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神の存在を信じますか?

こんにちは。MSN相談箱、たまにお世話になっております。30代女性です。 皆さんは、神がいると思いますか? 信じている・信じていない 理由を教えてください。信じている方は宗教名も明記願います。 ちなみに私は無神論派です(あ、でも夜寝る前に神様云々・・・とお祈りしたことあるので無神論ではないかもですね)。 もし、全知全能の神がいるなら、世界はこんなに悲しい事(紛争・貧困・殺人など)が溢れているわけないですよね・・・。 学校は公立で、ミッションスクールではありませんでした。家には仏壇があります。 (凡人の頭脳ですので、分かりやすく書いて頂けたら嬉しいです。)

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  • michael-m
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回答No.16

渡りにくい物をわかりやすく説明することは出来ません。なぜならそこには大きな誤差を生じてしまうからです。 まず最初に、神はいずれかの宗教に属するから信じるものではありません。例えば貴方という存在は確実にあります。そして貴方の親から見た貴方を示す表現、男友達から見た貴方の表現、女友達から見た貴方、学校の先生から見た貴方、小学校の友人、大学の友人・・それは全て完全一致はしませんよね。 同様に太陽を見ても、核反応によっても悦天体と答える人もいれば、恵みの根源と答える人も、逆に全てを焼き尽くす恐怖と答える人もいるでしょう。 貴方や太陽という存在は確実に一つでも、見方や自分の求めるものによって解釈がことなる。神と宗教の関係も同じです。 私は神を信じ、カトリックですが、私の認める神は既にカトリックでもイスラムでも神道でもありません。私は神の本質を信じているからです。 貴方のおっしゃる全知全能の神はカトリックやユダヤ教、イスラムの「神」像でしかありません。しかも歪められた神の偶像でしかないのです。  神や仏が自然の災害を避ける・・などとはキリストも釈迦もムハンマドもだれも言っていません。自然の驚異は自然の営みでしかないのです。そして私達はその荒波に漂う小さな小舟でしかありません。災害をなくしたら地球は死にます。月は営みが無いから自身も嵐もないけれど死の世界なのです。 いけるもの全ては障害を乗り越える事によってのみ進化します。シーラカンスはさほど苦難のある環境に居ないから大きな進化を遂げませんでした。生物もまた苦難がなくなれば絶滅するのみです。 紛争や貧困、様々な事件は神が起こしているのですか?人間ですよね。人間の努力不足で引き起こしていることを神の所為にするのはおかしいですよね。そういう人は自分が運動不足で太っても他人の所為だといい、楽して生きられないのは政府の所為だと言っている連中と同じです。 太陽は私達のために燃えているのではありません。でも私達は太陽によって存在しえるのです。だから私たちが今あるのは太陽のお陰。それが信仰の基盤となるものです。 祈りというのは自然な心の発揚です。自分の愛するものが平安な一生を送ってほしいと願うのは自然な気持ちです。 「神など居ないから願いなど持たない」「科学的根拠がないから願うのは無駄だ」「祈ったって祈らなくったって医学で治せばいい、それでもだめなものはダメなんだ」こういう人って情があると思いますか? 私はこういう人には情などないと思います。むしろそう考えている人は「情など無意味だ」と思っているんでしょうね。彼や彼女を作ったって愛しているからではない。単なる性欲処理でしょう。 それが無神論者ということですよ。いずれかの宗教の神を否定するから無神論ではありません。もしそのように言う人がいれば、それは単に知識の狭さを自慢しているだけに過ぎません。なぜなら冒頭に言ったように神は先に宗教ありき存在ではないからです。 また一つの宗教にこだわらない私も、神を信じていても無神論者という事になります。 無神論者が空に向かって祈る・・これを「虚しい」というのです。 太陽や月は別に何かを求めて存在しているのではありません。でも太陽は暖かさを生育を与えてくれますし、月は繁殖を与えてくれます。海の生物の多くは満月に繁殖します。これが「恵」です。対価を求めるものは取引です。 恵を与えてくれる物に感謝のできる人間は信仰のある人間です。そこに神性を感じるから感謝が出来ます。神=恵なのです。そこにあるものが「お陰」の心です。つまりお陰の心が無い祈りは商談取引でしかありません。つまり信仰ではないのです。 だから、神を信じれば何かをくれるという宗教の考えは信仰ではなく取引でしかないのです。 太陽の暖かさに「ありがたい」と思ったら素直にありがとうと言ってみましょう。明日も無事に過ごしたいと思ったら素直に声に出しましょう。それが祈りであり信仰なのです。 だれを信じるのではありません、神です。

