません。仮に二元論だったとして、どっちが真実なのか? 科学はこう言うような気がします。 「この世には迷惑な大自然と霊だけがあるのだ」と。善も悪も光も闇もない、すべてが偶然の産物で、神のごひいきの介入要素が存在するのではない。 つまり、唯物論だろうが死後の世界があろうが、どこまでも偶然の冷徹な世界があるだけなのではないでしょうか。苦しみがある限り、創造神は現世を正当化し切れないのではないか、ならば、そんな存在は崇拝する必要も、存在を認める意味もない、そう思いました。 私は自由意思より予定説を支持しています。それが脳科学とマッチしている気がします。顕在意識は、潜在意識の顕われに過ぎず、能動的に考える能力はないと思います。どこまでも受動体なもの、それが顕在意識なのではないでしょうか。そして、潜在意識の正体とは脳細胞にある。脳科学を研究していくと、そうなる気がします。その考えだと、自由意思説より予定説の方がマッチしています。 真実も自由意思も嘘もないのではないでしょうか。 ただただどこまでも冷徹な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 余談ですが、私は臨死体験の話などにより、死後の世界はある可能性が高いような気がしています。
- kurinal
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Psychic_student様、こんにちは。 >「現世には悪とか苦しみの観念があるのではないでしょうか。 それを「ない」と思う自由があるのは置いておいて、 怪我や病気をしたら苦しむという現実は揺るがないのではないでしょうか。」 そうですね。 そうしたことを「合理的」な立場からなんとかしよう、 というのが実は「経験論」だったりする、と思っています。
お礼
そうでしょうね。
- Mokuzo100nenn
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唯一神がいる、などという共同幻想を持つのは、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教など所謂アブラハムの宗教一派だけの信念です。 仏教や道教は神を想定しないし、ヒンズー教などは「神々」が沢山いるので、当然、悪役も必要になるわけです。
お礼
悪役がいるということは、人間にとって、それは災難でしかない、ということではないでしょうか。 人間の未熟さが悪役を呼んでいるとして、その未熟さがあることもまた、災難なのではないでしょうか。 というか、「悪役の神がいる」というのは私の言う「神は悪」というのと対立しないような気がします。
- kurinal
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こんにちは。 例えば、 「債権者と債務者が居りまして、 でも、債権者は「「債務者の返済余力(人権を侵害し得ない)」の中から、 自己の取り分を、返済(弁済)されるのみ」で、 それ以上のことはありません(出来ません)。」 これが、「自力救済の禁止」ということですが、 「正当防衛」などの例外は、あります。 「裁判を受ける権利」については、確かにちょっと飛躍したかもしれません。 (違憲ではない法によって裁かれる、 「裁かれる」については、いろいろな判例があることでしょう。) つまりは、「信教の自由」ということも、そうしたシステムの中のことなんです。
お礼
債務が返済能力の限界内に限定され、信仰の自由がそれと関係あるとして、 現世には悪とか苦しみの観念があるのではないでしょうか。 それを「ない」と思う自由があるのは置いておいて、 怪我や病気をしたら苦しむという現実は揺るがないのではないでしょうか。
- 雪中庵(@psytex)
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人の生きる目的が精神的充足感の最大化であるなら、「善悪」といった他律的な価値・外的権威は、それ自体が悪(非充足な拘束衣)である。 それは、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
お礼
細かい点は分かりかねるのですが、結論から見ると善悪の定義付けをしていらっしゃるようなのですが。 それは置いておいて、この世に悪性または苦しみという要素が実在するのは事実なのではないでしょうか。
- kurinal
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Ano.2の者です。 >「信じるのは自由ですが本当のところどうなんでしょうか。」 「自力救済」は、認められていません。 (「裁判を受ける権利」が、認められています)
お礼
ちょっと意味が分かりません。
- kurinal
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Psychic_student様、こんにちは。 >「神は無視してもいい存在になるから。」 「信教の自由」というのは、他者の人権を侵害しない限りにおいて、認められる、 というのは、人権そのものが、他者の人権を侵害しない限りにおいて認められる。 ということです。
お礼
信じるのは自由ですが本当のところどうなんでしょうか。
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- 2
お礼
・・・と、神は定めたのですね。