• 締切済み

全知全能の神はいるのか??(2)

どうも。 「全知全能の神はいるのか?」という質問があります。 これは宗教的な意味では無く、「全知全能の神は存在しえるのか?」という意味です。逆に言うと全知全能の神が存在し得ないなら宗教的な「全知全能の神」はいないということの証明にもなりますけども・・・。 ここでよくある話で自分の持ち上げられない山をつくったら全知ではないという話です。 ここらへんを中心に・・・さぁ存在できるのでしょうか?

みんなの回答

  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.10

宗教的な意味も含めるのならば、この設問は成り立ちません。 全知全能とは論理・法則すら支配するという意味です。この設問自体が「全知全能」には論理を変更することを含まないことを前提としています。 つまり「自分の持ち上げられない山も持ち上げられる、なぜなら全知全能だから」ということです。Aが同時にAでないことを可能にする、論理を超越した存在に対する論理は存在しません。「論理を超越した存在が論理を超越している」ことを証明したところで、「宗教的な『全知全能の神』はいないということの証明」にはなりませんし、この挑発的な文句も無意味です。 もともとパラドックスや、証明不能の証明が、「人間の知性の限界」「人間の知性の欠陥」と呼ばれています。「全知全能」が存在しないことを証明したとしても、それは証明者の知性の限界なのです。 「理性は理性の及ぶ範囲にしろ」「語ることのできないものは語るな」ということです。

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 宗教的な「全知全能」は論理・法則すら支配するという意味なのですか。

  • misoka
  • ベストアンサー率35% (56/160)
回答No.9

No.6の方が挙げてらっしゃる過去の質問では、 面白い問答があったのですね。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=47197 さて、ここで、ちょっとお話を思いつきました。 思いつきなので、どうなんでしょう、というところですが。 「死ぬ日に死なないようにできたら、死ぬ日を知っていたことにならない? ということについて」: あるとき、ある人がいました。 その人は全知全能と言われました。 ただし、その人自身は、自分の能力をこのように説明していました。 「自分は、ただ、自分以外に全知全能である人を知っており、 その人に頼んで、何でも知ったり、行ったりすることができるだけだ」 その人は、ある日、自分が死ぬ日を知りました。 しかし、その日に死にたくなかったので、「全知全能の人」に 死なないようにしてもらいました、とさ。 さて、この場合、 - その人は、死ぬ日を知っていた(その日は確かに死ぬ日だった) - その人は、死ぬ日に死なないようにできた の両方をクリアできていると言っていいでしょう。 山も同じ。 持ち上げられない山は存在してもいい。自分でつくれても、もちろんいい。 持ち上げたいときは、「全知全能の人」に頼んで、 持ち上げられるようにしてもらうだけです。 では、その「全知全能の人」自身は存在し得るのでしょうか? 「全知全能の人」は、このお話の「ある人」が、全知全能であるために 存在している、というわけです。

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 思いつきでもとてもありがたいです^^) 確かに二つともクリアできますよね。 ですが全知全能の人はどうなんでしょうね?

  • ticky
  • ベストアンサー率36% (123/337)
回答No.8

こんばんは。 このごろは寒いですね。早く暖房入れないと下宿生にはつらいです。 さて、「全知全能の神は存在しうるのか」についてですが、私は存在できると思います。もし、全知全能であることに矛盾することを実行した場合、その次の瞬間から全知全能でなくなるだけです。 たとえば、自分の持ち上げらない山を作るには、自分が山を持ち上げられない存在になればよいのです(つまり、全知全能ではなくなる)。 「神が全知全能のままで、自分の持ち上げられない山を作る」ことはできないのではないかとも思いますが、これは、成立しえない課題なので、この課題そのものが「無効」です。 また、6の方がふれられている過去の質問(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=47197)のなかの、「全知全能の神は自分の死ぬ時を知っているが、全能であるからその時に死なないようにできる。これは自分が死ぬ時を知っていることにならない」について考えてみますと、まず、「将来、神が死ぬ」未来は、神は全能である故、「もし神が、自分が死なないように、しなければ」という前提でおこります。ですから、「自分が死ぬ」という未来を神が知っているということは、「神が自分を死なないようにした」場合の未来を知っていることとは別なのです。 ・・・とかんがえたけれども、どこかに穴があるんだろうなぁ。