black-01
質問者

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お忙しい所ご回答下さり、有り難うございました。 ご回答を読んで思ったんですが、太陽や月って有り難い存在だったんですね。 毎日普通に過ごせるのは、太陽が生物に、暖かさや生育を与え、月は繁殖を与えてくれてたんだと考えると、太陽や月に感謝せずにはいられません。 私の周りにエホバの証人という宗教の人間がいますがその人は『エホバ神が人間が楽しむために植物や動物を備えてくださったことに感謝しています』と言ってました。 自分を取り巻く環境に素直に神性を感じ、感謝できるって凄いと思いました。

その他の回答 (17)

回答No.18

当為は尊重しますが、存在は信じません。 信じない理由は、存在の証明に成功した人が未だに居ないからです。

black-01
質問者

お礼

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  • kmasumi
  • ベストアンサー率21% (13/60)
回答No.17

自然の法則自体が神ではなかろうか? 鳥インフルエンザのDNAが変異し人間に毒性 時折、世界各地で起きる大震災 地球温暖化 すべて自然の法則によります。 人の運命さえも、さまざま事象の関連にて引き起こされる。 神=自然の法則 は存在しています。

black-01
質問者

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お忙しい所ご回答くださり、有り難うございました。 勉強になりました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.15

神はいる派です。 ただの偶然で人間が存在することほど、存在自体がありえないほどの確立だからです。 存在を信じていても、無宗教です。 存在の是非と信仰の是非は、別物だと思います。 自分の肉体があり、今ここに存在すること以上に何を望むのか? すべてを神様が与えて、すべては神様がやってくれると 私達は赤ん坊のように、ただ与えてくれることを願うのか。 生きるのにいい環境を与えられ、食料を与えられ、それを幸せと受け止めろと言うのであれば 私達は家畜と何が違っているのだろうか。 本当に必要なものは与えられた、後は自分で歩いていく。 それで十分じゃないでしょうか。 歴史的に視て、人間が非常に苦しい環境や状況の時には 人間以上の力があると信じることで気持ちが救われるでしょう。 その時代の必然だったと思います。 これだけ時代は変わったので、人間がいつまでも「神や仏が救ってくれる」と 依存心を高めていけば、人類はいつまでたっても未熟なままです。 他に救いを求めず、自分達の力で歩いていい時期じゃないかと思います。 依存は相手が何であれ、最終的には破滅の道です。

black-01
質問者

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お忙しい所ご回答下さり有り難うございました。 勉強になりました。

  • system110
  • ベストアンサー率14% (26/183)
回答No.14

#5のものです。追加です 現実では 神を他の宇宙人の科学とするならば 地球の科学では解明できないので、宗教扱い、オカルト扱い、個人経営できる(その代り野党は表現しない) が世間で通用していると思います。 宗教の神の存在のイメージですが 受験に合格した場合は、お祈りが神様に通じたのです 受験に不合格の場合は、お祈りが足りなかったのです まぁ! 一般には、苦しいときの神頼み、ご先祖様(仏壇)におすがりする、具体的には、 今では言わないが、仏教では「霊のたたり」の「霊」を他の宇宙人の科学とした場合、 当然、 神教でも神を他の宇宙人の科学と扱っています。 また、 政治の世界でもね!

black-01
質問者

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再びご回答下さりありがとうございました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.13

質問者さんが問題にしているのは神の存在ではなくその業績のことですよね。 全知全能の神であればこんな世界を作らなかったはずだから神は存在しないはず。 という理屈ですよね。 でもそもそも存在と業績は別の話ですし、紛争・貧困・殺人は人間がしでかしたことでそれを神のせいにするのは筋違いじゃないでしょうか。 私が女性にもてないのはアダムとイヴのせいだというようなものです。 信じる信じないではなく誰にその責任があるのかという問題でしょう。 哲学のカテだからこういう回答でもいいですよね。

black-01
質問者

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お忙しいところご回答下さり有り難うございました。 勉強になりました。

