私が神の存在を信じる理由

このQ&Aのポイント
  • 私が神の存在を信じる理由として、存在の証拠はないものの、否定することもできないという考えを持っています。
  • もし神が存在するのであれば、全知全能ではなく、完全な善い意思を持っていないと考えています。
  • また、この世界が神によって作られた実験場やゲームのような存在である可能性についても考えています。
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あなたが神(創造主)の存在を信じる理由、

あなたが神(創造主)の存在を信じる理由、 または神を知っている理由、証拠、 信じるようになったきっかけなどを聞かせていただけませんか?m(_ _)m こういう神様を信じているというのもよかったらお願いします。 明確な理由など無いけど信じているという方もよろしければご回答ください。 以下補足というか蛇足です(笑) 私は今現在神の存在を信じてはいませんが いない証拠も無いので絶対にいないとも考えていません。 ただもし存在したとしても全知全能(何でもできるってことですよね?)では無い。 もしくは人間が考えるような完全な善い意思などは持っていないと考えます。 (そもそも神が全知全能で完璧な存在であると教える宗教は存在しないのかもしれませんが 日本で一般的に考えられてる一神教の神様のイメージってこんな感じですよね?) こう考える理由は、もし全知全能と完善な意思の双方を併せ持つのならば もっと日常茶飯事に奇跡を起こして干渉してもいいはずだと考えるからです。 というわけで神がいたとして神の能力、または意思には限界がある、 もしくは意思を持たないと考えています。 蛇足の蛇足ですがもしこの世界を作った神に意思が存在するのならば この世界は実験場かゲームのようなものなのではないのだろうかと思っています(笑)

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

どうもはじめまして。カトリックのクリスチャンで有神論者の者です。 1点目:神を信じる理由について 難しい哲学や神学のには詳しくないので、私個人の認識レベルになってしまうのですがお答えします。 信じる理由、ですが、旧約聖書「知恵の書」13章がちょうど私の考えている認識に一致しています(存在そのもの、というところが特に私の考えることと一致します)。 (以下、聖書「知恵の書」13章1節~3節) 神を知らない人々は皆、生来むなしい。彼らは目に見えるよいものを通して、存在そのものである方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至らなかった かえって火や風や素早く動く空気、星空や激しく流れる水、天において光り輝くものなどを、宇宙の支配者、神々と見なした。その美しさに魅せられてそれらを神々と認めたなら、それらを支配する主がどれほど優れているかを知るべきだった。美の創始者がそれらを造られたからである。 (長くなってしまうので全部は引用できなかったのですが、こちらから聖書協会のページから検索できます。とても豊かな描写で自然、神を捉えています) http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi 2点目:補足について >こう考える理由は、もし全知全能と完善な意思の双方を併せ持つのならば >もっと日常茶飯事に奇跡を起こして干渉してもいいはずだと考えるからです。 >というわけで神がいたとして神の能力、または意思には限界がある、 >もしくは意思を持たないと考えています。 ⇒momonemu様の考えておられる神は「汎神論」という立場に近いかと感じました。 私もその点についてはmomonemu様のような思いを感じることはありました。 正直なところ何が神の意思で、何が神の意思でないのか、神様と私たちではあまりにも次元が違いすぎて、理性での理解に限界を感じるところです。時に、神の存在を疑いたくなるような出来事に遭遇すると、この点を自問せざるを得ない状況に至ります。 結論としては私にとって神様というのは「こういう存在だ」と断言することはできない方です。意思がある、とも言えない、ないとも言えない。ただ、消去法ですが、こうではないはずだと考えることはできます。もし全能なら、、、きっと悪い方ではないはずだと。そして善なる方であるとするなら、未熟で限界のある私たちが考える善悪とは異なる尺度で、私たちをもっと良い方向に導かれるのではないかと思っています。そう感じることは日常でもよくあります。我が子に欲しいものを何でも買ってあげることも愛情ですが、そうせずに節制を学ばせる事も大きな愛情です。何が本当に人にとって良いものか、私たちが理解できない、もっと深い次元で、導かれる方かなと思います。次の言葉がそれをよく表現しているかなと感じたので引用します。 ヘブライ人への手紙 / 12章 11節 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 決して答えにはなっていなくて恐縮ですが、一有神論者の考えとして参考になればと思います。