pietarpan
質問者

お礼

こんばんは。 どうもありがとうございます。 全知全能はその条件では存在できますよね。

  • Row
  • ベストアンサー率26% (249/938)
回答No.7

質問の答えにはなっていないかもしれませんが、 『全知全能の神』がこの世を創った創造主だとすると、 不完全な存在である人間を作ったりしないと思います。 人間が、自然を、地球を、将来的に宇宙を荒らすことになる(人間は試行錯誤して進化しますから、 その過程で万物を荒らすことは避けられません)と、 最初から分かっていたのであれば、それも『神の計画』に 組み込まれていたことになりますから、『神は我々を見守って』いないと言う事になります。 いずれにしても、宗教的な神は、全知全能ではないと言うことになります。 (全知全能であれば、信者を試したり、怒って天変地異を 起こしたりもしませんよね)

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 全知全能であれば不完全な存在を作らないって感じはしますよね。 神様がもしいるのならまったくひどい人ですね^_^)

  • Ononomiya
  • ベストアンサー率72% (31/43)
回答No.6

 「自分の持ち上げられない山」については、例えば、過去の質問(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=47197)の回答(No.9など)でも指摘されています。  これに対して、その質問におけるNo.11の方の回答は、「神は矛盾をも超越する」というもので、この質問のNo.3の方の回答と同趣旨のものでしょう。  一応の回答にはなるでしょう。ただ、「神は矛盾をも超越する」という命題自身は「人間の論理学」におけるものです。「人間の論理学」によって「神の論理学」の存在の可能性を指摘することは有意味なのか、という疑念が否定できないように思えます。  13世紀の神学者トマス・アクィナスは『神学大全』の中で、この問題に対し、「神が『自分の持ち上げられない山』を『作れない』のではなく、『自分の持ち上げられない山』は『存在し得ない』のである」と回答しています。すなわち、当時の神学者にとって、「論理学=理性」は、それ自体「神の秩序」でしたから、論理的に矛盾する命題はそれ自体『存在し得ない』はずなのです。これは、「人間の論理学」と「神の論理学」を区別しない態度であり、これも一応の回答とは言えるでしょう。  ところで、前掲の質問における最終的な回答は、No.21の方の回答にある「全知ならば全能ではない」というものでした。つまり、将来の出来事を予言しつつ(全知)、その将来の運命を変えることができるとしたら(全能)、全知でなくなってしまう、ということです。  しかし、これも結局、「全知」も「全能」の一種と考えれば、「自分の持ち上げられない山」の問題と同じことといえるでしょう。  なお、この点に関するアクィナスの回答は、「神は未来に『起こること』を知っているのではなく、未来に『起きていること』を知っている」というものです。つまり、神は時間をも超越しますから、「1時間後に雨が降る」ということを、「今、雨が降っている」ということと同じレベルで知っている、ということです。「予言」ではなくて「認識」なのです。したがって、予言による運命を変更するなどということは観念として「存在し得ない」のです。  また、前掲の質問のPart.2(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=48810)では、「神が時間的な因果律をも超越するのなら、全知全能もありえる」と結論されています。つまり、将来の出来事を予言しつつ、その将来の運命を変えても、さらに過去に自分のした予言を時間を遡って変更すればよいということです。  しかし、時間的な因果律と論理的な因果律を厳格に区別しない通常の論理学の下では、時間的な因果律を否定することは、矛盾(論理的な因果律の否定)を認めることと大差なく、これもまた「自分の持ち上げられない山」の問題と同じことのように思えます。  そして、アクィナスのこの点に関する回答は、「過去の出来事を変更できるということは、神の全能性に反する」ということです。すでに指摘したように、神は時間をも超越しますから、過去の出来事と現在の出来事に区別はなく、したがって時間的な因果律と論理的な因果律にも区別はない以上、時間的な因果律を否定することは論理的に矛盾しているということになるのでしょう。  私としては、この質問のNo.4の方の「できないことが出てこない間は、全能」という見解を推したいと思います。  アクィナスは、これを「神の全能性は、可能態ではなく現実態である」と表現します。つまり、神の全能性は「何でもできる(可能)」というものではなく、「(過去・現在・未来にわたって、現に)何でもできている(現実)」というものなのです。神の全能性に反する事実は、神が全能である以上、事実として存在しないし、将来にわたっても存在することはありえないのです。  まあ、要するに、我々の考えそうなことは、既に1000年前の人が考えてしまっているんですね。  アクィナスの議論に弱点があるとしたら、アリストテレス以来の「論理」を絶対のものとしている点でしょう。しかし、「論理」を放棄して議論しようとすると、それは「信仰」になってしまいます。したがって、彼を超えるには、アリストテレス以来の論理学とは別の「論理学」を構築しなければならないのですが、これがなかなか難しいのです。