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.12

質問者様は無神論者ではありません。日本では無神論という意味で使ってもいいですが、外国の方と話される場合には、日本人のほとんどが「無神論」者ではないのです。 「無神論」というのは、ありとあらゆる「神」の力を信じない人々のことです。「神」という言葉が不都合なら「人知を超える何らかの力」でもいいでしょう。 たとえば受験前に「どうぞ受かりますように」と「願う」ことすら、無神論者はしません。 なぜなら、受験は合理的な点数の多少であって、すでにテスト用紙を提出したときにほぼ合否は決まっており、そこになんらかの力(願いの効力でも、絵馬の力でも、神様が願いを叶えてくれるでも)一切働かないからです。 それを分かったうえで「お願いします」と何者かに願うのは、神を信じない無神論者としては愚かなことであり、なんら意味のないことです。 また茶柱がたったとしても、好きな人にありえない場所で出会ったとしても、それはすべて「偶然」であり、確率的に可能性が低い、というだけです。もしそこに何らかの力が働いたとしたら、お茶メーカーが茶柱の立ちやすい茶を仕込んだか、好きな人があなたを追っかけて偶然に見せかけたか、ということです。つまり「人知の力」でしかない、ということです。 これが一般的な無神論者の考え方ですから、普通の日本人は無神論者であるわけがないのです。 「神」という考え方については、日本人はアンビバレントな状態になっています。 日本人の一般的なイメージでの「神」は、キリスト教的なまたはイスラム教的な、全知全能の神であり、他の神を信仰することをゆるさないイメージです。 ところが日本人の信仰心は、正月に神社で初詣をし、葬式は仏式、それでいて結婚式はあこがれの教会で、という非常に無節操な感じです。 日本人にはアニミズム(精霊信仰)という考え方が本来あって、お箸にも山や川にも人形や針にだってカミ様が宿る、と本来考えているのです。 しかしこれはキリスト教的な「神」と余りにもかけ離れており、全知全能でもありませんので、なんとなく日本人は恥ずかしくなって「私が信じている宗教って別にないよな」と感じてしまうのです。 つまり日本人のほとんどは、他国にはない「日本教(日本的カミ様信仰)」であって、他国と比較するほうがおかしいのです。ちなみに「民族」とは通常、他の集団と文化や宗教を異にする集団のことをいいます。日本人・日本国・日本民族はずっと古来からほぼ同一の宗教観をもって生活してきているのです。 これらは、特に西洋的な一神教とはまったく噛み合いません。昔ザビエルの時代でも「全知全能の神があなたを救うために、私を遣わされた」という宣教師に大して、庶民が「全知全能ならなんで今頃、日本にやってきたんだ」と、「神を信じればパライソ(天国)に行ける」という言葉に対しては「おらも天国に行きたいけど、あんたたちがやってくる前に死んじまった両親は天国にいけないなら、おらも入信しねえ」と言っていたそうです。 実に日本的な受け答えだといえます。 日本は太古から培った精霊信仰に後から輸入した仏教やキリスト教などをどんどん融合して、日本的宗教観を作っているのです。 ですから、正月に神社に行き、仏教式に先祖を慰め、教会で結婚式を挙げるのもまったく(日本人としては)問題がないですし、クリスマスだってとにかく世界で知られている偉い神様の誕生日(本当は救世主の誕生日、まっどっちでもいいか、笑)だから、神様のひとりとしてお祝いすればいいのです。 日本人はどんなカミサマでも受け入れるからです。 さて、こんな日本人が「神様が争いを無くしてくれる」とは考えないでしょう。そもそも昔話を見ても神様は争いばかりしているのが普通です(日本の古事記などもギリシャ神話・マヤ神話などもすべて神々同士の争いの物語です) 神の存在は信じます。でもその神様が世界をすくってくれるほどお人好しだとも想いません。だって、賽銭を挙げないと、自分の願いすら叶えてくれないのが日本のカミ様なんですよ。世界平和のためにはいくら賽銭を上げればいいのか見当がつかないでしょう(笑)

black-01
質問者

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お忙しい所ご回答下さり有り難うございました。 勉強になりました。