momonemu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます^^ >1点目:神を信じる理由について >難しい哲学や神学には詳しくないので 私が知りたいのは個人の見解なので Paulusさん自身の認識だけで十分参考になります。 自然の人の力の及ばぬ大きさや美しさから 神を感じるという感じでしょうか。 2点目:補足について なるほど、私も神様を考えてみるときは消去法で考えてますねw 自然(そのもの、現象、法則)に対する認識の違いが 信じられるか信じられないかのひとつの境目なのかもと思いました。

その他の回答 (3)

  • mota_miho
  • ベストアンサー率16% (396/2454)
回答No.4

人類はいずれ滅亡します。宇宙の広い空間の中に生命体があるとしても、それらも一時的な存在にしかすぎません。知的生命体が築き上げた科学知識や文化的成果もすべて無に帰します。 宇宙の姿も、何百億年、あるいは何兆年かの長い長い時間の経過とともに大きく変容していくでしょう。 そして、それらを見守っているのが創造主。---このように考えると私の心はちょっと落ち着きます。なお、私は無宗教です。  

momonemu
質問者

お礼

なるほど、信じているというより信じたいという感じでしょうか。 ちょっと違いますけど俺は人類の存亡とか比較的どうでもいいのですが 死んだあと天国とか来世とかあったらいいなーとは思います。 人口の激増とかはどう説明するんだよとか考えちゃてまったく信じられませんけどね(笑)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

アインシュタインは、もしかすると宇宙には意思が あるのかもしれない、と言っています。 私もその程度なら、あるかな、という感じですね。 それ以上に、キリスト教やら何やらの神、というのは 信じていません。 信じている人が信じられません。

momonemu
質問者

お礼

自分も科学的思考をすると神を100%信じることは絶対にできないな、とは思いますね。 思うに大多数の、宗教を信じる人は宗教そのものを信じているのではなく 宗教を教える立場の人を信頼することによって神を信じているのではないかと。

回答No.1

存在自体は信じてません。親がモルモン教徒なので生まれた時から教会に行っていたのでそれなりに神という存在の事は知っていました。証拠はハッキリ言って無いです! でも子供ながらに神はイエスキリストだけではないと思い始めた頃から、教会に行ってませんし今は特に信仰してる宗教はありません。信仰してる宗教はないですが批判もまったくしていません。中にはちょっと怖いなと思う宗教もありますが関わりのない限り批判はしていません。 色んな宗教があって色んな神が居ていいじゃないかと思っています。私の考えでは神というのは存在はなく人間が想像でつくった架空の“モノ”の事です。 私達が人間だからその“モノ”は“人”であり“神様”になったのかななんて思っています。多くの宗教では人間の姿をしていますしね。(こんな事言ったら神を信じている方々に申し訳ない言い方ですがお許しください) 人間は感情があり弱い生き物でもあるから生きて行く中で神という存在が必要で神によって救われると思えた方が幸せと思える動物なんだと私は思います。 神という字は示すに申すと書きます。漢字通りの意味や役割をしているのだと思います。 質問者様の、「この世界は実験場かゲームのようなもの…」 とても共感出来ます! 宗教の事で悩み苦しんだ頃私も同じように考えていました(笑) なんだか質問が気になったので私なりの考えを書いてしまっただけで失礼しました。

momonemu
質問者

お礼

回答ありがとうございます^^ 子供の頃から疑問に思っていた人は 結構似たような考えを持つ人が多いのかもしれませんね また別の質問する機会でもあれば もう少し色々とお話してみたいですw

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