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 実はわたしも「それ」を見てこの質問を思いついたのですね(笑) 昔の人は偉大ですね・・・。

noname#6420
noname#6420
回答No.5

おはようございます。 この質問のポイントは、 「全知全能の神は存在し得るのか」と「神は存在し得るのか」という 質問を区別しなければならないということではないかと思います。 もしこの質問を宗教的な意味にとらえないならば、 前者の形では少しまずいと思います。 前者は「全知全能」という時点で既にキリスト教の影響下にあるからです。 つまり、前者の問いは宗教的な意味あい抜きには問い得ない問いなのです。 神を、一般名詞としてとらえるならば、必然的に後者の質問になるのではないでしょうか。

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 ポイントは「そこ」ですよね^^) できれば「そこ」を踏まえた上で書き込んでいただきたいですね^_^) 私の質問の意味は後者の質問ですよね。

  • misoka
  • ベストアンサー率35% (56/160)
回答No.4

> 自分の持ち上げられない山をつくったら全知ではない だからといって、全知全能がありえない、ということには ならないと思いますよ。 たとえば、そういう山をつくることができても、 実際につくらない間は、全能なわけでしょう? ひとり神のみが、そういう山をつくることができる。 でも、つくらない。 なら、やっぱり全能です。 知らないことが出てこない間は、全知です。 できないことが出てこない間は、全能です。 あれ? 何かまちがっているかなぁ?

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 そうですよね。 つくらない間は全能ですものね。

  • kana32
  • ベストアンサー率17% (6/34)
回答No.3

全知全能という定義が問題です。 なにをもって全知全能である状態だとするのか。 人間が全知全能でない以上、神が全知全能状態にあるか否かを 確認することは究極的には不可能なのでは? 物理上も理論上も。 とすると一見矛盾がある状態も、人間の認識できないレベルでは、 もしかしたら矛盾なく解決されているのかもしれません。 全知全能というのはそういったレベルの話だと思います。 だとすると「全知全能」に対して我々人間ができるアプローチは 禅問答のネタにするぐらいということになりそうです。

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 禅問答のネタにはなりそうですよね・・・。

  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.2

自分自身を含む定義は作れないというのがあった気がします。 つまり「誰も持ち上げられない山」の「誰も」の中に全知全能の神を含むと成り立たないのですが、でも「全知全能の神」なんですから、この問いに「ただし全知全能の神は含めない」というのを加えればよいのです。「全知全能の神」なんだから問題を変えることも可能です。 でも、そうすると全知全能も最初の問題はできなかったことになりますが、でも、それだと問題を変更できないということで全知全能という前提条件に反するし、ウワー! だから、「問題を変更すること以外については全知全能」と問題自身を含まないようにしないとね。

pietarpan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 自分自身を含む定義は作れないというのがあるんですか・・・これに関してもそれはいえそうですね^^)

  • gilfffo
  • ベストアンサー率12% (14/108)
回答No.1

宗教的な意味の無い神というものはありえるのですか?

pietarpan
質問者

補足

どうも。 神は「KAMI」という名詞としてとらえていただければ結構です。 つまり全知全能の「存在」はありえるのか?ということですね^^) みなさんの意見を広くお聞きしたいです。