回答No.11

 「全知全能の神がいるなら、世界はこんなに悲しい事が溢れているわけがない」  大多数の人が、『神(かみ)』なるものを考えるときに、創造主(全知全能)として、さらにまた善の象徴として考えるので、そこに“矛盾”を感じるのです。  創造主イコール善、ではないのです。  この世のすべてを(人間が感じるところの善悪も)作り出した(創造した)主を神と呼んでみれば、矛盾は感じないと思います。  でも人は“創造主イコール善の象徴”として祈っていますね。だれもこの混同に気づいていません。  明治から大正にかけて活動されたあるお坊さんは「宇宙(如来)の本体は絶対の(相対するもののない)大心霊体である」と云っていますが、この「絶対の大心霊体」をキリスト教では「神(創造主・全知全能)」と云っているのだと思います。  例えてみれば・・・・・  我々は「母」の胎内から産出されました。「母」は私を産んだ創造主です。その創造主である「母」は、すべてが“善”でしょうか。母が産み落とした「私」は“善”の塊でしょうか。  こんな風な捉え方をしてみると“矛盾”を感じることはなくなり、従来から受け継がれている信仰と云うものへの姿勢も変えなければ、と思えてきますね。    

black-01
質問者

お礼

お忙しい所ご回答下さり、有り難うございました。 創造主=善、ではないのですね・・・。 勉強になりました。

回答No.10

参考までに。 ――この池にめだかはいますか? この文が有意味のなのは、たぶん、 「池」という場所の存在がはっきりしていて、 たとえば「めだかのいる池」をほかに知っている、 というような文脈においてです。 「~」がいますか、という文はたぶん上記の文脈を無視して、 いわば無理矢理、主語と存在動詞を結びつけた結果だと思われます。 ――金(かね)、ある? と聞かれて、「金が存在するか」と聞かれたと思う人はいないでしょう。 たいていは、「おまえ、かね、もってる(もってたら、貸して)?」 と受け取ると思います。 ――神は存在するか? この問いを、神を信じてる国で発したら、 日本の田舎のおばさんに「メダカは存在するか?」と聞くようなものです。 (おまえさん、あたまどうかしたのか、という顔をされる) さて、 「神は存在するか」の問いが有意味になるには、 まず「どこに」が確定されねばならないように思います。 「この世に存在するか」ならば、「神」の概念に矛盾するように思われます。 「この世のそとに…」ならば、その「そと」とは何かが不明確なうちは、明確な答えもまた期待できません。 ――人間(の知識)は有限だとはよく言われます。 その有限な人間にとって、 そこにコップがある(と認識できる)だけで、 そこに一匹の蟻がいる(と知る)だけで、 ましてや、そこに愛する人がいる(と思える)だけで、 まさに恩寵のように思えることもあるでしょう。 それを失うとき、人は「何」でその空虚をうめるでしょうか。 限りがあることは、ある意味で、不安の種ですから、 そこに名を付けてみたくなるのも人情です。 以上です。

black-01
質問者

お礼

お忙しい所ご回答下さり有り難うございました。 勉強になりました。

  • hirohk
  • ベストアンサー率9% (8/83)
回答No.9

宗教に絡む話ではありませんが神様はたくさん居る話をしましょう。 貴方の周りにも「カミサマ」を経験した人はたくさん居ると思います? 一芸を極めた人の言葉に「あの時私に神様が降りてきた」と表現することもあります。 最近ではタイガーウッズのパットに「あれはゴルフの神様が降りたんですね」と言いました。 プロ野球の世界でも「野球の神様」が降りた話がたくさんあります。 普通なら起こりえないような事が次々と起こる時そこに神様の存在を思います。 ただね、困った事に神さんは良い事にばかり降りるンジャーないって事です。 反対に次々と信じがたい不幸が訪れることもあります。 これも神さんが降りてると言います。 これらを要約して、一神教では善の神と禍をもたらす悪神が居る事になってます。 仏教にはこれが解り易い様に仏像の形で説明してます。 ”神”はそれを感じる人の心という事になります。 ですから他の人から見れば貴方に神が付いてると思えても貴方本人がそう思っていなければ 貴方に神は居ない事になります。 幸い私には素晴らしい”カミさん”が付いてるようなんです。  感謝!

black-01
質問者

お礼

お忙しい所ご回答くださり有り難うございました。 >貴方の周りにも「カミサマ」を経験した人はたくさん居ると思います?  私の周りではいませんね・・・。 勉強になりました。

回答No.8

 こんにちは。  1. 《かみ》ということばは あります。どの言語でも持たれており使われています。  2. ところでその神が《いる》としたら どういうすがたで存在していると思いますか?  3. 《いない》としたら 神という言葉をどう扱えばよいでしょう?  4. そのことも分からないのに どうして《神は全知全能である》と人は知っているのでしょう?  5. マチガイなのでしょうか?  6. 誰か神を見たという人はいますか? いたとしてその発言は信用できますか?  7. 世界に悲しいことがあるなら 神は それを無くすようにチカラを発揮するとお思いなのですか?  8. 全知全能なら それが出来る。ということでしょうか? どうしてですか?  9. なんで神は 人間のおこなっている悲惨な出来事をなくすものだと考えますか?  10. すべての人がそう考え願い祈ったら 神はそうしてくれると思うのですか? なぜですか?  11. 願い祈るまえに すべて神は人間にとってよきにはからってくれると思うのですか?  12. 神はいるとは思うが 世の中のありさまを見れば あぁ やっぱりいない と思うということですか?  13. 全知全能なら 神はいると思わせて欲しいということですか? だから悲しいことはなしにして欲しいということでしょうか?  14. あるいは この世のかなしいことはぜんぶ神がつくっているというお考えですか? 全知全能だったら 出来ますね。そうなのでしょうか?  15. いったい神とは何なのでしょう? そして人間とは?

black-01
質問者

お礼

お忙しい所ご回答下さり有り難うございました。 勉強になりました。

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     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • キリストが人殺しを許すのは何故

    昨日、短気なアメリカ人クリスチャンの彼と喧嘩した時に、聖書の教えを守る守らない以前に、もっと人として大切なことあるんじゃない?と聞きました。彼は婚前前交渉NGとか、イエス様がヤキモチやくからイエス様以外への祈りNG、とか禁止事項的なものを頑なに守り抜いていますが、人として何か大切なことを欠いている気がすると前々から思っていました。クリスチャンじゃない日本人のほうが考え方大人だなと感じたこともあるし、心が広いと感じたこともあります。(人を許せなかったり怒りやすかったり。それなのに彼と付き合っているのには、それ以外で彼の魅力があると感じているからです) すると、人間は完璧にはなれないからいい人になんてなれない、と言い張ります。 私の言っているのはそういうことではありません。神と比べてどうこうじゃなくて、人として、人間レベルでのことを話していたのです。 殺人者も自分も、罪を持つ人間には変わりはない、と言っています。 もう呆れました。 人間は罪を持っているけど、神は慈悲深いから人間が神に許しを求める限り、救われたいと思う限り、神は許してくれるのだそうです。 この考えは知っていましたが、 じゃあ人殺しの人はどうなるのか、 と思いこんな質問をしました。 なぜ、許しを求める限り殺人者は神によって許されるのか。 被害者の人生はやり直せないのに 殺人者の人生は何度でもやり直せるのは何故か。 シェイクスピアの言葉で、 人殺しを許す慈悲は人殺しを育てる、みたいなのがありますが、 これを支持する私にとって、 殺人をも許す神は慈悲深いとは言えない、と思います。 むしろ神のしなければいけないことは、殺人を許すことではなく被害者の命を殺人者から守ることではないのですか? それができない神がなぜ全知全能なのですか? また、キリスト教者であればどんな人でも救われるが、キリスト教者によって殺された人は救われないのですか? とにかくこの問題について納得したいです。これが解決されない限りキリスト教を好きになれません。それが意味することは、キリスト教を好きになれなければ彼のことも完全に愛せないということだと理解しています。別れないために解決策を求めているので別れたほうがいい、というご意見はお控え頂けると嬉しいです。 特にクリスチャンの方、よろしくお願い致します。 散文で大変申し訳ないです。