関連するQ&A

  • 全知全能の神について

    今朝、たこ焼きを焼いてると、私の地域ではさほど珍しくない いわゆる宗教勧誘で、その宗教団体が出してる冊子を定期購読しませんか という内容で女性が訪ねてきました。 私は、興味がなかったので 『読まないんで他を当たって下さい』と言ったんですが 女性は 『そう言ってた方も実際読まれたらすごい面白いって大反響なんです。  神は全知全能で、あらゆる物事を解決し、  全てを許し守ります。  たくさんの方が購読されてますが、我々の中に最近の話題で言うと  噴火であったり地震や津波であったり  そういった事故にあった方は購読者の中に居られません。  その他にも…』 と話し始めたので話の途中で  『すいません。たこ焼き焼いてて手が離せない状態ですし   そういう系は申し訳ないんですが   本当に興味がないので他を当たって下さい』 と言ってお引取り頂いたんですが、 良く考えると女性の言ってた全知全能ってすごいことなんじゃないかと思いました。 調べてみると 【全知全能:知らないことは一つもなく、できないことは何もないということ。  すべてのことを知り尽くし、行える完全無欠の能力のこと(goo辞書より)】 という、やはり人知を超えたすごいもので たくさんの疑問が頭の中にあふれ出てきました。 1.神とはなんでしょう?  信じてる人には見えるのでしょうか? 2.女性の話では信仰があれば事故に合わない。  つまり神とやらに守られる…  神に守られてると言い切るのは何故?  見えてるから?聞こえるから? 3.神が全知全能と知ってるということは  神が全知全能であることが彼女の中で証明されてるということで  人知を超えたものをどうやって証明し納得したのだろうか? 4.全知全能が本当なら本当にすごいですが、  神に【全知全能でない】ことを証明してくださいと  私が訊ねたら神はどうするのでしょうか? 神を信じてて、その上彼女のように神は全知全能と言い切れる方、 よろしければ私の疑問を解決する手助けをしていただけないでしょうか? ※女性は噴火、地震、津波等を例にあげてましたが  あまり影響の無い地域です。 ※女性の言ってた宗教の規模はわかりません ※宗教名は忘れましたがカタカナ三文字に【の】を挟んで  『集い』『集まり』『会』そんな感じで  ○○○の△みたいなものでした。

  • 全知全能の神について

    ズバリ皆さんに聞きたいのですが、全知全能の神(全知全能の神が居るという事を大前提に考えています。ただ、全知全能の存在物ならなんでも良い。要するに、「全知全能」という事に注目してほしいのです。)は、その名の通り、何でも知ってて何でもできるのでしょうか?単刀直入な質問で悪いのですが、質問に答えてもらえたら幸いです。

  • 全知全能問題、再び・・・

     ふくろうです。  実は、へびくんがどうしてもと言うもので、この質問を開けます。「まだおわってないの! もっとあそぶの!」って言うもので。へびくん、ちょっとだけ執念深いんです。あいたたた! 噛むなよ、へびくん…。  ふう。…さて、二つ下の「全知全能の神が存在しないことの証明」は、一応、質問者のご友人の方が納得される「正解」が出た形になっています。が、その回答にも明記されておりますように、実は証明としては不備があります。  その「証明」は、「ある条件」を暗黙裡に添加することで初めて成立しています。  しかし、「条件」とはすなわち「制約」です。stomachmanさんが指摘されているように、「制約された全知全能者」というもの自体、すでに概念上自己矛盾しているのです。本当の意味での「全知全能者」の存在を否定しうるものではありません。  そこで、問題。  その「ある条件」とは何でしょうか。そしてその条件を外すことで、あの「証明」はどうして崩せるでしょうか。そうそう、「こうすれば本当に全知全能の矛盾を証明できる」という方向の回答も歓迎します(これがないとクイズになちゃいますね)。…この話、意外と生産的に副産物も生むかもしれません。  fwappyさんも、ご友人とお誘いあわせの上、ご参加くださいませ。  さあ、これでいいかい、へびくん? おやおや…とぐろ巻いて寝ちゃいました。風邪ひくよ、へびくん。