  • 神論のエセンスは これだ

    0. 標題のごとくに自負して考えるのですが なお仮説ですので よろしくご教授ください。 疑問については是非ぜんぶお知らせください。 神論は その問い求めによって 世界におけるわれわれ人間の立ち位置が現実によく分かるようになるのだと思いますが どうでしょう。 神の世界に相い向き合うからだと思われます。 1. 神は 《人間の知性を超えている》。 2. 人間の知性で分かったと主張するその神は 人間がつくった――観念の――神に過ぎない。 2-1. そもそも その《分かったということ》は証明し得ない。その否定も じつは証明し得ない。 3. 人間の知性で分からない(不可知だ)と説く神は これも 人知でそのようにつくっている(決めつけている)。 3-1. 不可知とは 知り得ないと証明し得て初めて言えるもの。知り得ないと証明し得たなら 或る意味で人知の範囲内だ。 4. 人知を超えたところとは 《知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》です。 ・ 可知(既知&未知)&不可知 に対して 非知 5. 非知なるものは 非経験(その場ないしチカラ)であり 絶対性および無限である。 ・ 経験    に対して 非経験   (自然および経験)  (超自然および超経験) ・ 相対性   に対して 絶対性 ・ 有限    に対して 無限 6. 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもとのままの無限であることを言う。 6-1. 一神教か多神教かまたは汎神論かの――神の数にかんする――問いは 無意味である。 6-2. すべては――やほよろづの神々はみな――《全体として一つの神・ただ一つの柱で全体をふくむ普遍神》の分身であるゆえ。 7. 絶対性とは 《何ものにも拠ることなく ひとり満ち足りているもの》を言い それと相対世界とは 絶対のへだたりがある。 8. 非経験は たとえば《有るか無いか》という規定が適用される経験的な事象(事物および現象)を超えている。 8-1. 《有る》と《無い》とを超え しかも両状態をおおいつつむ。 8-2. 《有ると無いとが つねに――つねにである――重ね合わせになっている》。 9. 事物が有るか無いか つまり 現象が起きたか起きていないか つまり ものごとの因果の関係として捉えられること(そして その知性)を超えているのが 非経験・絶対性・無限である。 10. 人間は このように《人知を超えているものを人知で推し測っている》。 11. 人知で捉え得たと思っている神について ひとはいろいろ忖度する。 11-1. 余計なことはやめろと言われても 余計か本計かを究めあぐねる。 11-2. 忖度するような対象ではないと考える向きは 端的に言って《無い神〔という神〕》が 心にいだかれている。cf. [8-2]。 12. 忖度のいろいろは こうだ: ① その属性として:    〔つねに真偽をまぬかれない人間の主観真実を超えた〕真理    〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)    〔相対的な美醜を超えた〕美    〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)    〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能 ② 絶対性からそれを擬人化して:絶対者 ③ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主(非経験と経験世界とは絶対の                   へだたりがあることを言っている) ④ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理(因果律を超えているチカラ                      による人間への因果応報なる説) 13. 神についての忖度は すべて おのおの心の内面に主観真実としておさめている限りは 自由である。良心・信教の自由。 13-1. 神についての忖度――神観――が 良心・信教の自由のもとに自由であり それとして主観真実におさめられることを 《特殊絶対性》と言う。一般性とは別次元にある。 13-2. 忖度に成る神観を成るたけ避け一般性を問い求め得た神論は 《一般絶対性》なる理論であり これを個人として抱くゆえ 《個別絶対性》とよぶ。 13-3. 神観が 或る種体系的な神学となりこれがオシへとされ得る。さらにしかもオシへが神と同等のものだと説く場合がじんるいの歴史にあった。そのような神学ないし自称神論はアウトである。人間が神をこしらえている。《文字もしくは聖なる書》という偶像が建立される。 13-4. オシへを神と説くシュウキョウというシュウキョウは その説くという発想が無意味であり ぜんぶアホンダラ教である。 14. なお《一般絶対性かつ個別絶対性》の具体的なあり方は 次のように図示できるはずだ。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我(生命性)   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如(生命性‐生命体一如)    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然および〔その依り代としての〕自然)    霊:われ(自然本性 + α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:タオ(?)    人:われ 14-1. 個別絶対性とは 信仰である。《非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。 14-2. 《信じる》は 《感じる・考える》を超えている。言いかえると 《信じている》ときに《感じ考える》ことを同時におこなえる。無思考や思考停止ではない。 14-3.  【梵・仏・霊】  :信じる(生命性):非思考の庭 ------------------------ 【我(霊の分有)】:考える(知性) :思考の緑野           感じる(感性) :感性の原野

  • 神は悪ですか?神は存在しますか?

    神は悪ですか?神は存在しますか? まぁ・・・いるのか?と言われれば、私は神なんてこの世に存在しない、と思っていますが。

  • 「あなたが神の存在を信じるときに限って、神は存在しない」というパラドックス

    先日、講談社現代新書 高橋昌一郎「ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論」という本を買いました。その中の「あなたが神の存在を信じるときに限って、神は存在しない」というパラドックスがどうしても理解出来ません。ぬきうちテストのパラドックスまでは理解できたのですが……。どなたか分かりやすく解説していただけないでしょうか?