  • 全知全能

     「全知全能とされている神がなぜ、生まれながらに罪を持った人間を創造したのか?また、それを悔い改めよとおっしゃるのはなぜか?罪があるのは人間の責任ですか?」QNo.3735358にもご質疑とご回答がありました。  たいへん勉強になるご質問であり、ご回答ですが、ANo.12のご質問者の書き込みに「それならば、「罪を悔い改めよ」と言われるのは何故?」というものがあり、なるほど、私も多少この事ではあまりわからないので、私の勉強を縷々お話して、補強や批判を乞いたいと存じます。議論はいたしません。この問題について以下のように勉強しております。 1. すみません、やはり全知全能の存在であり、創造者のことであれば、有限なる知と能力のものはどういうふうに関わり、その意図などを窺知することができましょうか?無理なことでしょうか?無理なら、どういう方策をこの全知全能の創造者は私達に準備なさっておいででしょうか。私達とどういう関係だと、認識していればいいのでしょう 2. 全知全能者と、同じにならないで、私達はどうして、この問題に思いを致すことができるのでしょうか? 3. 「悔い改めよ」というのを、どこかの箇所にあったかもしれませんが、それをどのように理解されて、「全知全能者はおかしな事を、伝えているものだ」いうのでしょうか?「悔い改めよ」も十分な表現では確かにないが、それを、わが子に呼びかける、意味や態度は、通常の理解を少し、出てみることは妥当ではないだろうか? 4. 「罪があるのは人間の責任ですか?」という疑問が湧いてくるのですが、その人間とは創造の全知全能者との関係ではどういうものなのでしょうか。罪という根因について双方はどんなかかわりがあるのでしょうか? 5. 参考にした、ページのアドレスは以下のものです。  http://kikitai.teacup.com/qa3735358.html    

  • 全知全能な神は存在しないことにより神は存在しない?

    全知全能な神は存在しないことにより 神は存在しない? 人の生きがいとは 自己の欲望を満たすことであり他人からの賞賛である。人は全ての欲望が満たされていない時 自己の欲望を満たすために活動することが楽しいのである。 人は 自分以外に誰(生き物全て)もこの世界に存在しないならば生きている意味を見つけることは難しい。人は満たされない欲望を満たすために生きている。 もし 人の全ての欲望が満たされたとするならば 人は何か満たされない刺激を求め始める。全てが満たされた世界に於いて 他人が同じように全ての欲望が満たされていたとしても 人は他人は自分より不幸であるとみなしてしまう。 神が人間を創造したとするならば 神は不完全な人間しか創造できない。何故ならば 人間は不完全である故に完全さを求め続けることにより 幸せを感じることができるからである。 不完全な人間しか創造できない神は 全知全能な存在とは言えない。また 神も不完全な存在である。神が不完全なら 神とは呼べない。よって 神は存在しない。どうでしょうか?

  • 全知全能と永久不滅

    上座部系仏教とユダヤ教の違いは細かいことを言えば多数あるわけですが 最大のものは究極の全知全能の神の存在を認めるかどうかだと思います。 ただし、上座部系仏教も全知全能の神を否定しているわけではなく 全知全能の神もまた現象に過ぎないと主張しているだけです。 となると、全知全能の定義に永久不滅という性質が含まれるのかという問いに至るわけです。 よろしくお願いします。

  • 神が全知全能ならならなぜ・・

    ・キリスト教系の私立大学に今年4月から進学した長男が・・ キリスト教系の私立大学なのでの「宗教」の授業が必須科目で・・全員受講・・ 「宗教」の授業で・・聖書で「エデンでリンゴを食べたアダムとイフに罪を・・とあるが・・」 お父さん、おかしくないの・・神が全知全能なら・・エデンでリンゴをアダムとイフを食べることを予測できたはず・・、それなのにアダムとイフを罰するのはおかしい。」 と、長男がいっています。 教えて下さい

  • 全知全能の神が存在しないことの証明

    ちは~、ふわっぴぃです。 実は友人の某君から難題を吹っかけられました。 「全知全能の神が存在すると矛盾することを示せ」 私はこういうことはからっきしダメなので往生してます。 どなたかいい智慧を授けてください。 (蛇足) ヒントをくれといったら、某君はこういいました。 「そうだな、ゲーデルの不完全性定理でも勉強するんだな。 でも、丸暗記とかはダメだぜ。自然数論とか形式的とか 証明とかいう専門用語を一切出さずにいわんとすることを 的確に表現した喩えで答えてくれよな。」

  • 神は存在しないのか?

    苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。 その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明 したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから) 完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。 しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも 人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた 完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか? つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか? まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか? 私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。 肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも 教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。

  • 神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと

    神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと思いますか。 地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが。